深まる苦悩
あれから、僕の方から会話を振るのが気まずくて、又、おそらく彼の方も何となくそれを察してか、気まずい沈黙が続いた。
「そろそろだな」
沈黙を破ったのは彼だった。そういわれて窓の方を見てみるとすっかり日も暮れていた。
「行くか」
短く彼は用件だけを述べ、僕も
「はい」
とだけ返した。
お互い無言のままナイフの光を追うこと約一時間、僕らは黒い建物の塊の前にたどりついた。
「あれ?」
急にナイフの光が色々な方向に散りだした。
「どうかしたのか?」
ナイフの光が見えない彼が問うてきた。
「それが……、ナイフの光が急に拡散して」
戸惑いながら伝達した情報を聞いて彼は少しの間考え、
「多分、それは敵の武器の効果だと思う」
と思案の結果を述べた。それを聞いて、この戦いにどうにものめり込めない僕は、彼に帰ろうと提案しようとしたが、彼の目を見た瞬間、そんな言葉は消えていった。彼の目は真っ直ぐに自分の願いを見つめていた。僕には……それは、無い。
「行こう」
「……はい」
何も言えなかった。その愚直なまでに一途な顔に何も言えなかった。
「敵はこの建物の塊の中にいる」
「……はい」
僕らは門をよじ登って中に入った。
門をよじ登って暫く歩くにつれて、黒い塊の正体が明らかになった。
「潰れた工場ってかんじかな」
一端、二人は立ち止まり、僕がその正体を述べた。一方彼の方は、
「ナイフの光は当てにならない。この広い工場群じゃ、敵がどこに潜んでいるか分からないな」
今の状況について述べつつ銃のチャンバーを引いた。僕はどうしても納得いかなくて、でもそれが何故なのか、何についてなのか少しこんがらがっていて、銃を構えることが出来ずにいた。と、彼が小さく笑いながら僕に話しかけてきた。
「まったく、俺の時は死ぬかと思うぐらい追いかけてきたくせに」
「あ、あの時は防衛戦でしたから。でも今回は違います」
彼の言葉に不満をぶつけるように言う。
「敬語、戻ってるぞ。まあ、そうだな」
本当に人が良いというかなんというか。そんなことを言う。
「だけど、死ぬなよ」
「はい。お互いに」
最後に互いの健闘を祈った後、
「行くぞ!」
という彼の小さく、しかし力のこもった声を聞いて、僕らは戦場へと駆けだした。
門の前から駆けだして暫くすると、コンテナが大量に積まれている所に出た。二人の脚はそこでまた止まる。
「注意した方が良いな」
彼がそう呟いた。僕もそれに同意し、二人はコンテナとコンテナの間に居るかも知れない敵に警戒しつつこのコンテナの群れを確認していく。恐る恐る除いては隙間に銃を突きつけて進む。
そして、それは僕らが十数回同じことを行ったときに起きた。また同じようにコンテナを確認していた僕らだったけれど、さすがに素人に長いことそんな異常な緊張感が保てるわけがない。次第に精神的に疲れてきていた。
「ここには居ないんじゃないの?」
僕がそう思わず言葉を口にした瞬間だった。
「逃げて!」
「!」
女性、いや少女の声が突然聞こえてきた。その刹那、今から確認しようとしていたまさにそのコンテナから人影が現れ、こちらに向かって渾身の力で何かを振るってきた。何とか避けられた僕らにもう一撃を振るおうとする人影。だが、それの身体はそこで止まる。
「逃……げ……て」
苦しそうに告げる声はさっき僕らを助けた少女の声だった。
「どうなってるんだ!?」
わけのわからない状態に彼が叫ぶように誰かに答えを求めた。
「知るわけ無いでしょう! 敵の武器ですよ!」
僕はそう叫ぶ。彼は構えていた銃の引き金を引く。だが、そこでとんでもない物を見てしまった。
「銃弾を切った!?」
思わず叫んでしまった。放った銃弾を彼女は持っている何かを振るうことで確実に回避したのだ。月の光に照らされて、その「何か」は正体を現した。
「日本刀!」
彼女は苦しそうにまた言葉を吐く。
「こ……れが、勝……手に」
そう言うやいなや、その刀を振るってきた。僕らはまた辛くも避けるが、しかしここで問題が発生した。彼女の太刀を避けた際に二人は丁度、彼女を挟んで左右に分かれてしまったのだ。
そして――、彼女と目があったのは彼女から見て左側にいる僕だった。
「に……逃……げて」
またしても僕は命の危機に臨むことになったようだ。
コンテナの群れをかき分けながら必死に逃げる。彼女と目があった瞬間、殺気を感じ、脚が一歩踏み出されるや否や全速力で彼女から逃げだした。申し訳ないが、逃げるので精一杯で向こうにいた相棒のことを気遣う余裕なんて無かった。ただ、後ろから
「逃……げ……て」
と言いながら追いかけてくる少女が居ることから見ても危険なのは僕の方だろう。
「はぁ、はぁ。なんで僕ばっかりこんな目に遭わなくちゃいけないんだ!」
いざ、命の危機が訪れれば人はその本質を表す。僕もこうして生きることにしがみついている。
「!」
石につまずいてしまった。
「うわぁぁぁぁっ!」
僕は転んでしまう。そこに猛スピードで追いかけてきた少女が追いつく。そして、彼女が刀を振り上げて、それを僕に振り下ろす。迫る死の恐怖。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
またも叫んで、僕は本能の動くまま、両腕で身体を守ろうとする。鉄と鉄がぶつかり合う音が響き渡る。もう駄目だと思ってつぶっていた両目を恐る恐る開くと、奇跡が起きていた。彼女の刀を左手の短刀が受け、その短刀を右手の拳銃が支えていた。
「くうっ!」
彼女は無言で力に任せて僕を叩き切ろうとしている。それを命がけで受け止める。受け止める傍らで何とか生き延びる方法をさがす。と、彼女の胴に思い切り隙が出来ているのに気付く。
「ごめん!」
一応、謝った上でその隙だらけの腹部に渾身の力を込めて蹴りを入れる。彼女の身体は意外なほどに軽く力なかった。思い切り蹴りを受けて軽く後ろにたじろいだ後、しゃがみ込んで噎せ返る。僕はその間に立ち上がり拳銃を彼女に向ける。形勢逆転。この引き金を引けば彼女は死ぬ。だけど、その時突然色々なモノが僕の中で再び渦巻き出す。
――暫くの沈黙。
「くそっ」
僕は彼女に背を向け、逃げ出した。
僕は彼女の命を救ったわけじゃない。ただ逃げたんだ。自分が彼女を殺すということから、彼女の願いを自分の願いで屠ってしまう罪の重さから。それは、ただただ自分勝手な業だった。だけど、殺すことは正しいことではない。僕は「正しく」ありたい。その気持ちだけで、彼女の命を長らえさせた。
「ん?」
突然マナーモードにしていた携帯が震え出す。表示は相棒だと言っている。
「はぁ、はぁ。もしもし?」
必死に走りながら電話に出る僕とは対照的に
「お、生きてたか。良かった、良かった」
向こうは落ち着いていた。
「なんですか? 今、必死で逃げてるんですけど」
「そうか、突然二人で追いかけっこしだしたから、思わず俺もどうしたもんかと悩んでしまったよ」
気楽だ。気楽すぎる。僕はこんなに死にかけてるって言うのに!
「僕たちは戦ってるんですよ! そんな気楽でよくいられますね!」
思わず怒った口調で彼に当たる。そうすると彼の声のトーンが変わって、
「そうだな。すまなかった。作戦がある。今どの辺にいる?」
と、言ってきた。
「作戦? とりあえず僕は今コンテナ群のAブロックにいるみたいです」
「そうか、Cブロックまで連れてこれるか? 敵を」
「C? Cブロックってどの辺ですか?」
「今から花火を打ち上げる。それを目印にそっちの方向に走ってくれ」
「花火?」
唐突に出されたアイテムの名前に僕は聞き返した。すると、彼は
「誰かさんの猿真似さ」
と皮肉っぽく言った。
そして、花火が打ち上げられた!
花火の打ち上がった方へ全速力で走る。後ろにはまだ回復しきっていないであろう少女が刀に引っ張られるように追いかけてきている。足元を見る。月明かりに照らされて「B」の文字が見える。その時もう一度花火が打ち上がる。僕はそれを目印に走り続ける。
二度目の花火が上がってからさほど経たずにCブロックが見え始めた。僕は携帯電話を取って相棒に電話する。
「Cブロックが見えてきたけど。これからどうすれば?」
「地面に太く続いてる線がないか?」
先程と同じく地面を見る。言われたとおり矢印と線が存在した。
「あった。ありました!」
「よし。それを辿ってDブロックを目指して走ってくれ」
「了解!」
指示通り足元に描かれた道を進む。後ろをちらっと見るとやはり少女がつんのめりながら走り追いかけている。
息もとぎれながら走る。矢印を見るともうすぐDブロックに行くらしい。正直、ここまで走り続けてかなり疲れてきていた僕はいっそここで止まったら楽になれるんじゃないのかというようなことを考えていた。と、そんな時に月明かりが僕に朗報を伝えてくれた。人影が見えたのだ。
「人影……、相棒しかいない!」
最後に、出せる限りの速度と意地で地面を蹴る。そして案の定相棒であった人影を通り過ぎて、その場に倒れ込んだ。倒れ込み際に後ろを見ると、彼女が相棒が上に上げたワイヤーだろうかのトラップに脚を引っかけて思い切り転けていた。起きあがろうとする彼女にコンテナの影に隠れていた相棒がタックルを仕掛ける。彼女はまた倒れ込み相棒がのしかかる。
「何惚けてるんだ! 刀を取り上げるのを手伝え!」
言われて自分がぼうっとしていることに気付いて、フラフラしながら彼女に近づいて腕を持ち、相棒と一緒に刀を放させようとする。
そして、刀は彼女の手から離れた。彼はそれを蹴り飛ばした後で地面に座り込んで一息ついた。僕もそれを見てほっとしたし、彼女も刀の呪縛から解き放たれて息を切らせている。
「死ぬかと思った」
そう呟いた僕に笑いながらおつかれさんと相棒が声をかける。少女も上体を起こしてぜーはー言ってる。
「ん?」
何かおかしくないか、この状況。
「あっ!」
三人が同時に声を上げる。そう、いよいよ来てしまったのだ、命を奪う時が。彼女が自分の状況に気付いて逃げ出そうとする。が、今まで刀に振り回されていた彼女にもう逃げる余力は無かった。後ろから相棒に胴を肩で抱かれてそのまま倒れ込んだ。
「や……やめて下さい」
彼女がなんとか這いずりながら逃げようとしている。彼はチャンバーを引く。僕は、……何も言えない。彼女が最終的にコンテナに行き場を阻まれたことで、その最後の鬼ごっこは終わった。
「殺さないで! お願い!」
細い身体を震わせながら嘆願する。彼は銃口を向ける。迷いは、無い。僕は、何も言えない。彼が僕に
「後ろを向いてろ。約束通りこの娘は俺が殺す」
「止めて下さい!」
金切り声で命を乞う少女。僕は、……何も言わずに後ろを向く。向くときに一瞥した彼女の顔は絶望で染まっていた。
銃声――。命が消えた。
僕たちはたった今、一人の人を殺した。何を願いこの戦いに参加したのかも、その人生がどんなものであったかも知らない一人の少女を。
「……嫌なもんだな」
ボソッと彼が呟く。少女は胸を一発撃ち抜かれ即死。その地面は血で染められていた。と、彼女の骸が消えていく。こうして彼女はこの世から存在を消すのだ。僕は苛立っていた。何にかは分からない。この子を救えなかったことだというのなら、それは、嘘だ。
「そろそろ、帰るか」
その言葉を聞いた瞬間、体中の血液が沸騰したかのような怒りが僕の中に表れた。
「逃げるな!」
「!」
彼が驚く、僕自身もこんなに大きな声が出るのかと少し驚いた。
「逃げちゃ駄目ですよ。僕らこの子を殺したんですよ」
「そう、だな」
彼が申し訳なさそうに言う。
「知ってましたか?」
僕は少し明るいトーンの声で、彼に問うた。彼は、当然、何を? と言葉を返してくる。
「このゲームの参加者は、殺されると存在自体なくなっちゃうんですよ」
「そう、なのか」
彼は暗いトーンで応える。
「誰も、泣いてくれないんですよ。この子のために。誰も、気付かないんですよ、この子がここでこうしていることに」
「そう、なのか」
「だけどここに二人だけ、彼女の死を知っている人間がいる。殺したくせに、その子の人生も知らずに。だけど、僕たちは知っている。だから……」
「泣いてあげませんか。僕らだけでも」
彼は僕のその言葉に返すことはなかったけどその場で立ち止まった。僕は、彼女の骸が消えるまでそこにいて、涙は流さなかったけど、心の中でいっぱい、泣いた。
そして僕たちは、互いの帰路についた。彼と別れて家路をふらつきながら辿る。身体はさっきまでの戦いでヘトヘト、頭は彼女の最期の絶望に染まった表情で一杯になっていた。どんな過去を持ちどんな経緯を経てこのゲームに彼女は参加したのだろうか。そして、僕らに、それらのことさえ知らない僕らに、彼女を殺すことなど許されるのだろうか。正直、何の躊躇もせず彼女を撃ち殺した彼に怒りを覚えた。だから、彼女が消える前に帰ろうとした彼に怒鳴らずにはいられなかったのだ。どんな願いだったら人を殺して良いというのか。馬鹿な、どんな願いであろうとも人を殺して良いはずがない。
きっと興奮が冷めやらなかったから、僕はそんな風に怒れていたのだろう。だけど、そんな僕に秋の夜風が語りかける。「お前は愚か者だ」と。次第に頭が冷やされてきて、忘れていた本当の自分の姿が脳裏をよぎった。そう、あれは彼女を蹴り飛ばし銃口を向けた時の僕の姿だ。僕はあの時逃げ出した。何からか? 当然、彼女を自分が殺すという事実からだ。そして彼は彼女を殺した。僕が逃げた罪を彼が飲み干したのだ。「偽善者」、「殺人者」、「嘘つき」そんな言葉が僕を襲う。どんな願いだったら人を殺して良いのか。愚かな、それさえせずに目の前で人が死んでいくのをただ見ていたくせに。
「うっ」
降りかかる真実の言葉に身体がよろめいた。「後ろを向け」彼は僕にそう言ってくれた。僕が彼女の死をその目に焼き付けないように。そう、本当に許されざる人物はここにいる。この僕だ。
「うわああああああああああああ!」
街の中、しゃがみ込んで叫ぶ。周囲を通る人が怪訝そうにこちらをみる。だけどそんなことより遙かに耐えられない真実が、言葉が僕の耳もとで囁かれる。たくさんの光景が、見ないでいようとした光景までもが読んでもないのに目の前に広がる。
「うわあああああああああああああああ!」
「……ですか?」
誰かが呼びかける声。だけど、聞こえない。
「うわあああああああああああああああああ!」
叫び続ける。
「大丈夫ですか!」
その時、頬を思い切り叩かれた。壊れそうな心を必死につなぎ止めながら叩いた主を探すと、目の前に女性が僕と同じくしゃがみ込んで僕を心配そうに見つめている。
「ここはマズイわ。とにかく人のいないところに」
僕は彼女に引っ張られるまま。人気のない場所に連れて行かれた。
気付いたら、僕の家へ向かう帰り道の途中にある公園のベンチで座っていた。目の前にそっと缶コーヒーが現れた。
「どうぞ、私のおごり」
そう言うと女性は僕の隣に座った。僕はもらった缶コーヒーを開ける。
「かなり、錯乱してたわね」
微笑みながら、彼女は僕にそう言った。
「そう、でしたか。すみません色々混乱してて」
「珍しい参加者さんね」
「!」
参加者、僕が戦いの参加者であることをこの人は知っている。
「誰だ!」
僕はベンチを離れて、ベンチに座っている彼女を睨み付ける。
「そんな、怖い顔しないで欲しいわ。それに、コーヒーはしっかり握りしめてるのね」
彼女は微笑みを崩すことなく僕に語りかける。そう言われて手元を見ると確かに右手でコーヒーをしっかり握りしめていた。
「あ」
自分の間の抜けた状態に思わず自分で唖然としてしまった。
「大丈夫よ、今貴方を殺そうなんて思ってないから。ただ、不思議な人だから話を聞きたいと思っただけよ」
「不思議な人?」
そう訪ねながら僕は彼女の隣に腰掛ける。
「だってそうでしょう? このゲームの参加者って自分の願いを叶えるために参加してるのよ、それこそ命を賭けて。普通、邪魔な敵を倒して喜ぶことはあっても、貴方のように道の真ん中で錯乱するのはおかしいでしょ。だから、話が聞きたいなと思って」
「僕は至って普通だと思いますけど」
おかしい人扱いされて若干ムスッとしながらそう言い返す。
「だから、話を聞かせて」
僕はこの女性に話をすることにした。
公園の四方に突っ立っている電灯の一つに蛾が寄っては避けて寄っては避けてを繰り返している。
「今日も一人、人を殺したんです」
「それで?」
沈痛な面持ちで打ち明ける僕とは対照的に彼女は笑顔だった。
「いや、正確には僕が殺したわけじゃないんですけど」
「誰かが殺したのを見てたってこと?」
「ええ、まあ。その、仲間が撃ったんですけど。撃たれた子の最期の顔が頭から離れなくて」
ここまで話している間に既に色々と大事な情報を垂れ流してる気がするけど構わず話し続けることにした。
「僕らはあの子がどんな気持ちでこのゲームに参加したのかも知らないし、どんな風に生きてきたかも知らない。そんな子を僕ら、自分達のために殺した。あんな顔までさせて」
「でも、大切な願いを叶えるためだもの四の五の言っていられないでしょう?」
「そのためだったら人を一人殺して良いんですか。間違ってますよ」
「だったらどうして止めなかったの、その仲間を」
「それは、その、勢いに押されたというか」
正論を言われて、返す言葉が無かった。
「それに、その仲間は貴方と同じように悩みながら撃ったってことは無いの?」
「それは無いですよ。あんなに躊躇い無く撃つんだから」
少し語気を強めて言葉を吐いた僕を見ながらも、微笑みを絶やすことなく、短く
「そう」
とだけ応えた。
「だけど、何か変ね」
「え、何がですか?」
「だって、聞いてる感じ理由が分からないもの、貴方が道の真ん中であんなに錯乱した理由が」
「うっ」
それはそうだった。僕は彼女に都合の良いことだけ話すことで自分を騙そうとしていた。だけど、彼女はいともたやすくそれを見破った。そして僕は白状する。本当の罪を。
「僕は逃げたんです。彼女を殺すということから」
公園の四方に突っ立っている電灯に寄っては避け、寄っては避けを繰り返していた蛾はとうとう地面に落ちた。熱さに負けて死んでしまった。
「僕には殺す機会があったんです、彼女を」
「なるほど、そこから逃げたってわけね」
彼女は僕の言おうとしていることを先に先に言ってしまう。その度に僕の心は痛いと主張した。だけど、この人に話したら少しでも気持ちが楽になるような気がして話し続けた。
「それに今回が初めてってわけじゃないんです。実はその前に一人殺してるんです」
「そう」
「その人は娘さんの病気を治したいって言ってました。僕はその人を殺してしまった」
「でも、殺さなかったら貴方が死んでいたのよ?」
「それはそうですけど、あの人は本当に必死だった。それを僕は踏みにじった。僕の願いなんて本当にくだらないのに。そのために殺してしまった」
「願い」という言葉を聞いて彼女がそこに反応した。言った直後にしまった、と思ったが言葉はもう既に彼女の耳に届いてしまっていた。そして彼女は予想通りの質問をしてくる。
「願い。そう言えばまだ聞いてなかったわね、貴方の願い」
「え? あ、そ、そうですね」
なんとかお茶を濁そうとしてみたが、明らかに不可能な状況だった。僕は潔く告白した。
「自分の存在を消すことです」
てっきり彼女は「だったら自殺すればいいだけじゃないの?」と言うと思っていたのに彼女は表情を崩すことなく。
「そうね、死ぬのは怖いものね」
と言った。あまりにも予想外な回答が返って来たので思わず自分の方から聞いてしまう。
「えっと、その、『自殺すれば良いんじゃない?』とか言わないんですか?」
それに彼女は平然と応える。
「たくさん葛藤して今ここに居るんでしょう? そんなこと聞く相手はもう自分で死んでるわ」
「そう、なんですかね。だけど、おかしくないですか?」
「何が?」
彼女がそう応えると少しくらいトーンで僕は
「だってそうでしょう、自殺すれば叶うような願いしか持ってない奴が命を賭けてでも叶えたいと思えるような願いを持っている人を殺すんですよ。それに、二人目はどんな理由を持っているかさえ知らなかった」
そう言った。そうすると彼女は少し微笑んで僕に言う。
「目を閉じて」
「へ?」
一瞬この人は突然何を言い出すのかと思ったけどその言葉に従って目を閉じた。と、突然口と鼻を塞がれた。
「!」
息が出来ない。次第に苦しくなっていき、僕は彼女を突き飛ばした。
「はぁ、はぁ」
空気を取り込もうと身体が必死に呼吸を再開する。
「はぁ、はぁ、な、なんてことするんですか!」
そう言って見た方には突き飛ばされて思い切り尻餅を打っている彼女の姿があった。そして彼女は微笑みながら言う。
「これで分かったでしょう、人間は生きる為ならどんなものだって傷つける様な生き物なのよ」
「あ」
それを言いたいがために彼女は敢えて僕の鼻と口を塞いだのだということに気付いた。彼女は続ける。
「私たちは生きるために何かを犠牲にして、生き続ける限り何かを傷つけて、汚す。そういう生き物なのよ。いえ、少なくともこの世の中にいる存在は何かしらの形でそういう業を行いながら存在している。だから、貴方がやったことは仕方がないことなのよ。私たちに正義はない。だからこそ正義なんて言葉があるのかもしれない」
なんとなく言ってることが分かるような分からない様な気がしたが、何となく認めてはいけない。そう思った。
「違う。どこかにそれはあるはずです。それは逃げですよ」
僕は抗議する。だが彼女はなんのことはない余裕をもって返してくる。
「でも、貴方は人を殺したわ。それに目の前で貴方のために人が死ななければそれが正しいと思っているのなら、それは間違っているし、そもそも私たちは生きるために多くの命を蹂躙している。この世界は主役がいて脇役が居る映画のような物、より主役に近い者がそうでない者を虐げる、それが当然なのよ。だから、貴方はその人達より主役に近かった。ただそれだけよ。あきらめなさい。それ以上先は私たちでは見ることさえ許されない領域」
やっぱり分かるようで、分からない。だけど、絶対に認めてはならないと心がそう叫んでいる。
「分かりませんよ! そんなの!」
僕はベンチから立ち上がり抗議する。今度はちゃんと缶コーヒーはベンチにおいて。彼女はそんな僕を見ても、表情さえかえず言葉を返す。
「そう。でも、いずれ分かるわ。そして自分が何者かも分かるはず」
彼女はベンチから立ち上がって、笑顔で
「今日は貴方と話せて楽しかった、ありがとう。また会いましょう、いずれ」
そう言って公園を去った。僕は何も言えずに彼女が暗闇に消えるのを見ていた。そして、彼女が消えた後にふと思い返す。鼻と口が塞がれたとき、口を塞いでいたのは手ではなかった。もっと柔らかい何か……。
もしかして、キスされた!?
僕は今、家のベッドに横たわって天井を見ている。一人になった公園を後にして、帰り道を歩き始め、考えることは彼女の言葉。彼女と話した後、少し救われたような気がした反面、彼女の発言をどうしても認められないという気持ちがあったのも事実だ。彼女の言葉に反論して、その反論に対して自分の中で浮き上がってくる反論に反論し、それを続けていると結局彼女の言葉に行き着く。それをぐるぐる、ずっと繰り返している。
「ん?」
ふと気付くと手が唇を触っている。途端に公園で口を塞がれたときの記憶が蘇りそれまでの思考が吹っ飛んで頭が茹で上がる。
「あ、あれはキスなんかじゃ無いよな!」
僕は赤面しながら動揺する心を静めようとする。それに、僕はそんなことで恥ずかしがってる場合じゃない。もっと考えなくちゃいけないことがあるはずなのだ。
心を静めて元の議題に戻る。生きる限り誰かを傷つけるということが、則ち生きるためなら誰を傷つけても許されると言う理屈は間違っている。そう、思う。だけど、じゃあ、傷つけたり、もっと言うなら殺してしまったりしたときに傷つけた者、殺した者はその罪をどのように償えばいいのかと言われると、僕には答えることが出来ない。たとえ、自分がその罪の故に死を与えられることになったとしても、その罪は決して消えないし、その傷や喪失は決して再び元の形に戻ることは無い。死ぬ直前、絶望に染まった顔をしていた彼女、自分の娘を何としてでも助けたいと言ったあの男。その人達の人生と願いを蹂躙した僕はどうしたら良いんだろうか。
「――」
言葉は、無い。それこそが言葉。僕は天井に投げかける。自分のこの思いを。そして、問う、答えを。
「――」
帰ってくる言葉は、無い。
朝、目覚まし時計の鳴る音で目が覚める。僕はベッドからごそごそと腕だけ頭の上に伸ばして、鳴っている目覚まし時計を止める。どんなに悩んでいても眠れてしまう自分に、情けなさを感じる。あれ、前にもこんなこと無かったかな。ゲームが始まってから、決してそんなに日が経っているわけではないはずなのに、一日一日が途方もなく遠く、長い。
「おはよう」
寝起きで呆けている僕に向かって誰かが挨拶した。僕は驚いて咄嗟にそちらの方を向く。すると最初に殺した男が殺されたその場所に立っている。
「うわああああああ!」
僕は怖くなって男めがけて持っていた目覚まし時計を投げつける。豪快に壊れる目覚まし時計。壊れる音と同時に瞑った目を開くと、そこには誰も、居ない。と、掛け布団に滴が落ちたのが見えた。
「なんだ、これ」
涙が頬を伝っていた。僕は泣いていた。それが何故なのかも分からず、泣いていたのだ。冗長で空しい人生に絶望していた青年は、今では恐怖と苦痛を湛えた日々のイベントと処理しきれない感情でとても充実していた。だけど、
「こんなの要らない!」
朝から早々に声を出して泣かなくてはならない、そんな人間になってしまった。
一通り泣き疲れた僕は二度寝をしてしまい、再び目が覚めたのは、既に昼過ぎの十三時頃だった。今回はあの男の亡霊は現れなかった。だけど、ここにいるのは、もう怖い。外に出て、どこかを散歩してみよう。身体を動かしている方が今はいい気がした。とりあえず、外に出る前に洗面所で顔を洗う。鏡に映った自分は、服も着替えておらず、顔はぐしゃぐしゃ。水を顔にかける。冷たい水が気持ちいい。だけど二、三度水をかけて顔を上げようとしたとき、ふと、顔を上げたとき鏡にあの男が映っている。そんな気がして怖くなった。僕は顔は上げずに、掛けてあるタオルを取って、顔を隠して鏡に背を向けてから顔を自由にした。何故だか妙にあの男が頭にちらついてならない。目覚めてすぐにあの日のことが蘇り、罪の意識に苛まれていく自分の脳。辛い、怖い、金切り声を上げる頭。そんな中、ふとあの男の娘の顔が浮かんだ。
「あの子に会いに行こう」
鏡すらまともに見られないのにどうして彼女に会おうと思うのかは分からない。だけど、あの子に会いたい。僕は病院に向かうことにした。
今回もご覧頂き有難うございました。また次回も是非ご覧ください。