65話
「昨日、なんで途中で帰っちゃったの?」
「聞きます? それ」
今日は雪乃先輩が家に泊る日ってわけではないのに、雪乃先輩は私の家に来てすぐに朝ご飯を作ってくれた。
白く湯気が立っている白いご飯に、甘くて黄金色の卵焼き。そのどれもが私の好きな食べ物で、朝から食べれることに心の底から幸福を覚えた。
(まぁ……雪乃先輩が作ってくれたものなら、何でも好きなんだけどね)
正直なところ、私は白いお米も、甘い卵焼きも好きではない。
もちろん、嫌いなわけではないし、口の中に入れるとおいしいとは思うものの、わざわざ好きと思えるほどのものではないだけだ。
だが、そこに雪乃先輩が作ったという付加価値が付くだけで話は変わる。
雪乃先輩が私に作ってくれたという事実だけで、心の奥底が温まり、どうしようもなく溺れてしまう。
もしかしたら、私はとってもちょろいのかもしれない。
だって、雪乃先輩が作ってくれたご飯を食べれるのなら、なんだってしてあげたいと思っているのだから。
「……言いたくないんですけど」
「そっか。それなら、わたしに何か出来ることはある?」
「もう解決したので大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」
すると、雪乃先輩は驚いたように目を丸くした。
私はただ感謝しただけなのに、何でそこまで驚くのだろうか。
「……なんですか?」
「何か変な物でも食べたの? 今日の澪ちゃんって、妙に素直っていうか……」
「ふざけたことを言うなら、今すぐに部屋から追い出しますよ」
雪乃先輩は「あ、いつもの澪ちゃんだ」と言い、目を細めて笑った。
その表情があまりにも自然で、あまりにも優しくて、少しだけ頬が熱くなる。
「……ごちそうさまでした。おいしかったです」
「お粗末様でした。澪ちゃんはいつも全部食べてくれて、作ったわたしとしては本当にうれしいよ」
「……出されたものを全部食べるのは当然のことでしょ」
米粒一つ残さずに完食すると、雪乃先輩に褒められてしまった。
食材を少しも無駄にしないなんて、当たり前のことのはずなのに、たったそれだけのことで褒められるのは居心地が悪い。
それに、雪乃先輩が作ってくれた朝ご飯なんだから、残すわけないじゃんか。
「あっ、洗い物は私が……」
「ううん、わたしは学校に行く用意は出来ているけど、澪ちゃんはまだ寝癖すら直してないでしょ、だから、洗い物はわたしに任せて、澪ちゃんは準備をしてて」
そう言われて頭の後ろの方に手を当ててみると、本来あるべきではない場所で髪が手に触れてしまった。
壊滅的に荒れているというわけではないけれど、今の髪型は誰が見ても気付くほど跳ねていて、それを雪乃先輩に見られてしまった。
(え、ちょっとまって。嘘でしょ……)
正面から見たら気付くことのできない寝癖であり、私は今このタイミングまで気づくことが出来なかった。
でも、今から言い訳をしたところで、雪乃先輩に寝癖を見られてしまったという事実は変わらない。
「ふふっ、寝癖がある澪ちゃんも可愛いよ」
「う、うるさい!」
逃げるように洗面台へと向かう。
鏡に映った私の顔は、まるでリンゴのように赤くなっていて、この顔を雪乃先輩に見られてしまったと思うと、その赤みはますます赤くなっていってしまう。
(……雪乃先輩のばか)
私の寝癖に気付いていたのに、今までずっと黙っていて雪乃先輩は、きっと私以上に性格が悪い。
寝顔は何度も見られていて、今更寝癖くらい見られたところでなんとも思わないのが普通なのかもしれないが、私にとっては、寝癖を見られるのは寝顔を見られることより恥ずかしいことなのだ。
だって、雪乃先輩には、少し立派な姿を見せていたいから。
「あ、澪ちゃん! タオル忘れてるよ!」
「え……あっ、ほんとだ。ありがとうございます」
「ストップストップ! 床に水滴が落ちてるよ!」
ただ少しから回っていて、私の立派な姿を見せられるのは、少々先になりそうだった。
「はぁ」
「どうかしたの?」
少し慌ただしい朝を終え、私は雪乃先輩と一緒に学校に向かっていた。
朝の陽ざしが雪乃先輩の透明なピアスに反射して、その一瞬の輝きが胸の奥に入って来る。
「いや、今日は駄目駄目だなって。いつもなら、もっとマシなのに」
「確かに、今日の澪ちゃんはミスが多いかもね」
寝癖を見られたり、タオルを忘れたりしたことだけじゃない。
ピアスをつけてるはずなのに、何故かピアスを探しまわったり、焦りすぎるあまり壁に小指をぶつけてしまったこともあった。
こんなにどんくさい姿は、今まで雪乃先輩に見せたことが無くて、どこか失望されてないかと恐れてしまう。
けれど、雪乃先輩はそんな私を見ると、手を顎に当てながらころころと笑っていた。
「なんで笑っているんですか?」
「だって、こんなにも感情豊かな澪ちゃんを見るのは初めてなんだもん。今の澪ちゃんの方が、わたしは好きだよ」
「……っ!」
軽く好きだよと言われただけなのに、外から見てわかるほど心臓が跳ねあがってしまう。
雪乃先輩の言葉は、私にとって毒も同然だ。甘くて、優しくて、触れたら溶けてしまいそうな――そんな毒。
もっと味わいたくて、でも溺れてしまいそうで、ほんと良くない。
「はぁ、これだから駄目なんですよ。雪乃先輩は」
「えっ、何か変なこと言ったかな?」
「何でもないですよ。この人たらしが」
雪乃先輩のことだから、きっと私以外にもこんなことを言っているんだろう。
そんなことはわかっているはずなのに、この心臓は未だ収まってくれない。私の心臓は私の物のはずなのに、何でこんなにも私の意志を無視するんだろうか。
朝の通学路は、少し家を出る時間が早かったこともあって、静かで心地よい風が通り抜けていた。
けれど、その風でさえ私の心を静めることは出来ず、雪乃先輩と一緒にいるだけで身体が熱くなってしまう。
「うーん、何か言っちゃったのかな? あ、待ってよ!」
これ以上雪乃先輩と一緒に居たら、心がどうかしてしまいそうで、足が勝手に早く進んでいた。
でも、それに気づいた雪乃先輩はすぐに追いかけてくれて、私の隣で歩いてくれる。
その距離は、ほんの数十センチ。
でも、それ以上近いように感じられてしまう。
「あ、澪」
その時、通路の角から見慣れた親友が現れた。
「おはよう、雪乃先輩と仲直り出来たんだね」
「別に喧嘩したわけじゃない」
「ははっ、そうだね」
茜は私と雪乃先輩を交互に見て、にやりと口角を上げた。
昨日の今日だ。まだ雪乃先輩が隣にいるから何も言ってこないだろうが、休み時間にでもなったらすぐにからかってきそうだ。
「茜ちゃんもおはよう」
「おはようございます、雪乃先輩。今日は澪と一緒に学校に行ってるんですね」
「うん、朝に澪ちゃんの家に寄ったからね。そのおかげで、寝癖がある澪ちゃんを見れたよ」
「いいなぁ。澪、いい加減どこに家があるのか教えてくれない?」
茜と雪乃先輩が自然に会話を始める。その光景は、昨日までの私なら胸がざわついていたかもしれない。
でも今は――ただ、少しだけくすぐったい。
「言わない」
「えー、わたしたちは親友じゃないの?」
「うっ、それはそうだけど……まずは、茜が私を家に招いてから」
「あ、それもいいね。今度の休みの時、わたしの家に来る?」
茜はあっけらかんと言って、私の肩を軽く叩く。
その勢いのまま、雪乃先輩が遠慮がちに手を挙げた。
「あ、わたしも行っていい?」
「いいですよ、雪乃先輩なら大歓迎です」
「ちょっ――」
「澪もそれでいいよね」
勝手に話が進んでしまう。
ずるい、親友と好きな人にそう言われてしまったら、断ることなんて出来ないじゃないか。
「はぁ、わかったよ」
「やった。なら、今度の日曜日ね! 絶対に忘れないでよ」
そうして、三人で歩く通学路は、いつもより少しだけ賑やかで――でも、不思議と心地よかった。
茜が嬉しそうに笑い、雪乃先輩も小さく頷く。その二人の横顔を見ているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
この二人と出会えたことが、本当にうれしかった。




