鎗ヶ崎の交差点⑩
知花から連絡があったのは、それから数日経ってからのことだった。あれだけの格差を感じながらも僕はまだ彼女が好きで、急な誘いにいつものように応じて恵比寿で食事をすることになった。
待ち合わせたのは恵比寿駅の近くにあるメキシコ料理屋だった。ガーデンプレイスの夜景が見えるメキシコ料理屋で金のない僕が知っている精一杯いい店だった。
知花はいつも通り美しかった。黒く少しクセのある髪の毛をおろした彼女は外人のような顔立ちと相まって独特の存在感があった。ホットパンツから延びた足は少し肉付きがよく妖艶だった。
何よりも僕は彼女の声が好きだった。少し甲高く優しい声は彼女のしっかりとした見た目よりも儚げで、そのギャップが魅力的だった。僕はいつもその声を聞くために、あまりメールをせずに電話をした。その声は今でも僕の耳に残ったままだ。
でもこの日は、全てを好きなはずの知花が憎かった。結局あの日、知花は僕の存在に最後まで気づかなかった。僕を探す事すらしなかったのだろう。
知花にとって自分はなんなのだろうか。頻繁に会って、抱き合って。はっきりと口にしていなくても僕達は付き合っているのと同じじゃないか。それなのに、なんで他の男と楽しそうに過ごして、僕の気持ちをわかってくれないんだ。
行き場のない怒りが僕の中にはあった。どんなに愛を示しても受け入れてくれない知花に苛立ちを覚えずにはいられなかった。
僕はこの日、彼女に全てを聞こうと決意していた。自分達の関係がなんなのかを。そうすることで、たとえ別れることになったとしても二人の関係をはっきりさせたかった。
当たり障りのない話をして食事を終えたあと、僕は知花に言った。
「ちょっと歩こう」
「うん。いいよ」
知花の笑顔を見てしまうと、決意が揺るぎそうになった。本当はわかっていた。大人の男性の友人達がいるのも、クラブで僕を探してくれなかったのも彼女に悪気はないのだ。
知花は何も悪くない。ただ僕が自分の不甲斐なさを気にして、劣等感に耐えきれないだけなのだ。できるなら、そこまで入れ込まず知花に合わせて会いたい時だけ会っていればいい。そうすればこの関係を続けることはできるだろう。
ただ僕はもう限界だった。会えば会うほど知花を好きになって、それに伴い自分が嫌になって、だけど彼女の全てを知りたくて欲しくて。でも知花は決して僕のものにはならない。
知花に会わない時も辛くてたまらなかった。自分以外の誰かといるのではないか。僕はいったい彼女のなんなのだろうか。不安ばかりが募って、音楽にも何にも手がつけられなくなった。
しかしこのままでは知花との距離は埋まらない。今の自分では埋める自信もない。だとしたら、別れて楽になりたいと思っていた。どんなに泳いでも進まないゴールが近づかない海の中を泳ぐことに疲れ果ててしまったのだ。
僕達は店を出ると初夏の風が吹く駒沢通りを代官山方面に歩いた。
「気持ちいいね」
歩いている途中で知花が言った。僕は彼女のか細い背中を見つめながら抱きしめたい衝動に駆られていた。
「ねえ、なんか話して」
初めての夜と同じ言葉を知花が言った。僕は甘い記憶を必死にかき消して彼女に言った。
「あの佐々木って人と付き合ってるの?」
「え?急にどうしたの?」
知花は不快感を隠しはしなかった。その表情を見たときに、僕は全ての終わりを悟った。
「いや、いつも一緒だから」
「まさか。あの人はただのおじさんの友達」
「その割にはこの前のクラブで楽しそうだったね」
「いつもあんな感じだから。どうしたの?」
断然たる事実を告げられて、僕は言葉を失くした。何もないと言われてしまえば、それ以上何を聞けばいいのか。
「この前の渋谷のクラブ。俺もいたんだよ」
「知ってるよ。だって私がゲスト取ったんだし」
「だったら、少しは会いたかったけど」
「違う友達といるって言ったでしょ?」
「それはそうだけど」
僕らはしばらく駒沢通りを無言で歩いた。すれ違う幸せそうなカップルを恨めしげに見つめながら、僕はこの話題の終着地に辿り着くことを恐れていた。そして、時間を元に戻したいと願ってもいた。すると知花が唐突に言った。
「そうだ。来週からみんなでスペインのイビサ島行くんだ。二週間くらい」
ことも無げに言った知花の言葉を僕はまったく理解できなかった。
「何それ?佐々木さんと?」
「みんなでね」
僕は苛立ちと嫉妬を隠すことができなかった。そこまで自分が彼女の中でどうでもいい存在だと言うことに怒りすら覚えた。
「俺は君のなんなんだ?」
すると知花はとてもめんどくさそうな表情を浮かべた。僕は全ての失敗に気づいたがもう遅かった。
「そう言うの、めんどくさいかも。もう会うのよそう」
僕達は鎗ヶ崎の交差点の信号で立ち止まった。僕は苦し紛れに言った。
「俺とちゃんと付き合ってはくれないのかな」
しかし知花は「ごめん」と言って僕を置いて信号を渡って行った。僕はあまりにあっけない終わりに途方にくれて、知花の背中を見つめることしかできなかった。
ふと視線をあげると、交差点を囲むビルのガラスに描かれているパンダのイラストが目に入った。パンダは交差点に残された僕を見下ろしていた。あざ笑うかのような表情を浮かべて。




