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傷で築いた絆の距離は 

 カランとドアベルを鳴らして店に入って来たのは、見覚えのある若い女性だった。

 その顔を見て、オレは短く悲鳴をあげた。

「あっ、やべっ!」

「ちょっとあなた、彰人! 彰人でしょ!」

「……ああ。久しぶり、伴子」

 入って来た女性はホスト時代、オレを指名してくれていた数少ない常連客のひとりである、一谷伴子いちや ともこであった。

 ホストクラブにいた女の子の誰よりも、哀しい瞳をしていた女性――。

 それにしても、今のオレはホストクラブ『シュリア』にいた時のナイスガイではなく、胸キュン女子高生のはずなのに……。なんでオレだとわかったのだろう。

「ちょっと彰人! いきなりシュリアにいなくなったと思ったら、今度はこっちに入店したわけ? っていうか何その恰好、何かに目覚めたちゃった?」

「あ~っら、可愛い子! 彰人のお知り合い? 座って座ってぇ」

 入り口で立ち話を始めそうなオレたちを、茂美がうまく誘導してくれた。

 しかし、伴子は立ち止まり、戸惑ったような顔で茂美に尋ねる。

「あの、ここっていわゆる女装バーですよね。純女じゅんめの私が入っちゃっていいのかなーって……」

「うちは男も女も、どっちでもない人も大歓迎のお店よ、遠慮しないで!」

 そう言うと茂美は伴子をソファーに座らせて、オレに軽くウインクしてみせる。さすがに手馴れたものだ。それにしても、純女ってなんだ?

 オレは伴子に耳打ちした。

「なぁ伴子、純女ってなに? どういう意味?」

「はぁ? あなたその意味も知らずに女装バーで働いているわけ?」

「いやまぁ、ワケありで……」

 ふうっ、とため息をつくと、伴子が口を開いた。

「純女っていうのは純粋な女って意味。ここは女装バーなんでしょ? つまり、女装を楽しむ場所なワケじゃん。そこに普通の女が出入りしたら、気軽に女装を楽しめないってひともいるかもしれないじゃない」

「なるほど、それで入っていいか聞いたのか。そうか、純女、純女……」

 純女、覚えた。これでひとつ女装バーについて賢くなったぞ。

 心の中で頷いたオレは、改めてソファーで伴子と向かい合う。

「それで、えっと、その……よくここがわかったな。伴子」

「なぁに緊張してるのよ、相変わらずね。あ、ママ! 私カシオレで、彰人のぶんもよろしく!」

「えっ、オレも?」

「いいじゃない、ちょっとくらい付き合いなさいよ。お願いね!」

「オッケーよぉー!」

 茂美が伴子の注文を受け、カウンターに引っ込んだ。

 グラスのなる音が聞こえる。古賀がすでにドリンクを作り始めているのだろう。

 それでも茂美が奥に下がったということは、伴子にはオレが応対しろという事か。

「それにしても、びっくりしたわ。私がさっきお客さんを駅まで送っていったらさ。この店から女装した彰人が出てくるんだもん」

 なるほど、そんな偶然があってここに来たという訳か。

「お店に連絡もぜずにシュリアを無断で抜けたと思ったら、ここで女装して働いてたりするんだもんね。彰人ってばなにがあったの?」

 伴子は長い黒髪を指で弄びながら、嬉しそうにオレに笑い掛ける。

 左の頬を隠すようにして微笑む、伴子の癖。ホストクラブのころと何も変わっていない。

「伴子には心配させて悪かった! 説明しにくいけど、なんか色々あってな」

「へぇ、訳ありなのね。それにしても、女装とっても似合ってるわよ。彰人ちゃん。そんな趣味があったなんて知らなかったなぁ、私」

「しゅ、趣味ってワケじゃないって!」

 伴子のあどけない唇が、優し気な笑みを浮かべる。白く細い手が、オレの左の太ももに触れた。

 懐かしい感触。ホストクラブでも、彼女はこうしてそっとオレに触れているのが好きだった。目の色は心なしか、前に会っていた時よりも明るい。

 確か、歳は二十歳を少し過ぎたくらいのはずだ。

 それでも伴子の振る舞いは、堂々としたものである。ホストクラブでも、物怖じしない客であった。

「メイク上手じゃない。どこかでこっそり練習とかしてたの?」

「これは茂美……そこのママに強引にメイクされて。オレはなんにもしてないよ」

「へえ、こんなに似合っているのに、もったいないわよ。そうだ、今度私がお化粧の仕方をきちんと教えてあげようか?」

「えっ、ホントに!?」

 伴子にメイクを教われば、今よりもっと可愛くなれるかもしれない。

 思わず聞き返した声は、自分でもわかるほどに弾んでいた。

 伴子もまた、夜の世界の住人であった。

 職場を変えていなければ、ドクターストップよりも駅から向かって奥の方にある落ち着いたスナックに勤めているはずだ。仕事柄、メイクもバッチリである。

 何より伴子のメイクは、他のどの女性客よりもオレ好みであった。

 夜の仕事にふさわしくしっかりと濃い化粧のはずなのに、どこかナチュラルに見える。クド過ぎない優しい印象の不思議なメイク。

「伴子のメイク、教わりたいかも。でもオレ、とりあえず今日一日だけの拾われ従業員なんだ。だから、女装する事はもうないかなぁ」

「拾われ? どういうこと?」

「ほんとに道ばたで偶然拾われたから、説明は難しいんだけど……」

「さっきからはっきりしないなぁ彰人は。あなた相変わらずの優柔不断なわけ?」

 伴子が首をかしげてニコリと微笑み、オレの顔をのぞき込む。

 伴子のやつ、なんだか今日は随分機嫌がいいらしい。

「今日はなんか、いつもより明るいな。伴子」

「鈍感なのも相変わらずね。一応これでも、彰人のことずっと心配してたんだからね」

「えっ? オレの事を?」

「だって、急に店からいなくなってさ。流星くんも連絡がつかないっていうし」

 流星さん、シュリアのホスト兼マネージャーである。

 通称シューティングスターさん、通称の方が長いのはご愛嬌。あの店には似つかわしくない、温和で面倒見の良いひとだ。

 ふんぞり返るだけで何もしない社長や、威張り散らして後輩をいじめるだけの先輩たちのなかで、唯一オレにきちんと仕事を教えてくれたひとでもある。

「拾われっていうのはよくわかんないけど、名前は彰人のままでここでも仕事してんの?」

「うん。っていうか名前なんて深く考える暇もなかったっていうのもあるけど、そのまま彰人だよ」

「ふふっ、てっきり彰子にでもしているかと思ったわ」

 伴子のいたずらな微笑みに、オレはちょっと拗ねた顔で反論した。

「オレは別に、女装する予定はなかったんだよ!」

「でもメイクは興味あると?」

「うっ! それは、その……実際やってみたらちょっとだけ興味が出たというか……」

 図星をつかれて尻込むオレの頬を、伴子が白魚のような指でイタズラに突つく。

「相変わらずわかりやすい子ね~、彰人ちゃん」

「くっそぉ……」

「はぁ~い、オカマのカマオレ『カマすオレンジ』出来上がりよぉ!」

 ナイス茂美、その空気の読まなさが特にナイス。

「やだ、なにそれ! ママ面白~い!」

「そ~よぉ、ママってば面白いのよぉ!」

 カマオレをオレたちの前に置いた茂美が、そのまま向かいの席に座る。

「それじゃあ、彰人。運命的な再会を祝してかんぱーいっ!」

「運命的って、おおげさだな。かんぱい」

 茂美の持ってきたカマすオレンジはすでにマドラーでかき回されていて、薄紫色をしていた。グラスを傾けると、かすかに重みのある液体が唇に触れる。甘いカクテルは正直あまり得意ではないが、グイッと飲んでいる伴子に負けじとゴクリと飲み下す。

「これは――」

 カシスリキュールの甘い飲み口とともにやってくるのは、オレンジの圧倒的果汁感。

 おそらく市販のオレンジ百パーセントジュースのみならず、実際のオレンジをしぼっているのだろう。唇に触れた『重み』は生絞りならではのもののはずだ。

 オレンジは結構酸味が強く、カシスの甘さをほどよく調和していた。そして何よりも特徴的なのが後味である。甘さと酸っぱさのハーモニーが終わった最後に、ほんのかすかな苦みが残るのだ。

「これは、オレンジの皮か!」

 茂美の怪力によってしぼられたオレンジは、果実と皮のギリギリの部分まで絞り出されているのだろう。それによってひとくち飲み終えたあと、わずかな苦みが口に残りしつこい甘さや口の中がひりつくようなすっぱさを爽快に消し去っている。

 一口飲み下しただけで、甘さと酸っぱさとほどよい苦さが味わえる本格的カクテル『カマすオレンジ』こいつは確かに一発かまされたような気分になった。

「すごーい! ママ、これとっても美味しい! 甘いだけじゃなーい!」

「そうよー、うちはカクテルだって一味違うのよー!」

 カマすオレンジを飲むオレと伴子の顔を見比べると、茂美がニヤリと笑みを浮かべわざとらしく手の甲を口にあてた。

「ねぇねぇ、さっきから見てたんだけどぉ……。二人ってもしかして、とってもいい関係?」

「おい、茂美! いきなりそんなこと聞くか普通!?」

「いいのよ! っていうかママ聞いて! 私ね、以前彰人にふられちゃったの~」

 伴子が泣きまねをしながら、茂美に顔を寄せる。

 髪の奥に隠れた左の頬に一瞬、影のようなものが見え隠れした。

「ん~っま! 彰人ってばこんな可愛い子を振るなんて!」

 茂美の目がLEDライトのように力強く光を発した。

「 ま さ か! 彰人って、実は女の子に興味が無いタイプ!?」

「ほう」

 おい古賀、そこで身を乗り出すな。

「違うって! そういうのじゃなくて!」

 慌てて弁明しようとするオレのあごを、茂美のゴリラハンドが掴む。

「ふんがっ!」

「ふえ……あがっ!?」

「詳しいお話は、伴子ちゃんから聞くからね~、彰人は待・て☆」

 待てなら待てと口で言え、これは待てというより殺しに来ている。

 と言いたかったが、茂美の巨大な手に抑え込まれた口は「こえあ、ころひにひへいふ」というわけのわからない音しか発することが出来ない。ゴリラハンドは防音機能付きらしい。

 相変わらず肉肉しくも憎々しいハイスペックさである。

「そ れ で! 彰人の奴ってば、どんな風にあなたを振ったの!?」

「それはね、あのねぇ」

 伴子が目をキラキラとさせて泣きまねをしながら喋りはじめる。

「私がね、酔ったふりをして帰り際に、もう疲れた! 仕事つらい人生もう無理、私今日は帰らない! って散々ダダこねて~」

「うんうん!」

「しぶる仕事上がりの彰人をね、アフターで連れ込んだの!」

「連れ込んだっていうと、やっぱり……」

 茂美の目は爛々と輝きだした。まさに野生の獣の目。

 人の色恋話でゴリラの野生が目覚めるとは意外である。

「うん、ホテル!」

「いやぁん! 伴子ちゃんってばかわゆいお顔で積極的ぃ!」

 ホテルと聞いて身悶える茂美の手のなかで、ライターがいとも簡単に握りつぶされる。

……握力強すぎだろ。

「でね。私がいざベッドに入ったら、彰人ってばさ……」

 ああ、思い出すだけで恥ずかしい。

 あの時、オレは伴子の目と声が余りにも弱弱しかったせいで、疲れたという言葉を真に受け過ぎたのだ……。

 心配しすぎたオレは、ホテルの休憩時間中、することもしないでずっと伴子を看病したり、マッサージしたり、頭を撫でて励ましてみたり。これが特別なお誘いと気付くことさえなく――。

 女に恥をかかせるとは正にこのこと。

 伴子の言葉で甦る我が黒歴史。

 古賀がカウンターの奥で口を抑えて震えている。茂美なんて大爆笑だ。

「んもう、あの時は彰人に思いっきり赤っ恥かかされちゃったわ~。挙句の果てに、嫌味のつもりで別れ際に『彰人、案外真面目なんだね』って言ってやったらさ、彰人ってば嬉しそうに照れて笑ってやんの」

「あれは、本当に悪かったって! あんときはいっぱいいっぱいで、ホテルで休むっていうのがほんとにひと休みだと思って、それで!」

「彰人! あんた女心わかって無さ過ぎよぉ! おっかしぃ!」

「だよねママー! 失礼しちゃう!」

 伴子は、ホストクラブに遊びに来ていたころよりもよく笑った。

 彼女のなかで、何かが変わったのだろうか。

 それとも本当に心配してくれていて、オレに会って気が緩んだだけだろうか。

 いくら茂美が相手の心をほぐすのがうまいといっても、さっきまでカウンターでオレたちを見ていただけだ。それでもやはり、伴子の雰囲気はいつもより明るい。

 何が変わったのだろう。

「なあ伴子。なんか変わった?」

「それ、こっちのセリフだよ彰人」

「へ?」

 思わぬ言葉を返されてポカンとするオレに、伴子は微笑んでみせる。

「彰人、シュリアに居た時よりずっと楽しそうだし、すごく穏やかな目をしてる」

「そうかな?」

「うん。胸のつかえがとれたみたいな顔。あっちのお店ではいっつも冗談ばっかり言う癖に、辛そうな表情をしていたもの」

 伴子のほうこそ。そう思ったとき、伴子と目が合った。

 じっと見つめる伴子の目の色は、やはりいつもよりも穏やかだ。

「相手の目をじっと見るの、彰人の癖だよね」

「え?」

「目ってさ、不思議だよね。目をじぃっと見ると、相手の目の中に自分が映ってる」

 伴子が、顔を近づけてくる。

 左の頬の隠していた影がちらつく。ふんわりと甘い香りがオレの鼻腔をくすぐった。

 伴子の大きな瞳の中に、戸惑った顔のオレが見える。

「私思うの。目は鏡なんじゃないかなって。彰人がさ、ホテルで何もしないで過ごした日、私の目が哀しいって言っていたよね」

「……覚えてたのかよ」

「忘れないよ」

 伴子の右手がオレの頬に触れた。心地よいくすぐったさに、かすかに身をよじる。

「きっとね。私の目の中に居る彰人がとっても哀しい目をしてたんじゃない? だから、彰人は目を見る人は皆、哀しい目に見えちゃうのよ。だって……」

 伴子の顔が、ゆっくりとオレと重なった。

 ほんの一瞬の出来事。

 慰めるような優しいキスは、そっとオレの唇から遠ざかってゆく。

「彰人の目、私が出会ったひとの中で一番哀しそうだったよ」

「オレは、哀しくなんか……」

 あの日みたいに哀しい目をした、伴子。

 その大きな瞳の中には、ずっと哀しい目をしたオレがいたのだろうか。


 でもな、伴子。


 オレを見る誰も彼もがどうしようもないほど哀しい目をしているわけじゃない。

 伴子はシュリアに来るひとたちの中でも、一番哀しい目をしていた。あの場所は、オレ達のいたホストクラブは哀しさの吹きだまりだったよな。

 そこから勝手に逃げ出した今のオレに、いっちょ前に哀しい目をする資格なんかない。

 オレに出来る事は、きっと……。

「哀しい目は、変えることが出来るって知ったんだ。だから……」

 オレの目をまっすぐに見る、伴子の切れ長の瞳。

 茂美がくれた言葉たちを思い出す。

 伴子の心がささやく声に、耳を傾けるんだ。

 オレはそっと、伴子の左の頬に手を伸ばした。

「彰人?」

 頬に触れるオレの手のひらに戸惑うように、伴子が首をかしげる。

「やっぱり目立つかな、私の頬」

「ううん、そんなことない」

 頬に触れるオレの手に伴子が手を重ねる。

 滑らかな頬の表面には、ほんのわずかに斜めの影が走っていた。

「気になる?」

「伴子って、いつも左の頬を隠す癖あるからさ」

 うまく言葉に出来ない。

 伴子もさっきまでいた野木さんのように、この店に心の重荷を少しでも降ろしていけたらと思った。彼女の頬に、そしてきっと心にものしかかる影を、少しでも振り払うことは出来ないだろうか。

「ここにはね、消えないキスマークがあるの」

 そっと手を振りほどき、伴子がバッグからウエットティッシュのようなものを取りだす。『メイク落とし』の文字がチラリと見えた。

 シートをそっと左の頬にあてる伴子。

「彰人になら、私の秘密を見せてあげる」

 いたずらに微笑むと、伴子がメイクをふき取った頬をオレに差し出した。

 あらわになった頬に斜めに走る細く黒ずんだ傷痕が現れる。

 頬骨の辺りから顎のラインに走る長い傷痕が、伴子の黒髪を泳ぐように動いた。

「びっくりした?」

 伴子の伏せた目元に、長い睫毛から憂いのある陰が伸びる。

 彼女は今、頬の傷とともに心の傷を見せようとしているのだろうか。

「うん、ちょっとだけ」

 意識してだした明るい声は、自分でもわかるほどにかわいていた。それでも、伴子の胸の痛みを少しでも軽くしたいと思った。

 無責任で勝手な使命感だとわかっている。

 でも、ホストクラブでいつもオレを指名してくれた伴子には、あの場所で出来なかったことを今こそきちんとやり遂げたかった。

「やぁね彰人、泣きそうな顔しないでよ」

「してねーよ!」

「ふふ、いいけどね。別に」

 向かいの席にいた茂美は、いつの間にかカウンターでタバコを吸っていた。

 茂美なりの気配りか……。カラッ、と氷だけになったグラスが冴えた音を響かせる。

「これね、お母さんが私につけた傷なの」

「えっ、伴子の母親が?」

「小学生の頃にね。未だに消えないわ」

 小学生の頃に、親に消えないほどの傷をつけられる。

 それがいったいどれほどショックで恐ろしいことか、オレには想像がつかなかった。

「さっき伴子が言ったキスマークっていうのはどういう意味?」

 伴子が自分の髪を撫でる。

 束の間、傷痕が黒い艶の中に消えた。

「お母さんはね、優しい人だったけど大の男好きでさ。私が産まれてからも頻繁に男が変わっていたわ。ほんとしょうもないんだから」

 伴子の指先が、そっとコップのふちをなぞる。

「それでね。小学生の時にうちにいた奴が、どうしようもない変態男でね。そいつ、お母さんのいない時に私を組み敷こうとしたの」

「そんな!?」

「平気よ、泣きそうな声出さないで。……幸い何かされる前にお母さんが帰ってきて、男は慌てて出ていったけどね。大変なのはその後だった」

「まさか……」

「『あなたのためよ』って言ってね。切ったの、ここを」

 伴子の指が傷痕をなぞる。

 微笑みは、顔に張り付いている仮面のように動かない。

「お母さんは女のまま母親だった。だから、大好きな男を遠ざける事なんて出来はしない。それでも娘を男から守るために、娘の顔を切った。何か所もね」

 小学生のころからキズ物なの、そう言って伴子が笑う。

 かける言葉が見つからない。

 自分の無力さが、胸を締め付けるほどに苦しかった。

 だけど今、伴子はオレに心の傷を喋ってくれている。

 一言だって、それを聞きのがすわけにはいかない。オレに出来ることは、伴子の露わになった傷をそっと包み込むことなのだから。

「中学生になったとき、私聞いたのよ。どうしてこんなことをしたのかって。そしたらお母さんね、女の顔で笑っていったの。『伴子を守るキスマークよ』って」

 女であり、母親。

 母親であり、女。

 きっと、成り立たないわけではないのだろう。

 けれど、決して混じり合わせていいものでもない。

 伴子の母親は、何を思ってそんな言葉を告げたのだろう。どんな気持ちで伴子を傷つけ、育てたのだろう。

「女と母親……」

 男には、わからない世界なのかもしれない。そんな風に弱気になりかける自分がいる。けれど、わきだしてくる怯む気持ちには負けたくなかった。

 言葉が出てこないのは、オレが未熟なだけなのだろうか。

「お母さんはさ。母親としては私を愛してくれたと思う。だけど、女としては私に嫉妬していたのかもね」

「お母さんのこと、今でも恨んでる?」

 ずっと奥で黙っていた茂美が口を開いた。普段の喋り方とは違う、静かな声だ。

 伴子は小さく首を左右にふった。

「昔は憎かった。だけど、女として嫉妬しながらも母としては愛してくれたお母さんだから。辛かっただろうなって今は思う。お母さんの心境を考えてその葛藤を思うと、とっても哀しいの」

「強いのね、あなた」

「ううん、そんなことない」

「強いわよ。誰かを憎むのは案外簡単だけどね。受け入れて哀しむのは、とっても難しい。それが出来ているのだから立派なものよ」

 茂美の言葉を、頭の中で反芻する。

 伴子は、憎しみをたったひとりで乗り越えたのか?

 伴子は母親を憎んでいい、それだけのことをされている。オレはそう思う。

 憎んで当然じゃないか、消えない傷を女の子の顔に、しかも親が残すなんて。

 でも、母親の気持ちを思い哀しむことの出来る伴子は……。

 茂美の言う通り、本当に強い人間なのかもしれない。

 そんな彼女に、今のオレが出来ることは――。

「伴子、オレ!」

「ぶえ゛え゛っぐしゅん!」

 古賀、ここで唐突な全力のくしゃみ。

 いやいや、そこでくしゃみする!?

 しかも『くしゅん』とかじゃなくてさ、なんなんだよその音は。

 明らかに腹から声出してるだろそれ。

「こほん、失礼いたしました」

「ぷっ! ちょっとぉ、ボーイ君ひっどいくしゃみ!」

 不意に、伴子が噴き出す。その顔は先ほどまでの仮面のような悲しい微笑みではなく、いつもの笑顔に戻っていた。

「あ、もうこんな時間? 伴子ちゃん、朝ごはんは?」

「食べてないの。沢山話したらお腹空いちゃった。彰人、メニュー取って」

「あ、ああ」

「どれにしようかな~」

 フードメニューに目を落とす伴子。

 その視線を追って、オレもメニューに目をやった。

 そういえば、まだきちんと見た事がないんだよな、メニュー表。

 ああ、古賀のくしゃみで緊張が解けたらなんだかオレも腹減った。どんな料理があるのか……ん……?

「うわ……」


~茂美的☆フードメニュー 1ページ目☆~

・カマ焼きピッザァ キノコと貝の大人のハーフ&ハーフ

・カマ~ンベール……ハイ!チーズ☆

・赤裸々明太マヨネーズのフライドポテト

・和牛と黒豚のワケ有り合い盛り肉丼

・自家製! 新鮮とろろ定食(数量限定)

・カマ茹でうどん ~オコゲを添えて~

・茂美プレゼンツ乾きもの詰め合わせ

・ドキドキ生物! 一糸まとわぬ季節の刺身の盛り合わせ

・茂美にぎり(梅、鮭、こんぶ、おかか、カマボコ、他)

・茂美茶漬け(梅、鮭、海苔、大人の侘び寂びワサビ)

・バナナ


 メニューづくり、後半、絶対飽きただろこれ。

 しかも最後お前の主食じゃねーか。

「伴子、あの、いろいろ斬新なメニューだけど、このなかでなにか食えそうなものある?」

「ママ! これ全部一個ずつ!」

「嘘ぉ!?」

「はいよろこんでー!」

 意気揚々とカウンターに向かう茂美。

 古賀はすでに奥に引っ込んで調理を開始しているようだ。

「このお店、面白いメニューね」

「そ、そうだな。……なんか、ごめん。折角色々話し始めてくれたのに」

「ううん、彰人に話せて良かったよ。ありがとう」

 謝りかけたオレを制して、伴子がにこりと笑った。目の色からも表情からも、伴子の気持ちは垣間見えなくなっている。

 また彼女が心の傷を見せてくれる日が来るだろうか……。

「おら彰人! どんどん出来るんだから、アンタも運ぶのくらい手伝いなさい!」

 思い悩んでいたオレの視界に、大皿とバナナを抱えたゴリラが迫っていた。


……


「ご馳走様! とっても美味しかった!」

 伴子が手を合わせた先では、ほとんどの料理がたいして減ることもなくテーブルに所狭しと置かれていた。

 当の伴子はさっさと茶漬けを平らげて、ふぅと一息ついてしまったのだ。

「そろそろ行こうかな~」

 伴子はわざとらしく腕時計に視線を落とした。

 時刻は八時五十分を回っている。目ざとく店の営業時間をチェックしていたらしい。

「ママ、ボーイ君、またね。彰人、お店の外までお見送りして~」

 茂美と古賀に手を振り、伴子がオレの手を取って立ち上がる。腕に手を回し、身体をくっつけてきた。そのまま歩きにくい姿勢で玄関まで進む。

「なあ伴子。また、ここに来るか?」

 店の外に出たオレが聞くと、伴子がおかしそうに笑った。

「もしもまた来たら、そのとき可愛い彰人ちゃんはここにいるの? 今日だけの拾われ従業員なんでしょ?」

「あっ、そうだった……」

 結局、オレはホスト時代からずっと、伴子に何もしてあげられなかったのか。あれだけ指名して貰って、今日だって心配して来てくれたのに。

 黙り込んだオレのブレザーの胸ポケットに、伴子が何かを差し込んだ。

「プライベートのアドレス付きの名刺。別に連絡しなくてもいいけど、いちおう彰人に渡しとくね」

「貰っちゃっていいのか?」

「当たり前でしょ。……じゃあね」

 ヒールを履いていた伴子が、ちょっと背伸びをしてオレの頬にキスをしてささやいた。

 甘い香りとともに、伴子が振り返りもせずに去っていく。

 その姿が見えなくなるまで、オレは店の前で見送っていた。

「伴子は、強いな」

 スカートに吹き込む風が冷たい。

 オレはこうして女の子の恰好はしていても……全然女の子の気持ちをわかってあげることは出来ないのだろうか。

 街はもう、すっかり夜の事なんか忘れて朝の顔になっている。

 朝の街のなかに、ひとりきり夜の空気をまとった伴子がさっそうと消えていく。

『話せて良かったよ』

 耳元に残る伴子の言葉を抱きしめて、オレは名残惜しさを振り切るように店に戻った。


「おかえり彰人。はい、箸」

 戻ったオレに茂美が箸を差し出した。

 古賀も茂美もテーブルで、伴子が残したメニューをがつがつと食べている。

「お前ら、あのさぁ」

「これ」

 あきれながらソファーに腰かけると、茂美が一枚の小さな便箋をオレに渡した。


『ママ、ボーイ君、彰人。ありがとう!

 とっても楽しかったよ。頼んだメニュー、冷めないうちに皆の朝ごはんにしてね』


「あいつ……」

「良い子ね。お茶漬けの椀の下に置いてあったわ、あとこっちも」

 茂美がオレに差し出したのは数枚の万札だった。

「会計には高すぎるお金よ。ほら彰人、ありがたくとっときな」

「でもそれは……オレには受け取る資格なんか……」

「ばーか。お前に渡したかったんだよ、あの子は」

 古賀がオレのブラの谷間(偽造)に、茂美が差し出した万札を押し込む。

 ついでに首筋をなでられた。古賀、お前指冷たいよ。

「そうだ古賀、あの時のくしゃみはなんだよ!」

「んっ? 勿論わざとだが」

「お前なぁっ!」

 立ち上がりかけたオレの身体を、茂美の巨大な手が制した。

「彰人、焦っちゃダメ。傷っていうのはすぐに治るものじゃないでしょ。ちょっとずつね」

「ちょっとずつ?」

「オレ達とあの子は客と店員だ。ずっと一緒って訳じゃない。深い傷は、あんまり一度に掘り返さない方がいい」

「どうしてさ、せっかく心を開いてくれたのに」

 テーブルに身を乗り出すオレに、茂美は真剣な眼差しを向けてくる。

「彰人、アンタあの子の心の傷をここでぜんぶさらけ出させて、それを背負って伴子ちゃんと一緒に生きていけるの? 違うでしょ。お客さんが店を出たら、私たちに出来ることはないのよ」

「だから、少しずつなんだ。今日は伴子さんが自分の心の傷を彰人に話すことが出来た。最初の大きな一歩ってわけだ。それ以上つらい思いを語らせても、オレたちにケア出来る時間はなかった。次にドクターストップに来てくれれば、そのときはもっと踏み込んだ話をすればいい。彰人、焦るな」

 古賀も静かに、オレをたしなめるように続けた。

「あ、そうか。伴子も確認していた、閉店時間……」

「そういうこと。だからあそこが良い切り上げ時よ。史明、ナイスくしゃみだったわ」

「任せろ、くしゃみとあくびはいつだって自在に出せる」

 やれやれ、こいつらは――くしゃみさえも、計算済みか。

 どれだけ人の悲しい目や心の傷に触れていけば、彼らみたいになれるのだろう。

 とても、今のオレにはかなわない。

 未熟な自分自身に出来ることは、いったいなんだ? どうしたらいいんだろう。

 伴子の残した料理。両手を合わせ、目を閉じる。

「伴子、いただきます!」

 心のなかでもう一度お礼をいって、オレはテーブルの料理に箸を伸ばした。

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