第九話:この異世界にだんだんと慣れてきた件
勇者たちが王都を見学し、大騒ぎになった翌日。
エルドリアの朝は、いつも通り始まっていた。
宿の一階からは、皿のぶつかる音と香ばしい匂いが漂ってくる。
佐藤恒一はベッドから身体を起こし、小さく息を吐いた。
「……静かだな」
昨日は街中が勇者の話題で持ちきりだった。
宿の食堂でも、酔っぱらった客たちが延々と勇者談義を続けていたくらいだ。
だが今日は、もう落ち着いている。
祭りの翌日のような、どこか気の抜けた空気が街全体に漂っていた。
恒一は顔を洗い、コートを羽織る。
内ポケットには、黒いノート。
それを確かめてから、一階へ降りた。
◇ ◇ ◇
「おはようございます、コウイチさん!」
食堂へ入るなり、コレットが元気よく手を振った。
狼耳がぴこぴこと動いている。
「おはよう」
「今日はいつもより早いですね」
「昨日は早めに寝たからな」
「健康的ですねぇ」
カウンターの向こうでは、コレットの母親が朝食の皿を運んでいた。
「最近、ちゃんと冒険者っぽくなってきたじゃないかい」
「そうですか?」
「最初は今にも野垂れ死にしそうな顔してたからねぇ」
「ひどい言われようだな……」
コレットがくすくす笑う。
「でも確かに、最初より顔色いいですよ」
「宿と飯のおかげだ」
「えへへ」
コレットは嬉しそうに笑った。
出された朝食を食べながら、恒一はぼんやりと考える。
召喚されてから、一週間と少し。
異世界だという実感が薄れることはない。
だが。
少なくとも、生活のリズムはでき始めていた。
朝起きて。
飯を食って。
ギルドへ行き。
依頼を受ける。
それだけだ。
それだけで、生きていける。
今の恒一には、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
冒険者ギルドは、朝から賑わっていた。
昨日の勇者騒ぎの話をしている連中も多い。
「見たか? 黒髪の勇者様!」
「めちゃくちゃ格好よかったよなぁ。まさに勇者って感じだった」
「他の二人もすごかったぞ。聖女様みたいな美人がいたし」
「金髪の子もすげぇ人気だったな」
そんな声を聞き流しながら、恒一は依頼掲示板を眺める。
薬草採集。
荷運び。
倉庫整理。
魔物討伐。
「……ん?」
恒一は、一枚の依頼書で手を止めた。
『下水路の清掃補助及び小型魔物駆除』
報酬は薬草採集より少し高い。
危険度も低め。
だが、受ける冒険者は少ないのか、依頼書は随分前から貼られたままになっていた。
「下水か……」
少し考える。
派手ではない。
だが、こういう依頼は案外大事だ。
会社員時代にもいた。
目立つ仕事ばかりやりたがる人間。
実際には、誰かが地味な仕事をやらなければ何も回らないのに。
「これでいいか」
恒一は依頼書を剥がした。
◇ ◇ ◇
「下水路依頼?」
受付のミレイナが目を瞬かせた。
「珍しいですね。コウイチさんなら薬草採集を選びそうなのに」
「たまには別のこともやってみる」
「へぇ……」
ミレイナは少し感心したようだった。
「でも、下水路は臭いますよ?」
「満員電車よりマシだろ」
「?」
「いや、こっちの話だ」
ミレイナは首を傾げたが、深くは聞かなかった。
「最近、小型のスライムが増えているみたいなので気をつけてください。こちら、簡単な地図です」
「了解」
依頼証を受け取り、恒一はギルドを出る。
その背中を、近くの若い冒険者たちがちらりと見ていた。
「また薬草のおっさんかと思ったら、今日は別なのか」
「地味な依頼ばっか受けるよな、あの人」
「でも、ちゃんと毎回依頼達成してるよな」
恒一は気づいていない。
少しずつ、“ちゃんとした冒険者”として認識され始めていることに。
◇ ◇ ◇
下水路は、想像以上に酷かった。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
湿った臭気。
濁った水。
ぬめつく石壁。
そして、奥の方からぴちゃぴちゃと何かが動く音。
「スライムか」
現れたのは、小型の灰色スライムだった。
犬ほどのサイズ。
単体では弱い。
だが、放置すると増えるらしい。
恒一は周囲を観察した。
焦らない。
まず状況確認。
それは、会社員時代から染みついた癖だった。
「狭い通路……数は三匹」
正面突破でも勝てる。
だが。
「無駄に怪我したくないな」
恒一は内ポケットからノートをわずかに取り出した。
誰にも見えない角度で、小さく一文を書く。
『下水路の古い木箱が、ちょうどスライムの進行方向へ倒れ込む』
次の瞬間。
ぐらり、と横の木箱が崩れた。
スライムたちが潰され、動きを止める。
「……よし」
恒一はその隙に距離を詰め、短剣で核を破壊した。
一匹。
二匹。
三匹。
あっさり終わる。
「便利すぎるだろ、このノート……」
改めてそう思う。
だが同時に、恒一は決めていた。
なるべく頼りすぎない。
あくまで“少しだけ運が良くなる程度”に留める。
目立つのは危険だ。
何より。
このノートを、自分でも完全には信用していなかった。
◇ ◇ ◇
「お疲れさまでした」
依頼達成の報告をすると、ミレイナが笑顔で報酬袋を差し出した。
「ちゃんと下水路の詰まりまで直してくれたんですね」
「途中で詰まりかけてたからな」
「普通、魔物を倒したらそのまま帰る人が多いんですが」
「気になるだろ、ああいうの」
ミレイナは少し笑った。
「やっぱりコウイチさんって、変わってますね」
「褒め言葉か?」
「半分くらいは」
報酬を受け取り、恒一はギルドを出た。
空はもう夕方だった。
エルドリアの街並みが、橙色に染まっている。
「……悪くないな」
ぽつりと呟く。
地味な依頼だった。
派手な戦いも、英雄的な活躍もない。
だが。
こうして働いて、飯代を稼ぎ、生きていく。
その感覚は、少しだけ心を落ち着かせた。
宿への帰り道。
佐藤恒一は今日もまた、“普通に生きる”ために街を歩いていた。
それだけだった。
ただそれだけの、平凡な一日だった。
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