第三七話「陣風!!」
閃電に続く日本軍の野望シリーズ。今回は川西の陣風です。
-フィンランドで機甲部隊が戦闘開始した頃、日本では此頃、急速に陳腐化しつつある零戦に変わる制空戦闘機の開発が急がれていた。1943年、川西飛行機は2年前から紫電改の開発と同時に制空戦闘機の開発を行っていた。それは史実では中止された十八試甲戦闘機「試製陣風」。この機体は度々凍結・再開を繰り返した。十七試陸上戦闘機・十八試甲戦闘機と移り変わり、紫電シリーズの後継機として候補に挙げられた。新史では中島の「天雷」が計画段階で破棄されたので(中島飛行機の主な開発方針が疾風・流星とジェット戦闘機の開発にシフトしたためもある)、陣風は有力機種に踊りでた。軍の方針も大東亜戦争に備えて「旧史で活躍したか、有望であった機種を開発する」にシフトしたので川西は俄然、開発を推進した。2年の歳月をかけて作られた試作機がハ42に変わる次期主力発動機「ハ43」を試験的に搭載したうえで、模型による風洞試験を終えて完成していた。
-空軍 横須賀基地
「初飛行か……」
横須賀基地には航空審査部(旧・陸軍航空審査部。空軍設立の際に海軍艦上機などの試験も行うために組織を発展させた)の人員が来ていた。陣風の試験を行うためだ。そこには343から一時的に転属した黒江保彦少佐の姿もあった。
「これが川西飛行機の自信作か……」
「はい、試製陣風だそうです」
「坂井の奴は川西が次世代機を作っていると聞くとブーたれてたっけな」
「ああ、坂井三郎少尉の事ですか」
「アイツは零戦を愛してる一人だからな。零戦や鍾馗を作った中島と違って川西は戦闘機分野に入って日が浅い。奴いわく`飛行艇しか能のない会社に一流戦闘機がつくれますか`だそうだが、マクドネル・ダグラスの例があるからな」
それは戦闘機メーカーとしては川西飛行機が新参者である故の古参兵の揶揄であった。長らく日本の戦闘機開発は三菱と中島、もしくは川崎によって独占状態に等しい状態であったのでそれ以外のメーカーが作った戦闘機に信用が置けないのも当然であり、坂井三郎を始めとするベテラン達の心境が垣間見えた。だが、旧史ではマクドネル・ダグラスのように成り上がった企業も存在する。時には後発メーカーのほうが傑作機を生み出す事も確かだ。陣風の風体は改良によって多少小型化されたのでベアキャットにも似た印象をうけるが、日本機の流麗な特徴は引き継いでいる。素人が見れば`ちょっとだけ小型になった紫電改`と思うだろう。
黒江保彦は陣風の操縦席に乗り込み、整備が万全であることを整備兵に問う。次に計器に異状がないことを確認すると発動機を始動させる。プロペラが順調に周り、快調である事を示すエンジン音が響く。
「すげえ、一発でかかった!……昔とずいぶん変わったな……九七式や一式の頃なんぞ何回もかけ直したってのに……これが品質管理の威力か」
黒江はここ数年で軍の機材の品質管理が以前よりグンと改善された事を実感していた。例の`あの事`以前のモノはエンジンのスタートがうまくいかない事もザラであり、整備にもずいぶん時間がかかっていた。それが今ではエンジンは一発でかかり、新兵でもそこそこの整備が可能になった。良質な発動機が作れるようになったのはもちろん嬉しいが、何よりも前線の機材でも高稼働率を維持可能というのは戦隊の戦闘力を維持できるという意味でもありがたい。舗装された滑走路を飛び上がり、飛行試験に入る。水平飛行時の最高速度を調べるべく、零戦二二型・鍾馗・輸入したFW190のD型を使って試験を行う。
「さすがフォッケウルフは加速性がいい。……さて、こっちも全速だ!!」
加速していくフォッケウルフに対し、黒江は闘志を燃やし、スロットルを全開にしてハ43の最大出力をたたき出す。陣風は鍾馗を超えるほどの加速をしていき……フォッケウルフを追いぬく。最新鋭試作機の実力は凄い。計器によれば時速は703キロほどだ。紫電改よりも8キロ速い。
「速度は最高だ。次は格闘性能だな……」
テストでは加速性に優れるFW190が先に出るが、二分後には陣風に追いぬかれ、次いで鍾馗最終生産型(三型)とFW190が同じ位置、ビリッケツの零戦であった。
格闘性能はどうかというと、日本機のご多分に漏れずに欧米機より格闘性能は上。小型に高馬力エンジンの組み合わせは予想より良好。ベアキャットとも渡り合えるとの評判であった。ただしマルチロールという観点から見ればあまり小型でも困るが、ベアキャットよりは大型なのと、発動機が2500馬力と、高出力なので500kg爆弾を積むことは可能であった。着陸時の脚部強度は旧史紫電や紫電改の失敗を踏まえて、要求値の3倍以上の強度を持たせたので新兵が操縦を多少ミスっても大丈夫(FW190の影響を受けた)。ブレーキのきき具合も均等だ。次世代機として合格だ。急降下テストも800キロ以上の速度からでもびくともしない。三菱の雷電のノウハウが川西に伝わったのだろう。武装も20ミリが6丁以上なのも頼れる。黒江としては満足のいく飛行機であった。
-この日、陣風は採用が内示され、量産開始を44年の春から夏を目標にして開発が続けられる事になった。川西飛行機の思惑は見事叶ったのだ。これを皮切りに川西飛行機は川崎に継ぐ第4の戦闘機メーカーとして頭角を現していく……。