幕間一:世界の端で、二つの伝説が動き出した件
王都から遥か北。
人の声も、獣の鳴き声すら届かない廃都の最奥。
ノースリーチの荒野と呼ばれる場所にて。
かつて繁栄したその街は、今では崩れ落ちた石壁と蔦に覆われ、誰も近づかない死の都となっていた。
その中心に。
ただ一つだけ、無傷の黒い塔が立っている。
塔の内側は薄暗かった。
灯りはない。
だが、不思議と完全な闇にもならない。
まるで“影そのもの”が空間を満たしているような、そんな暗さだった。
部屋の中央。
一人の少女が、壊れた黒い人形を抱いて座っていた。
黒紫の長髪は床へ溶けるように広がり、巨大な魔女帽子には黒薔薇と歪な十字飾りが絡みついている。
幾重にも重なった漆黒のドレスは、まるで夜そのものを切り取ったようだった。
破れた裾。
揺れる鎖。
鈍く光る紫の刺繍。
その姿は、可憐というより“禍々しく美しい”という言葉が似合う。
少女の周囲には、無数の人形が並んでいた。
笑顔のもの。
泣き顔のもの。
目のないもの。
手のないもの。
どれも一様に、少女の方を向いている。
「…………」
少女は動かなかった。
ただ、ぼんやりと窓の外を見ていた。
窓の向こうには、崩れた廃都が広がっている。
灰色の空。
止まった風。
死んだ街。
何も変わらない景色。
何も変わらない時間。
ずっと。
ずっと、そうだった。
――その時だった。
胸の奥が、熱を帯びた。
「……ぁ」
少女の肩が、小さく震える。
知らない感情だった。
知らないはずの言葉だった。
なのに。
その言葉だけは、あまりにも自然に浮かんだ。
まるで、ずっと昔から知っていたように。
まるで、ずっと探し続けていたように。
「……お父様?」
少女はゆっくりと目を見開いた。
虚ろだった琥珀色の瞳に、初めて強い感情が宿る。
抱きしめた人形が、ぎしりと軋んだ。
「お父様……!」
瞬間。
紫黒の魔力が爆発した。
塔の窓ガラスが一斉に砕け散る。
廃都の瓦礫が宙を舞い、遠くの石壁が轟音と共に崩れ落ちた。
並んでいた人形たちが、一斉に顔を動かす。
笑った。
みんな、笑った。
少女もまた、涙を流しながら笑っていた。
「いた……」
掠れた声だった。
「やっと……いた……」
ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
会ったことなどない。
顔も知らない。
名前すら知らない。
なのに。
ずっと探していた気がした。
ずっと、恋しかった気がした。
胸が苦しくなるほど。
狂いそうになるほど。
会いたかった。
少女は理解していない。
それが“後から植え付けられた感情”だということを。
ただ。
心の奥底だけは、確信していた。
この世界のどこかに。
自分が探し続けていた“お父様”がいる。
だから。
探しに行かなければならない。
何を壊してでも。
何を犠牲にしてでも。
「待っててね、お父様」
少女は壊れた人形を抱き締める。
恍惚とした笑みが、ゆっくりと広がった。
「今すぐ……会いに行くから」
静かな声だった。
だが、その言葉には。
廃都を揺るがした魔力よりなお昏い執着が宿っていた。
そして。
《災厄の魔女》は。
久しぶりに、廃都の外へ足を踏み出した。
かつて世界を彷徨い。
行く先々で街を滅ぼし、人々から恐れられ。
いつしか“災厄の魔女”と呼ばれるようになった少女。
だが今の彼女には。
もう、世界そのものなどどうでもよかった。
ただ一つ。
“お父様”に会いたい。
その想いだけが、少女を動かしていた。
長い眠りのような停滞を終え。
世界最悪の災厄が、再び歩き始める。
◇ ◇ ◇
バロウディープ鉱山地帯。
切り立った峡谷の奥で、轟音が響いた。
巨大な魔物の身体が、真っ二つに裂けて崩れ落ちる。
鮮血が舞い。
白銀の髪が風に揺れた。
エルシア・ルーンフェルトは静かに剣を払う。
月光のような銀髪。
透き通る青い瞳。
白と蒼を基調とした軽装の鎧は、美しさと実戦性を兼ね備えていた。
細身の身体。
だが、その立ち姿には一切の隙がない。
ただそこに立っているだけで、“強者”だと理解させる完成された存在感。
まるで、一振りの剣がそのまま人の形を取ったようだった。
「……終わりました、師匠」
エルシアは静かに振り返る。
その先。
岩の上で胡坐をかき、酒瓶を片手にしていた小柄な少女が、のんびり顔を上げた。
「うむ。見事じゃ」
銀白色の髪を無造作に結い上げた、小柄な鬼人。
額から伸びる二本の角。
幼い見た目とは裏腹に、その瞳には長い年月を生きた者だけが持つ深淵が宿っていた。
和装を崩したような旅装。
下駄。
包帯の巻かれた足。
そして、少女の背丈ほどもある巨大な呪具。
どう見ても、ただの小娘には見えない。
だが同時に。
どれだけ目を凝らしても、“強さ”そのものは感じ取れない。
だからこそ異様だった。
その少女が岩の上へ立った瞬間。
峡谷の空気が変わった。
風が止む。
鳥の声が消える。
周囲の魔物たちの気配までもが、完全に沈黙する。
まるで世界そのものが、彼女へ道を譲っているようだった。
「さて」
少女は酒を一口飲み、空を見上げた。
「お主も、もう十分一人前じゃな」
「……師匠?」
エルシアは僅かに眉を寄せる。
「わしがおらんでも、問題なかろう」
少女――剣聖の師匠は、どこか遠くを見るように目を細めた。
「じゃから、わしは少し動くかの。久しぶりに、昔馴染みにでも会いに行こうと思ってな」
エルシアは目を瞬かせた。
「……昔馴染み、ですか?」
「うむ」
「そのような方が、いらっしゃったのですか」
「うむ」
「……初耳です」
「そうじゃったか?」
師匠は頭を掻いた。
自分でも、不思議だった。
つい先ほどまで。
そんな相手のことなど、一度も思い出したことがなかった。
長い長い時を生きてきた。
だが記憶を探っても、その男と並んで歩いた景色は見つからない。
なのに。
確かに、いる気がする。
遠い異国から来た男が。
昔、自分と肩を並べて笑っていたような。
そんな感覚だけが、骨の奥へ静かに染み込んでいた。
「……妙なものじゃのう」
師匠は小さく笑う。
「どこにおるんじゃったかのう」
ぼんやりと呟く。
エルシアはしばらくその横顔を見つめていた。
そして。
「……でしたら、私も同行いたします」
師匠は片眉を上げた。
「ほう?」
「興味があります。師匠の昔馴染みとやらに」
「長旅になるかもしれんぞ」
「構いません」
即答だった。
師匠は少し笑う。
弟子の目が本気だとわかった。
「好きにせい」
それだけ言って歩き出した。
小さな背中だった。
だが。
一歩踏み出すたび、峡谷の空気そのものが変わっていく。
白銀の剣聖が、その後を追う。
二つの伝説が。
静かに、王都へ向かい始めていた。
◇ ◇ ◇
その頃。
全ての原因を作った男は。
宿の狭い部屋で、軋むベッドに横になり。
何も知らずに眠っていた。
隣の部屋からは、コレットが母親と話す声が微かに聞こえている。
窓の外では、《エルドリア》の夜が静かに続いていた。
ただの夜だった。
何も変わらない、ただの夜のはずだった。
だが。
世界の端では。
少女が、人形を抱いて歩き始めていた。
山では。
鬼人の師匠と白銀の剣士が、麓へ向かっていた。
恒一は知らない。
自分が書いた一文が、二つの伝説を動かしたことを。
まだ、何も知らなかった。
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