佐々丘が初めてめたもうを見たとき
佐々丘さんが初めてめたもうを見たのは、
中学二年生の五月の夕方のことだったという。
その日、佐々丘さんは台所で夕飯の手伝いをしていた。
「もう後はいいから、上に上がってさとちゃんを呼んできて」
さとちゃんというのは、佐々丘さんのお姉さんだ。
そう言われて、佐々丘さんはお姉さんを呼びに二階へ上がった。
いつもなら一緒に手伝いをするのに、
その日お姉さんは高校から帰ってきたきり、台所へ下りてこなかった。
「姉さん、ご飯」
ノックした後、ドアに顔を寄せて言った。
そのまま待ったが返事がない。
いらいらして、佐々丘さんはもう一度ノックする。
その時の様子を、今の私はありありと目に浮かべることができる。
初め佐々丘さんから聞いたときは、分からなかった。
でも今なら分かる。
佐々丘さんはとてもいらいらして、あせっている。
やせていて繊細で神経質そうな、中学生の佐々丘さん。
部屋の中に聞き耳を立てている。
お姉さんをとても大切に思っていて、台所にいたときもずっと気にしてた。
あのとき私があの喫茶店で佐々丘さんから聞いたときは、
そこまで考えずに聞き流してしまった。
だから、この辺りの記述は大分私の脚色が入っている。
佐々丘さんは、何度ノックしても呼んでもお姉さんが出てこないので、
「入るよ」
と言ってドアノブを回した。もともと部屋に鍵はついていない。
ドアはすんなり開いた。
許可をもらえるまでなかなかドアを開けなかったところが、
中学生ながら紳士だと思う。
そして、佐々丘さんは初めて、めたもうを見たのだ。
お母さんとお姉さんから聞いていたので、
それがめたもうだというのはすぐ分かったのだそうだ。
ドアを開けたとき、部屋中の空気が
一度に襲いかかってくるような感じがしたそうだ。
言い換えれば、地震で揺られて、目に映るものが左右にぶれるような。
貧血をおこして、目の前がギラギラしたモノクロになって点滅するような。
その衝撃と同時に、開けたドアのすぐ向こう側に
めたもうが、あいまいに笑いながら、
待っていたのが、認識できた。
佐々丘さんは一秒にも満たない短い間、
めたもうと至近距離で見つめ合って、そして気を失った。
私はその時その喫茶店で、まだ佐々丘さんと親しくなかったから、
深く追及しないで、ただ話してもらえることを聞くだけだった。
だから、その日はそれ以上のことを知ることはなかった。