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プロローグ

「はあ……」


 今日もまた溜め息をつく。

 何でもないというのに、何も嫌なことがないというのに。別に大したことが起こったという覚えは全くない。

 いや、何もないからこそ、なのか。

 まあ、どっちだっていい。

 そもそも僕には何もないことに変わりはないのだから。


「はぁあ……」


 また。

 こんなことは何度も考えてきた。

 最近はもちらんだが幼い頃からずっと。

『ため息をすると幸せが逃げちゃうよ?』

 そんなこと誰かに言われた。

 小学校の教師だったか、親戚のおばさんだったか。はたまた、幼稚園の先生だったか。

 その時の僕は何を考えたのだろう。

 素直にうん、と答えたのだろうか。それとも、そんなことは嘘だと決めつけていたのだろうか。もうあまり覚えていない昔の記憶だから思い出せるはずはないのだが。

 だが、まあそんなことを考えているうちに徐々に時間は過ぎていく。

 今、思えば溜め息をする度にいろんなことを考えてきた気がする。

 この世の果てはどこなのか、とか。死んだら本当に天国というよくわからない地に行くのだろうか。そのために綺麗な花畑がある川を渡らなければならないのか、のか。暗い考えを思うことしかなかったように思う。

 あ、そういやこんなことも考えていたこともあったか。

 人は何のために生まれたのか。

 いつだったか。あれは小学五年生? いやもっと小さい頃だったか。記憶にあるのだから、幼稚園とか小学校低学年の頃ではないはずだが。

 それはあまりに唐突に聞かれた。国語の授業だったと思う。

 おそらく教科書に載せられた物語の問題だったのだろう。だから、僕はその解答を答えるべきだった。

 だが、僕はそれをしなかった。もしかしたら、気づかなかったのかもしれない。

 僕は答えられなかった。首を傾げ、うーんと唸っては反対方向に首を傾げる。

 それが数分続き、見かねた教師が「座って」と声をかけてくる。

 僕はまだ答えてないのに、と思いながら次に当てられた生徒と入れ替わりに着席した。

 その子が何を答えたのかは覚えていない。

 ただそんなのは正しくない、という想いを持ったことだけは覚えている。

 本気で悩むのが馬鹿馬鹿しいほどに愚かな質問だが、僕はそれをしていた。

 今思ってもあの頃の僕は馬鹿だったと思う。

 何を考えているのだ。そんなこと真剣に悩んで何になるのだと言いたくなるほどに紙に思考を文字にしてはそれを破き、また首を傾げていた。

 その結果を先に言えば、答えは見つからなかった。

 何もわからなかった。

 ある時、その単元が終わるから、とテストが行われた。テスト用紙にはその物語の一部が記されていて、その中にやはりその問題が含まれていた。

 僕は他の問題を早く終わらせ、それに時間を当てた。

 時間が刻々と迫る中、僕は一つの答えに行きついた。

 しかし、それはあまりに馬鹿らしい答えだった。

 だが、それでも自分が何に悩んでいるのかわからないほどに苦しんでいたはずが、いつの間にか僕は満足していた。

 悩んで悩んで導き出した、いやふと頭によぎっただけの答えに過ぎない、自分勝手に思い込んだその答えに。


 人間はなぜ生まれてきたのか?

 

 それは。


「世界を滅ぼすためだ」


 そう、僕は答えた。


 もちろん、その答えに赤い丸が付くことはなかった。

 それどころか、

「こんなこと、冗談でも書いちゃいけません」

 教師に注意されてしまった。

 嘘でも冗談でもなく、本気で書いたことなのだが。

 僕は思わず腹を立てて涙を浮かべて文句を言っていた、ような気がする。

 正直、僕の記憶はその辺りで曖昧になっている。

 ということは、僕が泣き虫だったころの話になる。

 僕は中学に上がってからは泣かなくなったため、正確には泣けなくなったため、その問題が出されたのは中学生の時よりも幼いころだったということになる。

 そう考えると、昔の僕は結構ませていたのだなと思う。

 部屋の開いた窓から風が吹き込んできて、カーテンがふわりと浮かぶ。窓の外ではポッポーと名前の知らない鳥が鳴いている。

 今日も面倒臭くもないともない、ただ退屈な一日が始まるのかと思うと、少し身体が重くなる。

 昔話を思い出し終えると、また暇になり、床に敷いた茶色いカーペットの上にごろりと横になる。茶色のそれからはみ出した足がフローリングのひんやりとした温度に当てられ、体温が下がるのがわかった。

 ああ、またこうして一日を無駄にするのか。

 無駄。無駄。

 何をしても無駄。

 そんなマイナス思考な考えが頭を巡り、ふと浮かんだ言葉を口にする。

「世界が溜め息で滅べばいいのに」

 なんて、言ったって本当に世界が滅ぶわけはないのだけれど、ね。


      * * *


 いつ、僕がこんな考え方になったのかはわからないが、本当に昔から考えていたことは事実だ。

 四歳くらいの時に、僕は腎臓を患った。

 大した病気だったのか、そうでなかったのかは覚えていないが、半年――いやもっと長く入院していた。

 僕の腎臓に何らかの菌が感染してしまい、血尿が毎日のように出てそのたびに貧血を起こしていた。そのくせ、あまりおいしくもない病院食を食べさせられ血を抜かれて検査される。そんな毎日が続き、何もすることなかった。

 何かあるとすれば、隣のベッドで一緒になった男の子が持っていた輪ゴムを幾つも繋げてどれだけ長くできるか、という妙な遊びをしていたくらいだ。今思えば、馬鹿だし資源の無駄だと感じるが、当時はそんな感覚はなかった。

 ただ暇がつぶれればよかったのだ。

 毎朝、両親のどちらかが僕の見舞いに来て、毎晩僕が寝るまで一緒にいてくれたが、一日中僕のそばにつくことはできるはずもなく、一人でいることも多かった。

 そういえば、幼稚園の友人が○○を探せ! 的な絵本を持ってきてくれたような気がする。その時は、とても喜んだし嬉しかったし、毎日のようにそれを見ていた。今はその友人の名前も今何をしているかも全く知らないが。

 ある時、輪ゴムの隣人は退院した。

 だから、僕はさらに一人になる時間が増えた。

 何をすることもなく、ただひたすらに絵本を見ていた。

 時には、祖母や看護婦が様子を見に病室へやって来て話しかけてきたがそれ以外は本当に一人だった。孤独だった。

 大きな四人部屋にいるのは僕だけだったのだ。

 孤独で寂して、淋しくて、恐くて怖くて、震えて震えて過ごしてひと月ほど経ったある時、僕は病室を移った。

 僕を見かねた看護婦が僕を担当していた女医と相談して、決めてくれたのだろう。

 その先で、僕は一人の少女に出会った。

 髪は長く、背は高く、痩せている僕よりもはるかに年上の少女だった。

 おそらく当時は十一、二歳だっただろう。

 少女は僕よりもずっと重たい病気を患っていた……らしい。入退院を繰り返しているらしかった。それだけでも大変だな、と当時の僕は感じた。

 だってそうだ。入院費はかかるし、面倒を見なきゃいけない両親だっていくらでも見舞いに時間を懸けるわけにはいかない。そして何より、孤独と、病、自分の心と闘わなくてはならないのだ。僕はそれを怖れていたし二度と味わいたくないと思っていた。

 でも、少女はいつも笑っていた。

 笑って僕に話しかけてくれていた。


「どうして? どうして僕にそんなに優しくしてくれるの?」

 僕は感じたままに口にすると、少女は、

「だって、わたしもあなたの歳の時、そう感じていたもの。だからわかる。どれほど寂しくて、どれほど怖いのか……。もし何か問題があって、明日死ぬことになったらどうしよう、とかね」

 少し口を歪めて、それでも瞳は笑ったままそう言った。

 それからはその少女と共に話すことが多くなった。

 まだ通ったこともない小学校がどういうところなのか。

 少女はもうすぐ中学生になるがどんな気分なのか。

 まだ見ぬ世界に夢を膨らませていた。

 その隣で少しずつ目が暗くなっていく少女の目に気づかずに。

 そんな日々が三月ほど続いた。

 検査を怖いと感じるどころか、むしろ楽しくなり始めたある日。


「もう問題はありませんね」

 女医は告げた。

「え?」

「もう、退院できるのよ」

 まだ幼い僕にわかるように言い直して、目を細くした。

「じゃあ、幼稚園に戻れるってこと!? 家に帰れるってこと!?」

「そうそう、家に帰って新しく生まれた妹とも会えるってことだよ」

 当時、僕は病院で誕生日を迎えて五歳になり、その間に母親は出産し妹ができていたのだ。

 妹。

 それはそれまで感じたことのない感覚だった。


 新しい兄妹に会える!

 友達に会える!

 先生に会える!

 もう検査を受けなくて済む!


 様々な気持ちが交錯した。嬉しい気持ちが多かったが、やはり寂しいものもあった。

 あれほど嫌に感じていた病室を離れるのが嫌だった。

 それもそうだ。

 それまでの人生の約五分の一をそこで過ごしていたのだから。物心ついた時から考えると、およそ三分の一だ。

 幼いころの時間の流れはとてつもなく遅い。

 たった一日さえも非常に長く感じるのだ。

 そんな時間の中で過ごせば、哀愁溢れるのも無理ないのだ。

 だが、それよりも勝るものがあった。

 少女のことだ。

 少女はこれからもこの病室に居続けるのだと考えると、出て行きたくなくなっていった。

 僕はおそらく恋をしていたのだろう。

 それまでは姉的感覚で接していた彼女に。

 だから、離れたくなかったのだ。

「僕、まだ入院する!」

 少女のために、自分のために。

 お互いがもう孤独にならないように。

 だが、

「ダメだよ。あなたは元気なんでしょう? だったら、退院しなきゃ! 幼稚園で友達があなたが返ってくるのを楽しみにしているんでしょ!?」

「でも……それじゃ一人になっちゃう」

「だーいじょうぶ! もう慣れてるから。 もう何度も入院してるからわかっていることだから。 だから、あなたが気にしなくても大丈夫よ」

 少女は言った。

 その言葉は悲しくて、寂しかった。

 あなたがいなくても大丈夫。わたしの生活には何の影響はない。必要ないのだ。そう言われているような気がしたから。

 泣いた。哭いた。

 僕はもうこれ以上は一緒にいられないのだ。切り捨てられたのだと。

 両親が病室に荷物を取りに来た。

 荷物はそれほど多くはなかった。

 絵本が数冊に少しのおもちゃ。そして、家へ帰るための私服と靴。それだけだった。それだけしかなかった。

 僕がいた時間は本当はそれだけしかなかった。

 そして、少女にとっても。

 母親が同室の子どもやその親に挨拶をし、看護婦や女医に感謝の念を伝えている間、僕はずっと少女を見つめた。

 少女はベッドの上に座り窓の外をずっと眺めていた。僕を絶対に見ないように。

 そして、母親が再び僕の隣にやって来て、「あんたも挨拶をしなさい」と頭を押さえつけて無理やり礼をさせてくる。

「よし、行くよ!」

 言って、母親は僕の手を握って病室から出て行く。

 当時の僕には逆らえる力もなく、ただ引きずられるように歩いた。手を引かれて廊下に出た辺りで後ろから僕の名前が呼ばれる。

 それに、僕は足を止め母親も止めた。

 振り返って見ると、少女がこちらを見ていた。

「なに?」

 今まで散々無視してきたのに……なんてことを考えながら、僕は尋ねた。

「あの、あのね――」

「…………」

「もう、ここに来ちゃダメだよ」

 少女は言った。

 笑って。笑って。

 だけど。

 瞳に涙を浮かべて。

「もう、ここに、こんなところに来ちゃダメだよ! 元気で……元気でね!」

 少女は手をゆっくりと持ち上げ、振る。

 僕もそれに合わせて振る。

 そこで理解する。

 この間、少女の言った言葉の意味を。

 あれは全て――逆だったのだと。

 本当はいなくなってほしくなかったのだと。本当は寂しいのだと。

 だが、そんなことは言えるはずもないのだ。

 せめて、僕が元気であればそれでいい。

 そう、

 少女は願ったのだ。

 僕は涙を浮かべている彼女に、

「そっちこそ、元気で」

 まだまだ闘病中の彼女に向かって言った。

 実際は元気になるのかも怪しい病状だったのに。

 だが、少女はゆっくりと頷いて、

「うん」

 と答えたのだった。


 この頃には、人生というものが残酷なものなのだと感じるようになっていた。

 生きたがっている人間がいても、病気や事故一つで死に追いやられてしまう。

 きっともっと僕なんかよりずっと生きたがっている人がいるはずなのに。

 

 それから、数年が経って僕は小学生になっていて、少女は中学生になっていた。

 僕はこの時にはまた別の恋をしていたし、あまり連絡を取り合うこともなかったため、疎遠になっていた。

 だが、ある日未だ親同士で連絡を取っていたのだろう母親から少女が退院したという話を聞いた。

 何度も苦しい想いをした闘病生活の末、少女は克服したのだと。

 僕は嬉しかった。とても嬉しかった。自分の事のように喜んだ。

「ほんとに!? ほんとに!?」

 母親に向かって何度も聞き返すほど舞い上がった。

 これであの人も新しい人生を歩むことができる!

 僕はそう思った。


 そして、さらに数年後。


 僕が中学三年生になった頃、非常にお世話になった祖父が亡くなった。

 病死だった。

 やはり人生は残酷だ。

 人を生かすのも殺すのも神の気まぐれなのだ。

 どうしてつい先日まで元気だった人間が死ななきゃならない。


 ――どうして? どうして?

 

 棺の中で眠る祖父は本当はただ居眠りをしているかのように涼しい顔をしていた。

 だが、祖父がこの殻から抜ける前日、かなり苦しんでいたらしい。

 らしい、というのはあとから聞いた話だからだ。

 僕は居合わせることができなかった。

 夜も遅かったし、何よりつい最近まで元気な姿を見せていた祖父のことだから治るだろうと轍を踏んでいたのだ。

 だが、予想は外れた。

 朝目覚めたときには、もう遅かった。間に合わなかった。

 僕は悔やんだ。

 どうして、今? 僕が高校生になるのを待ってくれないのだ。

 祖父はあれほど楽しみにしていたというのに……。

 神は無慈悲だ。

 誰の願いも叶えない、どうしようもないわがまま野郎だ。

 

 棺が運ばれ、火葬され、煙突から煙が上がる。

 まだ、まだ眠っているだけのように見えた祖父が焼かれていく。

 そんな考えのまま、それを見つめた。


 それから、二年が経った。


 僕は高校生になって、これか大学受験へ向けて勉強を頑張り始める時の頃。


 僕は母親から一つの電話を受け取った。

 当時、反抗期を未だ引きずっていた僕はなんだと言って、肩を怒らせていると、母親は「いいからいいから」と言って子機を手元に寄越してくる。面倒だなと思いながらも、それを受け取ると、相手はあの少女の母親だった。


「お久しぶりです」

 と挨拶して、あの子が今何をしているのか尋ねようとした。

 だが、それよりも先に少女の母親の話し方で理解してしまった。

 とても重たく、暗く、嗚咽交じりに僕に『元気?』と尋ねてきたからだ。

「元気ですよ」

 と答えると、

『……そう、よかった』

 僕は何も続けられなかった。

 相手が言葉を続けるのを待つことしかできなかった。

 だって、そのために電話をしてきたのだから。

『あの、あのね……』

 あの時の少女と同じ切り出し方。

 やはり親子なのだと感じたが、だからこそ確信してしまう。

『あの子がね、亡くなったの』

「…………」

 わかってはいたけれど、改めて聞くと何も答えることができなかった。

 さらには、涙さえも出てくるのだった。

 止めることもできず、ただたらたらと鼻汁が垂れ、ぽろぽろと涙が滴り、床にシミを作る。

 その後、少女の骨がどこに納まるのか、なぜそこなのかという理由を聞いた。

 少女のお骨は沖縄に納められるらしい。少女は沖縄のサンゴ礁に憧れていたらしいから。

 せめて、抜け殻にだけでも見せてやりたいという両親の願いなのだろう。

「はい……はい……は、はい」

 要領を得ない返事を何度か繰り返した後、少女の母親は僕に向かってこう告げた。

『あの子はあなたとの日々を思い出して、何度も闘病してきたの。だから、わたしもあの子もあなたにすごく感謝してるのよ。本当にありがとう』

 少女は忘れていなかったのだ。

 僕のことを思い出してくれていた。僕のことを励みにしてくれていた。当時助けられていたのは、僕の方だったのに。

「こちらこそ、ありがとうございます。わざわざお電話していただいて、教えていただいてありがとうございます」

『うぅ……うん、うん』

 受話器の向こう側で嗚咽が聞こえる。そして―

『あなたは長生きしてね。あの子が生きられたかった未来を生きてね』

「はい、そのつもりです」

 涙をぬぐいながら、そう伝えると、僕は隣で僕を見えていた母親に受話器を渡す。

 瞬間、がくっと膝が折れる。

「……あ、あれ?」

 意思もなく、身体が崩れることはそれまでなかった。

 身体は脱力しきっていて、もう動かすことはできなかった。

 次に動くことができたのは、それから二時間後だった。


 あれから僕は壊れてしまった。

 何も失うことのない世界があればいいのにと切望するようになった。

 何も失わない。

 それはその世界が滅んでいるのと同様だ。

 だから、僕は世界の崩壊を望む。

 だから、今日もこう願うのだ。


「世界が滅べばいいのに」



 

初投稿です!

続くかわかりませんが、

次回があればよろしく!

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