6:湯煙の向こう側
「……なあ、ノアの兄ちゃん。本気か?」
レオが、広場に運び込まれた巨大な木製の「桶」を見上げて、呆れたような声を出す。
それは、かつて魔鉱石の運搬に使われていた巨大なコンテナを改造したものだ。
横には、ヴィンが坑道から引き揚げてきた魔導ポンプから、太い鉄パイプが何本も伸びている。
「ああ。ポンプのエンジンは、動力を生む際に凄まじい熱を発する。その熱をそのまま捨てるのは非効率だ。パイプを通して水を循環させれば、大量の温水が手に入る」
「理屈はわかるけどよ……。せっかく坑道の水が引いたんだ。さっさと奥の石を掘り出せばいいじゃないか」
レオの疑問はもっともだ。だが、俺は首を振った。
「レオ、お前は泥まみれで働く男たちの顔を見たか? 彼らは限界だ。空腹は何とかなっても、染み付いた泥とノミ、そして蓄積した疲労は、いずれ彼らの肉体を内側から腐らせる。……『清潔』は、武器よりも先に手に入れるべき防具なんだよ」
これは慈悲ではない。
病欠による欠勤率の増加、伝染病による集団感染。
これらは新興事業において最も避けるべき致命的なコストだ。
この街を買い、立て直す以上、労働者の衛生管理を疎かにする選択肢はなかった。
「おーい! ヴィン、準備はどうだ!」
俺の問いかけに、機械の影から煤まみれのヴィンが親指を立てて応える。
「いつでもいけるよ! 排熱回収、出力安定! ……いっけえぇぇ!」
ヴィンがバルブを開いた瞬間。
ゴゴゴッ、という重低音とともに、巨大な桶の中に、白煙を上げる熱々のお湯が勢いよく流れ込み始めた。
「な……っ、なんだあぁ!?」
広場に集まっていた労働者たちが、腰を抜かさんばかりに驚く。
昨日まで泥水をバケツで運んでいた彼らにとって、これほど大量の「お湯」が勝手に出てくる光景は、王都の貴族街でさえお目にかかれない奇跡に等しかった。
「ガルム。まずは、お前ら『保安部門』から入れ。その泥とこびりついた悪臭をすべて洗い流せ」
俺の言葉に、元ゴロツキのボスである巨漢のガルムが、困惑したように立ち尽くす。
「……俺たちが、こんな温けえ水に入っていいのか? 英雄サマ」
「これは命令だ。汚れた体で仕事をされると、工房の機械が汚れる」
素直じゃない言い方だが、それが彼らには一番響いたようだ。
ガルムは照れ臭そうに鼻をすすると、ボロボロのシャツを脱ぎ捨て、湯気の立ち上る桶の中へ豪快に飛び込んだ。
「——っ……。ああぁ……あぁぁぁぁ……っ!!」
桶の中から、獣のような呻き声が漏れる。
続いて、他の労働者たちも恐る恐るお湯に浸かり始めた。
「温けえ……。なんだこれ、生きてるみたいだ……」
「指の先まで、痺れるくらい熱が染みてくる……」
「……生きてて、よかった……っ」
あちこちから、すすり泣くような声が聞こえ始める。
温かいお湯は、彼らの肉体だけでなく、凍りついていた心をも溶かしていく。
ただの「駒」として生きてきた彼らに、自分が「人間」であることを思い出させる。
その光景を見ていたバーツが、静かに俺の隣に立った。
「……恐ろしいお人だ。金貨を一枚握らせるより、こいつぁよほど重い。彼らはもう、あんた以外の命令じゃ動かねえでしょうよ」
「そうか? 俺はただ、明日の作業効率を最大化したいだけだ」
俺は肩をすくめて答えたが、バーツは信じていないような顔で笑った。
だが、この感動に包まれた広場の喧騒を、冷ややかな目で見つめる影があった。
広場の隅、ボロボロの街灯の影に立つ一人の男。清潔な身なりをしたその男は、ネクサスの紋章が刻まれたポンプと、そこから溢れる「無料の水」を見て、忌々しそうに吐き捨てた。
「……ふん、英雄の道楽か。だが、勝手にお湯を配られては困るのだよ。この街の『水』を牛耳っているのは、我々だということを教えてやらねばならんな」
男は人混みに紛れ、音もなくその場を立ち去った。
俺の視線は、一瞬だけその男の背中を捉えたが、すぐにヴィンが調整している機械の方へと戻した。
「……レオ、明日からは忙しくなるぞ。どうやら、掃除すべき『ドブ』は坑道の中だけじゃないらしい」
ネクサスの最初の事業成功は、同時に、この街に巣食う既得権益者たちへの「宣戦布告」でもあった。




