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第4話 パン屋のドア

 放課後。


 春人はいつもより少し遠回りをして帰っていた。


 理由はない。


 ただ、まっすぐ帰る気になれなかっただけだ。


 気がつけば、足はパン屋の前で止まっていた。


 昨日の会話が、まだ頭のどこかに残っている。


「パン屋に行こうかな」


 たったそれだけの言葉なのに、不思議と消えなかった。


 店の前で立ち止まる。


 ガラス越しに、パンが並んでいる。


 パンの宝石箱みたいな世界。


 入ればいいだけだ。


 それだけのことなのに、足が動かない。


「……やっぱり無理かも」


 そう呟いた、そのとき。


「お、来とるやん」


 背後から声がした。


 佐伯だった。


 きちんとした服を着て、カバンを手に持った佐伯だった。


 春人は一瞬、違和感を覚える。


「佐伯さん……今日、ちゃんとしてますね」


「いつもちゃんとしてるわ」


 佐伯は即答する。


「いや、いつもは缶コーヒーの人です」


「それはそれや」


 軽く流して、佐伯はパン屋のドアを見た。


「入らんのか?」


「ちょっと……思ってたより緊張してて」


 春人は苦笑する。


 佐伯は一度だけ店の中を覗いて、それから言った。


「パン屋で緊張すなや」


 そう言って、迷いなくドアを押した。


 チリン、と軽い音が鳴る。


 その音が、春人の背中を押した。


 中は思ったより静かだった。


 焼き立てのパンの匂いと、トングの音だけが広がっている。


 それだけで、世界が少しやわらかくなる。


「ほら、メロンパンあるぞ」


 佐伯が当然のように言う。


「昨日言ってましたね」


「言うたな」


 春人はトレーを手に取る。


 その動作ひとつが、少しだけ自分のものになった気がした。


 そこへ、軽い足音。


「春人くん!」


 ひまりだった。


 エコバッグを持っている。


「なんでここに?」


「パン買いに来た!」


 迷いのない答えだった。


「予定通りやな」


 佐伯が笑う。


 さらに少し遅れて、美代が入ってきた。


「みんな揃ってるのね」


 少し驚いたように、でもどこか嬉しそうに言う。


「偶然ですか?」


 春人が聞くと、美代は少しだけ首を振った。


「偶然でもいいし、予定でもいいのよ」


 その言葉に、春人は少しだけ黙る。


 それぞれがパンを選ぶ。


 同じ空間にいるのに、やっていることはバラバラだ。


 でも、不思議と離れている感じはしなかった。


 春人はメロンパンをトレーに乗せた。


 ただのパンだったものが、少しだけ意味を持つ。


 会計を終えて外に出ると、夕方の光が街を染めていた。


 パン屋の前で一度、足が止まる。


 誰からともなく、同じ方向へ歩き出した。


 帰るはずの時間なのに、なぜか足はそろっていた。


 気がつけば、いつもの公園のベンチにたどり着いていた。


 約束をしたわけじゃない。


 なのに、そこが“次の場所”みたいになっていた。


 春人は少し笑いそうになる。


 ベンチに集まる流れが、もう当たり前になりかけていた。


「なんやこれ」


 佐伯がベンチに腰を下ろしながら言う。


 きちんとした服にカバンを持ったまま座っている姿が、妙に落ち着かない。


「佐伯さん、それ仕事帰りみたいですね」


 春人が言うと、佐伯は少しだけ眉を上げた。


「仕事帰りや」


「いや、ここ公園ですけど」


「公園にも帰るねん」


 真顔で言うので、ひまりが吹き出した。


「変なの!」


 美代も静かに笑う。


「でも、その格好だとちょっとだけ真面目な人に見えるわね」


「いつも真面目や」


 佐伯は即答する。


 そのやり取りが少しおかしくて、春人も小さく笑った。


 パンを食べながら、何もない時間が流れる。


 でもその“何もなさ”が、少しだけ心地いい。


 春人は気づく。


 パン屋に行っただけなのに、

 なぜか今日の終わりがここになっている。


 帰る場所でもないのに、

 帰ってきたような気がしていた。

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