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第二話:ノートの力を確かめたら、昔の黒歴史を思い出した件

 翌朝。


 軋むベッドで目を覚ました恒一は、しばらく天井を見つめた。


 薄暗い木造の部屋。


 染みだらけの壁。


 窓の外から聞こえる、喧騒。


「……異世界か」


 夢じゃなかった。


 溜め息をついて身を起こす。


 昨夜のことを思い返す。


 ノートに書いた。


『獣人は、俺に耳を撫でられると安心感を覚え、従順になる』


 あの瞬間、確かに何かが震えた気がした。


 だが本当に効いているのか、まだわからない。


 ――試してみるか。


 そう思ったわけではない。


 ただ、確かめたかった。


 自分の力が、本当に”機能している”のかどうか。


 恒一は上着を羽織り、部屋を出た。


 ◇ ◇ ◇


 宿の一階は、食堂を兼ねた広間になっていた。


 朝の時間帯だからか、客はまばらだ。


 恒一が階段を降りた瞬間。


「あ、おはようございます!」


 明るい声が飛んできた。


 カウンターの向こうに、少女がいた。


挿絵(By みてみん)


 茶色い髪。


 ふわりと揺れる狼耳。


 クリームと茶色のフリルエプロン。


 腰には小さな革ポーチ。


 そして、ぱたぱたと揺れる太いしっぽ。


 琥珀色の瞳が、恒一を見てにっこりと細まった。


「昨夜遅くのご到着でしたよね。ゆっくり眠れましたか?」


 愛想がいい。


 商売上手な笑顔だ。


 恒一は適当に頷いた。


「まぁ、それなりに」


「それはよかったです! 朝食はいかがですか? 今日はスープとパンと、焼き野菜がありますよ」


「もらおう」


「少々お待ちを!」


 少女は軽やかな足取りで厨房へ消えていく。


 恒一は窓際の席に腰を落ち着けた。


 しばらくして、湯気の立つスープとパンが運ばれてくる。


「はい、どうぞ。あ、私、コレット・ミルフィといいます。この宿で働いてます!」


 屈託なく笑う。


 十六、七歳といったところか。


 まるで警戒心がない。


「佐藤恒一だ」


「サトウ・コウイチ……? 珍しいお名前ですね。どこかの遠い国の方ですか?」


「まぁ、そんなところだ」


 恒一はスープを一口すする。


 薄味だが、悪くない。


 コレットはカウンターに戻りながらも、ちらちらとこちらを見ていた。


 好奇心旺盛なのだろう。


 獣人というのは、人間に比べて感情が顔に出やすいのかもしれない。


 耳が、ぴくぴくと動いている。


 恒一は手を止めた。


 ――そういえば。


 昨夜書いた一文が、頭をよぎる。


『獣人は、俺に耳を撫でられると安心感を覚え、従順になる』


 試す気はなかった。


 本当に、なかった。


 だが。


「コレット」


「はい?」


 少女がカウンターから顔を上げる。


「ちょっとこっちに来てくれるか」


「えっ、何かありましたか?」


 コレットが首を傾げながら近づいてくる。


 恒一は軽く手を伸ばした。


 そして。


 ふわり。


 狼耳の付け根を、指の腹でそっと撫でた。


 その瞬間。


 コレットの動きが、止まった。


「…………あ」


 小さな声が漏れる。


 狼耳がぺたんと伏せる。


 しっぽが、ゆっくりと揺れ始めた。


 琥珀色の瞳が、とろりと緩む。


挿絵(By みてみん)


「……な、なんで……」


 コレットは自分でも理解できないように、ぽつりと呟いた。


「きもちい……」


 そのまま、眉根を寄せて恒一の手を見つめる。


「あの、私……なんか、落ち着きます……」


 困惑しながらも、逃げない。


 むしろ、僅かに身体が近づいてくる。


 恒一は手を引いた。


「…………」


 静かに、スープに視線を戻す。


 コレットはしばらくぼうっとしていたが、やがてはっと我に返った。


「す、すみません! なんか急にぼーっとしちゃって……!」


 耳まで赤くしながら、小走りでカウンターへ戻っていく。


 しっぽは、まだ揺れていた。


 ◇ ◇ ◇


 コレットはカウンターの奥へ戻ると、皿を拭くふりをしながら、自分の耳にそっと触れた。


 まだ、熱が残っている気がした。


「……なに、今の」


 小さく呟く。


 知らない男だった。


 昨夜、遅くに泊まりに来た客。


 黒い髪に、疲れた目をした、変わった服装の男。


 名前は、サトウ・コウイチ。


 遠い国の人だと言っていた。


 普通なら、警戒するべき相手だ。


 王都エルドリアの下層区にある安宿には、ろくでもない客だって来る。


 獣人の耳に勝手に触れる人間も、珍しくはない。


 だから本来なら、嫌がるべきだった。


 少なくとも、少しは身を引くはずだった。


 なのに。


 触れられた瞬間、身体から力が抜けた。


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 不安が溶けていくような、妙な安心感があった。


「……変なの」


 コレットは耳を押さえたまま、ちらりと窓際の席を見る。


 恒一は何事もなかったように、静かにパンをちぎっていた。


 こちらを見ていない。


 それなのに、なぜか視線を向けたくなる。


 もう一度呼ばれたら、きっとすぐに行ってしまう。


 そう思ってしまった自分に、コレットは少しだけ戸惑った。


「別に……変な人じゃ、なさそうだけど」


 昨日の夜に来たばかりの客。


 ほとんど何も知らない相手。


 それなのに。


 なぜか、怖くない。


 むしろ、近くにいると落ち着く。


 そんなはずはないのに。


 そんなはずはない、と頭では思うのに。


 身体の奥では、もう答えが決まっているような気がした。


 コレットは無意識に、もう一度自分の耳を撫でる。


 しっぽが、ぱた、と小さく揺れた。


 ◇ ◇ ◇


 恒一はパンをちぎりながら、静かに息を吐いた。


「……本当に効いてるのか」


 ノートの力は、現実だった。


 当たり前だ。


 地球でも、何度か”確認”したことがあった。


 わかっていた。


 ずっと前から、わかっていた。


 だが。


 改めて突きつけられると、笑えてくる。


「……おかしいな」


 苦笑が漏れた。


 そして。


 恒一は思い出した。


 二十歳の頃のことを。


 ◇ ◇ ◇


 あれは大学二年の春だった。


 当時の恒一は、どこにでもいる平凡な学生だった。


 友人は少なく、恋人もおらず、バイトと講義を繰り返す地味な日々。


 そんなある日。


 大学近くの古本屋で、一冊の黒いノートを拾った。


 正確には、棚の裏に落ちていたのを、店主に渡そうとして――なぜか、手放せなかった。


 理由はわからない。


 ただ、持っていなければならない気がした。


 家に持ち帰り、適当に落書きをした。


『明日、晴れる』


 翌日、晴れた。


 偶然だと思った。


『財布に千円が増えている』


 増えていた。


 青ざめた。


 それから一週間、恒一はノートに触れなかった。


 だが。


 二十歳の男子大学生が、“何でも書いたことが現実になるノート”を手にして、自制し続けられるわけがなかった。


 限界は、あっけなく来た。


 きっかけは、同じゼミの女子学生だった。


 名前は確か、田中さん。


 特別に好きというわけではなかった。


 ただ、なんとなく気になっていた。


 それだけだった。


 それだけのはずだった。


 恒一はノートを開き、ペンを走らせた。


『田中さんは、俺のことが好きになる』


 翌日。


 田中さんが話しかけてきた。


 それまで接点などほとんどなかったのに。


「佐藤くんって、いつもどこでお昼食べてるの?」


 にこにこと、屈託なく笑っていた。


 恒一は内心で浮かれた。


 効いた。


 効いてしまった。


 だが、浮かれていたのは一日だけだった。


 その夜。


 仲の良かった友人、中村から連絡が来た。


 通話越しに、声が硬かった。


「なぁ恒一。田中さんと、何かあったか」


 恒一は一瞬、固まった。


「……いや、別に。今日少し話しただけだけど」


「そうか」


 短い沈黙。


「田中さんからさ、今日LINE来たんだよ」


 中村の声が、少し低くなった。


「別れてほしいって」


 恒一は、言葉を失った。


「理由聞いたら……好きな人ができたって」


 静かな声だった。


 だからこそ、重かった。


「田中さんと俺、付き合って半年だったんだけどな」


 恒一は受話器を握ったまま、動けなかった。


 田中さんと中村が付き合っていたことを、知らなかった。


 いや。


 知ろうとしていなかった。


「なんとなく気になっていた」女の子に、軽い気持ちで一文書いた。


 それだけだった。


 それだけで。


 半年続いた関係が、終わった。


「……中村、悪い」


「え? お前が謝ることじゃないだろ」


「いや、そうじゃなくて」


 言えなかった。


 言えるわけがなかった。


 恒一は通話を終えた後、しばらくベッドに倒れ込んでいた。


 天井を見つめたまま、動けなかった。


 最悪だった。


 田中さんが悪いわけでも、中村が悪いわけでもない。


 全部、自分のせいだ。


 “好きになる”と書いた。


 田中さんの意思を、書き換えた。


 その結果、田中さんは本当に”好きな人ができた”と感じて、中村に別れを告げた。


 誰も傷つけるつもりなんてなかった。


 ただ少し、浮かれたかっただけだった。


 それだけで。


 取り返しのつかないことになった。


 恒一はその夜、ノートをクローゼットの奥にしまった。


 それから一度も、開かなかった。


 三十八歳になるまで。


 ◇ ◇ ◇


 恒一はスープの椀を置いた。


 すっかり冷めていた。


「……馬鹿だったな、あの頃」


 苦い笑いが漏れる。


 中村とは、それから少しずつ疎遠になった。


 田中さんがその後どうなったかも、知らない。


 知りたくなかった。


 だから封印した。


 十八年間。


 だが。


 恒一は窓の外を見た。


 《エルドリア》の朝の喧騒が続いている。


 獣人が荷物を運んでいる。


 エルフの行商人が声を張っている。


 ここは異世界だ。


 中村も、田中さんも、いない。


 自分を人間扱いしなかった世界で、自分が傷つけた人間もいない。


「……気にすることはないか」


 小さく呟く。


 だが。


 コレットがカウンターの向こうでこちらをちらりと見て、すぐ目を逸らした。


 耳が、少し赤い。


 恒一はそれを見て、静かに立ち上がった。


 ごちそうさま、とだけ言って。


 部屋に戻る。


 ノートを取り出す。


 表紙を、しばらく眺めた。


 中村の顔が、頭をよぎった。


 ――それでも。


 ここは異世界だ。


 恒一はノートをコートの内ポケットにしまった。


 さて。


 今日から、本格的に動き始めよう。

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