68井伊直虎(戦国、カケルのターン)
井伊谷は過って、東海一の弓取りと称賛された今川義元が治めた地だ。厳密には、井伊谷は井伊氏が先祖代々治めているのだが、遠江、国単位で見た時にはその最大勢力に与せねば生きていけない土着の領主である。
井伊谷は、遠江の本城、徳川家康の籠る浜松城防衛の西の要、三河の国、先ほど武田家の山県昌景隊が、奥三河長篠を通るとその出口にある。
ここを抑えることは、三河にいる徳川の援軍、岐阜にいる織田信長の大多数の援軍の導線を断ち切ることになる。
現在の井伊谷の領主は近藤康用という。本来、井伊谷はその名の通り、井伊氏の領国である。しかし、織田信長によって、遠江駿河の今川義元が桶狭間の戦いで討たれ、国が傾くと、今川を裏切り、織田と手を結んだ徳川家康が侵略してきた。
井伊氏は今川と徳川の狭間に立たされ、家老小野氏との内部分裂により、徳川家へ寝返るタイミングを失いそのまま徳川家康に滅ぼされた。
しかし、領主、井伊直虎は女だったため、仏門へ入ることを条件に許され、以後、名を次郎法師として、陰から井伊谷の近藤康用の経営に協力している。
――井伊谷城
「近藤様、急使でございます。武田家山県昌景隊がこちらへ向かっております」
「なに? 武田の赤備えがやって来るだと!」
と、急使から伝令を受け取った城主の近藤康用が、一瞬で、青い顔をした。
「ええい、これは一大事! なにをしておるスグにあの小賢しい井伊の女を呼ぶのだ!」
厳めしい戦支度に男たちが身を固め、夜の篝火が焚かれたころ、井伊谷城に井伊直虎こと今は次郎法師がやって来た。
勝手知ったる井伊谷城の奥の広間へ上がった次郎法師は、絵図面を広げ来る赤備え、山県昌景隊の襲来にどう対峙したものかと、落ち着かず立ったままで右に左にウロウロと頭を悩ませている。
「近藤様、なにをうろたえておられるのです。落ち着き召されよ!」
と、開口一番、次郎法師が、近藤康用に喝を入れた。
「おお来てくれたか、井伊直虎! いや、次郎法師よ」
「何事でございますか、急なお呼び出しは」
「おお、そうか次郎殿、これを見てくれ」
近藤康用は、次郎法師へ急報を渡して見せた。
次郎法師は、さも当たり前のように驚きもせず、落ち着いた声で近藤康用をなだめるように応答した。
「武田の赤備えが襲来するので怯えているのですね」
「怯えてなど居らぬわ! 武田の赤備え山県昌景隊と言えば一兵も失わず奥三河の山家三方衆を降伏させたというぞ。しかも、山県昌景隊が本気を見せた一言坂の戦い、勾坂城攻城戦においては、その疾風怒濤の攻めを見せて、浜松の殿様徳川家康公は、シダの前立てを討ち落とされ命からがら敗走し、今は、武田に囲まれた二俣城がいくら援軍要請しても、家康公は知らぬ存ぜぬを貫いて援軍を一兵も送らぬというではないか」
「それが、どうしましたか」
近藤康用は眉をつりあげて、
「それがどうした?! 女の次郎殿にはこの絶体絶命の非常事態が分からぬのか!」
次郎法師はさも当たり前の話のように落ち着き払って、
「分かっております。しかし、ワタシが分からぬのは、近藤様のお気持ちにございます」
「なに? ワシの気持ちだと?!」
「さようにございます気持ちにございます」
「ワシの気持ちなど決まっておろうが、襲来する山県昌景めをいかに撃退するかだ」
居住まいを正した次郎法師は、向かい合う近藤康用が息をしたかと思うと、間髪入れず、
「ストン!」
と、腰の扇子を引き抜いて剣道で言うところの面を獲る。
「なにを致す!」
「今の近藤様は、女のワタクシでも、いともたやすく面が取れる」
「次郎殿何が言いたいのだ?」
次郎法師は、サッと身を引き元の正座に座り直し、居住まいを正して、
「逃げましょう」
次郎法師の進言にビックリした近藤康用は、目を丸くして、
「ワシに戦わずに逃げよと申すか?」
「さようにございます。ワレら、井伊谷の者すべて空っぽにしてしまいましょう」
「空っぽとな?!」
「空っぽにございます。これは策でございます」
「策とな?」
「はい、これは古く中国の三国時代、蜀国の宰相、諸葛孔明が、強き魏国に攻められた際、敢えて、城門を解き放ち、城内を掃き清め、兵士たちは隠して、諸葛孔明一人姿を楼台に登り琴を奏でて魏軍を招き入れる仕草をし、敵に奇策の有りや否やの疑心暗鬼に陥れさせ判断力を乱して追い返す策にございます」
「それが、策だとして、その楼台でだれが、諸葛孔明に扮して、琴を弾くのじゃ、ワシは琴など弾けぬぞ」
次郎法師は、琴を弾けないことを言い訳に、貧乏くじを引きたくない、度胸のなさにおかしくなって「うふふ」と薄笑いを浮かべた。
「近藤様、心配ありません。その諸葛孔明はわたしが引き受けます」
「おお、次郎殿がやってくれるのか、ならば、ワシらは何をすればよいのだ」
「先ほども申した通り、逃げるのです」
「本気で言っておるのか?」
「はい、今の徳川様からの援軍も望めない、井伊谷城ではいくら籠城しても持ちこたえることはできますまい。出来ることは、徳川様が再起を図るときに備えて兵を保つこと」
「ならば、どこに逃げよというのだ。山にはすでに奥三河、山家三方衆は武田へ下っておるし、下って浜松の本城では、武田と徳川の戦に巻き込まれる。いったいどこに安全な場所があるというのだ」
「海にございます――」
次郎法師は静かに囁いた。
つづく