第39話 あふれる気持ち
メレルスが遠ざかるのを確認し、リージヤがふう、と詰めていた呼吸を楽にする。あんな風に感情を表に出されたのは初めてだった。
「何もされなくて良かったよ……」
最悪を想像していたルスランの背すじがふるえた。
これまでリージヤの安全は心配せずにいたのだが、間違っていたかもしれない。メレルスは冬告げ姫などどうでもいいのか。どうりで放置されるわけだ。
誘拐の目的がはっきりしないと思っていたが、腑に落ちた。
メレルスの中に合理的な結末などなく、ダニールへの感情に駆られて思いついたことをしているだけなのだ。
ダニールが来たというのなら、犯人の目星をつけての行動だろう。クレヴァ夫妻といえば騎士団員で兄の数少ない友人。ファロニアがやっと動いたのか。
ならばメレルスがすべきは、逃走だ。捕縛の危機にあるのに次の標的を奪う計画を立てている時点でもう、正気ではないのかもしれない。
「お兄さんの妻って、誰? 娘って?」
リージヤが困惑してつぶやいた。
「さあ――」
ルスランだって何も心あたりはない。彼らが誘拐された時点でダニールに結婚話など欠片もなかった。だからそれは、妻でも娘でもない他人。
「だけど、その人たちが危ない」
ダニールの妻子というのがメレルスの誤解なのはこの際どうでもよかった。メレルスはそう信じ、何かをしようとしている。
「どうすれば……」
二人は青ざめた顔を見合わせた。
✻ ✻ ✻
「申し訳ありません」
ダニールとマルーシャは、宿の主人に頭を下げていた。その脇でしゃくりあげるミュシカの涙をラリサが拭いてやっていて、イグナートも神妙な顔で直立不動だ。
宿にこもって二日目。
ミュシカは頑張っていい子にしていた。おまじないも練習したし、部屋で大人しく遊んだ。だから少し、力が余っていたのだ。
イグナートも調査から戻ったし、みんなで食事をいただこうかと廊下に出た。まだまだ元気なミュシカは小走りになった。こら、とマルーシャが呼ぶのが楽しくなってしまい、言うことを聞かなかった。そして食堂へと駆け込んだところに、給仕中の女がいてぶつかったのだった。
「割れたお皿と料理の代金はお支払いします」
「はあ、それでけっこうですよ。元気なお嬢さんも、もう気をつけるでしょう」
主人は苦笑いだ。数日滞在するといって前払いしてくれた客だし、丁寧に謝罪してくれたうえに弁償するというのなら文句はない。叱られた娘も泣きながら謝ってきた。
子どものしつけが行き届いていないと思ったが母親の方はずいぶん若い。これは後妻で、新しい母親に娘が反抗しているのでは、などと勝手な想像をした。ありえる。
「なんだか、ニヤニヤ見られてるわ……」
席について、マルーシャは落ち着かなげだ。
「ごめんなさいお母さま……」
「あのねミュシカ、いけないと注意されることには理由があるの。次からは考えられる?」
「うん」
次の時にはまた気持ちのままに走りかねないのだが、返事はおりこうさん。そんなものよね、とマルーシャは微笑むしかない。
「ねえ、お父さま……おさらをなおすおまじないって、ある?」
こそっとミュシカはささやいた。真剣な顔だ。
「そういうのは、ない。きちんと謝ったからそれでいいんだ」
「ないのかあ」
とても残念そうにする。
ミュシカは自分の力で解決したかったのだ。お金を払うことはミュシカにはできないけれど、おまじないならできるかもしれないと思った。無理だとは残念だが、このダニールの回答はマルーシャも意外だった。
「怪我は治せるのに、お皿は無理なんですね」
「怪我は、生きているものの力を引き出して治します。お皿は元は土かもしれませんが、人の手が加わりすぎていて妖精の呼びかけには応えてくれないんですよ」
「ああ、自然の力がおよばないってことですね」
ダニールを見ているとおまじないでなんでもできそうな気がしてくるのだが、そこには理屈がちゃんとあるのだった。
自然とつながる、それが妖精。最初に言われたことを思い出した。
マルーシャは妖精として目覚めたばかり。自然と、この世界と、仲良くつながれているといいなと思った。
「――あ」
マルーシャが洗濯物を抱えて部屋を出たところで、ダニールにばったり会った。
廊下の向こうから戻ってくるダニールは上着を脱ぎシャツの襟をゆるめた楽な格好で、いつものカッチリした雰囲気とは少し違う。家でくつろぐのをのぞき見した気分になったマルーシャは、照れてしまって視線を下に向けた。そして思い出した。
マルーシャが雨に濡れていた時のダニールは、もっと気まずかったろう。本当にごめんなさい。
「洗濯ですか。こんな夜に」
「ミュシカの服にソースがはねていて……たぶん引っくり返した料理のです。染みにしたくないので」
「ああ……すみません、あなたは一日中ミュシカと一緒なんですよね。僕は夜ならひと息つけるのに」
幼女相手に奮闘する日中を思い、ダニールは頭を下げた。
「明日の夜は、僕とイグナートがミュシカをみるとか、どうです」
「んー。父親でない男性に着替えを見られるの、ミュシカは嫌がると思います。あの子、私より女らしいところがあるから」
「そんな。あなたはとても素敵な女性だ」
ダニールは真剣に反論してしまった。それが本心だから。
強く、前向きで、努力をいとわない。そして心づかいにあふれ春のごとく笑う。こんな人が隣にいてくれたらという気持ちはふくれあがるばかりだ。ともにミュシカの相手をしながら、本当の夫婦として子どもを育てることになったらと妄想し変な汗をかいたりもしている。
でもマルーシャは真っ直ぐにほめられて耳まで赤くなってしまった。
「……ダニールさんこそ、素敵です」
洗濯物をぎゅっと抱きしめ、マルーシャにしてはかぼそい声で言う。そしてそのまま走って逃げた。恥ずかしすぎて。
こんな言葉で気持ちは伝わらないと思う。でも言いたかった。マルーシャにとってダニールは立派な男性で、でも可愛くて、頼りないけど強くて、気になって仕方ない人。
洗濯場に駆けこむマルーシャと、廊下に立ち尽くすダニール。どちらも照れながら、ほんの少し期待した。
――もしかして、好意を持たれていると思ってもいいのだろうか。




