80二俣城の戦いの軍議(戦国、カケルのターン)
――元亀三年(一五七二)十月十六日。
武田信玄より、二俣城攻略の采配を任された武田勝頼は、わずか、一二〇〇の城兵を相手に、二七〇〇〇の圧倒的兵力で取り囲んだ。
武田方は、最後方に総大将の武田信玄、その、一歩手前に、総指揮を任された武田勝頼、右翼に、只来城を攻略して駆けつけた馬場春信、左翼に、内藤昌豊が陣を張った。
狙いの二俣城は天然の要害だ。天然の堀のように、天竜川と二俣川の合流する丘陵に二俣城は築かれている。
――勝頼の帷幕。
武田勝頼を中央に、囲むように絵図面を広げ、右に腹心の跡部勝資、左に土屋昌恒をはじめに、勝頼志隊八将が居並ぶ。
「馬場信春殿、内藤正豊殿、そろって、軍議に参加したいとの由、お越しになりました」
それを聞いた勝頼は、「チッ! 」と、指の爪を噛んだ。
「おお、これはこれは、武田四天王の両大将のお出まし、かたじけのうございます。さあさ、そちらへお掛けあれ」
と、跡部勝資が、勝頼志隊八将より下の末席へ促した。
「うむ! 」
馬場信春と、内藤昌豊は、武田四天王とうたわれる両名は、本来ならば、跡部勝資と、土屋昌恒と入れ替わりで両翼の席に案内されるところを、あきらかな、招かれざる客の扱いにも、眉一つ動かさずに、末席へ着いた。
跡部勝資が、指揮棒を振るって、
「それでは、軍議をおこなう」
徳川方の二俣城を守るのは、先の一言坂の戦いにおいて、あの本多忠勝と共に、武田の赤備え、山県昌景の攻撃を跳ね返した、なかなかの強者だ。
徳川家康の居城浜松城の補給線を一手にになう、この、要衝二俣城を任されるだけあって守将、中根正照は家康の信頼も厚い三河武士である。
二俣城は天然の要害、堀のような二つの川に二面を囲まれ、この時期では珍しい”石垣”作りの反りかえるような城壁だ。しかも、攻め口は、北東の信康山清瀧寺から爪先上がりに丘陵を駆け上る大手門しかない。
まさに、攻めるに難く、守るに易い城、それが、二俣城だ。
軍議において、議論は二分された。
一方は、勝頼の意を汲む、跡部勝資の圧倒的な兵力による力攻め、もう一方は、馬場信春と内藤昌豊の降伏勧告をすすめ無血開城を目指す慎重派だ。
ここは、勝頼の陣である。跡部勝資をはじめ勝頼志隊八将は、勝頼の意を忖度して、軍議を力攻めへ導いて行く。
しかし、その勝頼志隊八将の中で、馬場信春、内藤昌豊の慎重な声に同調する者が現れた。
秋山昌詮だ。
秋山昌詮は、先の戦いにおいてもなぜか勝頼の勘気を恐れず山県昌景へ味方する論を張った。この秋山姓、拙作の読者の方ならお分かりかも知れないが、そう、岩村城攻めの時に、山県昌景の副将として活躍した秋山虎繁の跡継ぎなのである。
虎繁の跡継ぎと言っても、実の子ではない。
養父である武田氏譜代家老の秋山虎繁は、虎繁自身も信玄にその才を見込まれ、養子に入り秋山家を継いだ。先の第十五部、第十七部の岩村城の女城主おつやの方とのいきさつによって、結婚もせず子がなかった。
それを侍大将としての器量を見込む武田信玄が、”猛牛”の異名を持つ秋山虎繁の跡継ぎが居らぬのが惜しいと、金丸虎義の三男で、信玄の近習だった利発な昌詮を秋山虎繁の養子に入れたのだ。
秋山虎繁の養子に入った昌詮は、すぐさま頭角を現した。
しかし、永禄八年(一五六五)信玄の後継者で嫡子、武田義信事件で事態は一変する。
いわゆる”義信事件”だ。
この事件は武田、北条、今川で結ばれていた三国同盟を、弱体化した、今川氏を武田が一方的に切り侵略することを決めたことからはじまる。同盟を堅守しようと今川の娘を正妻に迎えている子の信義が筋違いの義理立てをして、父、信玄から武田家当主の座乗っ取りを企てた事件だ。
事件は、義信に仕えていた山県昌景の兄、飯富虎昌の不穏な動きに、一早く、直観的に気付いた昌景の勘働きで、未然に防がれた。
そして、父、信玄の追い出しを企んだ武田義信は切腹、山県昌景の兄、飯富虎昌も連座した。
義信の死によって、武田家の後継者の立場が、勝頼に回ってきたのだ。
勝頼は、信玄の側室の子で、はじめ、母方の出仕の諏訪氏を継ぎ、諏訪勝頼を名乗っていた。その頃から、付き従うのが勝頼志隊である。
しかし、勝頼は、仲の良かった兄、信義の影に隠れて、むしろ、それを支える引き立て役として、戦場で目立った活躍をしてこなかった。
そこで、跡継ぎになった勝頼隊の補強として、すでに、秋山虎繁の養子になり共に戦場を駆け巡っていた秋山昌詮が戦目付として加えられたのだ。
そう、それまでの勝頼隊は戦のド素人部隊なのだ。
自己の死期を予感した武田信玄は、後継者を早急に仕立てる役目がある。
信玄は、最後になるかも知れない、この、徳川との戦において、戦の素人部隊を、実戦で鍛え上げることにしたのだ。先の戦いでは、指導役に軍監として山県昌景を、この度、二俣城では、馬場信春と内藤昌豊の両輪を付けた。
まさに、万全の布陣で信玄は、勝頼への相続をすすめているのだ。
しかし、勝頼は、父、信玄の心は知らず、兄、義信の轍は踏まじと、戦で華々しい功績をあげることに必死である。
「馬場美濃守(春信のこと)よ、内藤修理亮(昌豊のこと)、武田四天王と呼ばれるそなたたちが、たかだか、一二〇〇の小勢に恐れをなして臆病風にでも吹かれたか」
と、戦巧者の忠告を退けた。
「臆病風に吹かれた馬場美濃守と、内藤修理亮は、父上を守って、戦を傍観しておれ、二俣城のような小城など力攻めで一揉みにしてくれるわ! 」
つづく




