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2:世界最大の事業(ブラック企業)の始まり

 旧大坑道への道は、文字通り腐っていた。


 長年放置された水路は泥と汚物で詰まり、坑道の入り口は崩落した岩と赤茶けた鉄クズで完全に塞がれている。漂う瘴気と湿気は、普通の人間なら数分で肺をやられるだろう。


「ほら、言ったろ。直せるわけないんだ。国が派遣した視察団だって、一目見て見捨てた場所だぜ」


 案内役の獣人の少年、レオが鼻をつまみながら吐き捨てる。

 しかし、俺の目にはまったく違う景色が映っていた。


(……基礎の魔力伝導管は生きている。水路が詰まって地下水が溢れているせいで地盤が緩んでいるだけだ。排水さえ機能させれば、岩をどかすだけで坑道は息を吹き返す)


 英雄時代、最前線の兵站と陣地構築を一人で回していた俺にとって、この程度の「詰まり」は絶望でもなんでもない。単なる『手入れ不足のパイプ』だ。

 問題は、誰がそのパイプを掃除するのか、ということだけ。


「レオ。広場に戻るぞ。事業ビジネスの始まりだ」


 ***


 スラムの広場に、甘く香ばしい匂いが漂った。


 俺が王都を出る際、魔法の収納袋アイテムボックスに大量に買い込んできた硬パンと、塩漬け肉を煮込んだ熱いスープの匂いだ。


 広場に置いた木箱の上に立ち、俺は集まってきた虚ろな目の住人たちを見下ろした。

 ざっと五十人。年齢も種族もバラバラだが、共通しているのは皆一様に痩せこけ、生きる気力を失っていることだ。


「聞いての通りだ。旧坑道の瓦礫撤去と、水路の泥さらい。これを今日から始める。日当は『一日三食の温かい飯』と『雨風をしのげる寝床』、そして銅貨三枚だ」


 俺の言葉に、どよめきが起きた。

 前に進み出たのは、片腕が義手の初老の男だった。


「……若えの。冷やかしなら帰んな。銅貨三枚? 馬鹿にしてるのか。いくら俺たちが落ちぶれてても、そんな端金じゃ重労働は引き受けられねえよ」

「そうだ! せめて銀貨一枚は出せ!」


 周囲からも同調する野次が飛ぶ。

 俺はあえて、冷ややかな視線で彼らを一瞥した。


「銀貨? いいだろう。仮に俺がお前たち全員に毎日銀貨を払ったとする。お前たちはその銀貨を握りしめて、どこへ行く? この街には、まともなパン屋もなければ、肉を売る市場もない。あるのは、足元を見て腐りかけの残飯を高値で売りつける悪徳商人だけだ」


 群衆が、ハッとして押し黙る。


「金を持てば、外から来た商人に毟り取られるだけだ。俺が持ち込んだ資金が、お前たちを経由して外の連中に吸い出される。それではこの街の経済は一生死んだままだ。だから最初は『現物』で払う」


 インフラが崩壊した閉鎖環境において、現金をバラ撒くのはハイパーインフレを引き起こすだけの愚行。

 労働者の最低限の欲求である「食と安全」をネクサスが直接供給することで、彼らの生活水準を底上げしつつ、資本の外部流出を完全に防ぐ。典型的な『企業城下町モデル』の初期フェーズである。


「食い物は俺が直接調達し、現物で支給する。銅貨三枚は、街の内部でやり取りするためのただのトークン(引換券)だと思え。……どうする? 腹を空かせて俺を睨み続けるか、それとも、この熱いスープを飲んでツルハシを振るうか」


 寸胴鍋から立ち上る湯気が、彼らの理性と胃袋を強烈に揺さぶる。

 義手の男が喉を鳴らし、一歩前に出ようとした、その時だった。


「——おいおいおい。どこの余所者かと思えば、勝手に俺たちのシマで商売始めてんじゃねえぞ」


 下劣な笑い声とともに、広場に十人ほどの男たちが乱入してきた。


 手には粗末な鉄剣や棍棒。スラムでみかじめ料を搾り取っているゴロツキ集団『黒犬』だ。

 住人たちが恐怖で顔を引き攣らせ、サッと道を空ける。


「いい匂いじゃねえか。労働者の手配なら、俺たち『黒犬』を通すのがこの街のルールだ。紹介料として、その飯とあんたの持ってる金、全部置いていきな」


 ボスの男が、ニヤニヤと笑いながら俺の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。

 レオが「逃げろ!」と叫んだ。


(……力ある者が搾取し、秩序が腐敗する。どこも同じだな)


 俺は小さくため息をつき——ボスの男が伸ばしてきた腕を、片手で軽く払い除けた。


「あ?」


 直後、ボスの巨体が宙を舞った。

 ドゴォッ! という鈍い音とともに、数メートル先のレンガ壁に激突し、白目を剥いて崩れ落ちる。


「え……?」


 ゴロツキたちが状況を理解できず、間抜けな声を漏らす。

 魔王軍の重装甲騎士を素手で投げ飛ばしていた俺からすれば、ただの小突いた程度の力加減だが、彼らには不可視の魔法にでも見えただろう。


「て、てめえ! やっちまえ!!」


 逆上した残りの九人が一斉に飛びかかってくる。

 俺は一歩も動かず、飛んでくる剣の腹を指ではじき折り、棍棒を躱しながら鳩尾に的確な掌底を叩き込んでいく。


 時間にして、わずか十秒。


 土埃が晴れた後には、呻き声を上げて地面を転がる九人のゴロツキが残っていた。


 静まり返る広場。

 俺は倒れた彼らを見下ろし、懐から羊皮紙の束を取り出した。


「お前ら、無駄に体格だけはいいな。スラムの住人よりよほど体力がありそうだ」

「ひ、ひぃぃ……! 殺さないでくれ!」

「殺す? 貴重な労働力を減らすような非合理的な真似はしない。……今日からお前らを『ネクサス保安部門 兼 重機労働班』として採用する」


「……は?」


 ゴロツキたちだけでなく、見守っていた住人たちも呆気にとられた。


「暴力で支配するだけのチンピラ業なんて生産性のない仕事は今日で終わりだ。お前らには、その無駄な筋肉を使って一番重い岩を運んでもらう。逃げたりサボったりしたら、給料メシは抜きだ。いいな?」


 暴力という『地域の負債』を、強制的に『企業のリソース(労働力)』へと変換する。敵対的買収というやつだ。

 彼らを排除してしまえば、別のゴロツキが台頭して治安維持のコストが余計にかかる。

 ならば、俺の管理下で正社員として飼い慣らすのが一番安上がりだ。


 圧倒的な武力と、それを「労働」に結びつける俺の狂気に当てられたのか、ゴロツキたちは涙目で何度も頷いた。

 それを見ていた義手の男が、ふっと笑い声を漏らす。


「ははっ……暴力団の頭を即日採用とは、とんでもねえ雇い主が現れたもんだ。……いいだろう。どうせ死にかけてた命だ。俺も、あんたの事業に乗ってやるよ!」


 その声を皮切りに、次々と住人たちが「俺もやる!」「スープをくれ!」と押し寄せてきた。

 レオが信じられないものを見る目で、俺と群衆を交互に見つめている。


「さあ、食え! 食ったら働くぞ!」


 俺はスープの鍋を叩き、労働の号砲を鳴らした。

 世界最大の事業(ブラック企業)の始まりだ。

 まずはあの忌々しい瓦礫の山を、俺たちの手でぶっ壊す。

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