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『薔薇園莉々朱』

 両目が、重力に逆らえず落ちてゆく滝のように、目の前の存在に吸い寄せられる。


 心臓の鼓動が、シンバルを鳴らしたように、高らかに鳴り響く。


 時が止まったかのように、呼吸が止まり、身体は石化する。


「待ち合わせで女性を待たせるなんて、かっこ悪いわよ、太陽君」

 

 ウェーブのかかった薔薇色の髪が、首元で風になびく花のようにふわりと揺れる。


 白桃のようなピンクのほっぺを膨らませ、眉を寄せて怒るその様は、怒られているにも関わらず、見惚れてしまうほどに美しい。


 花柄のジャケットとその中の黒のインナーから強調される母性の象徴。


 ショートパンツから伸びる美脚、その足元には真紅の靴。


「あ……、あ……」


「まあ、こっちから誘った手前、今回は許してあげるわ。けど、次からは気を付けるように」


 俺の目の前まで顔を寄せ、人差し指で俺の鼻にめっとし、彼女は微笑む。


 それはつぼみが目の前で大輪の花を咲かせたかのような笑顔だった。




 人気声優、薔薇園莉々朱が、目の前にいた。



 それを認識した瞬間、俺の頭は沸騰し、鼻の奥から何か流れる。


「うひゃ!! ちょっとちょっとっ! 」


 俺は鼻を触ると、気づけば鼻血を出していた。


「もう全く! 何してるのよ」


 と目の前の彼女は呆れたようにハンドバックからピンクのハンカチを取り出すと、身動きのできない俺の鼻を抑える。


「ほら、自分で抑えて!」


「しゅ、しゅみません……」


 俺は言われるがまま、借りたハンカチで鼻を抑えるも、まともに思考ができない。


 どういうことだ。


 一体今、何が起こっている。


 俺は誰と話している?


 夢か幻か。


 そんなことを考えていると、周囲の喧騒の中に、微かなざわめきを感じる。


「あちゃあ……ちょっとまずいかも」


 と莉々朱さんが呟くと俺の手を掴んで、本屋の入り口から外に飛び出す。


 ふらふらしながら、俺は女性に引きずられるように歩く。


「あ、あそこならちょうどいいわ! 」


 俺は手を引かれるまま横断歩道を渡り、本屋から道を挟んだ通りにある洋館チックなケーキ屋に連れていかれる。


「いらっしゃいませえ。お持ち帰りですか?」

 

 エプロン姿のほんわかした雰囲気の女性店員が声をかけてくる。


「店の中で食べたいんだけど、大丈夫? 」


「大丈夫ですよー。奥のテーブルにどうぞー」


 ケーキが並べらてるショーケースの横から通路があり、奥に向かって丸テーブルが三つ、間隔をあけて並んでいる。


 飲み物を飲みながら読書している年配の女性が一人と女子会でもしているのか騒がしく喋っている子連れの主婦三人が、手前の二つのテーブルに座り、一番奥が空いていた。


 一番奥の席に連れられたて俺と莉々朱さんは椅子に座る。


「ふう、ちょうどいいところにあって助かったわ。」


 と言いながら、店内を眺めている。


 俺は完全に頭が混乱していた。


「あ、あの……」


「店員さーん」


 莉々朱さんは、俺の目の前でやってきた店員さんにメニューを指さし、注文している。 


 

 ああ、これは夢だな。夢を見ているに違いない。



「夢じゃないわよ」


 俺は無意識に言葉を発していたみたいで、目の前の薔薇園莉々朱が可笑しそうに俺を見ている。


 夢見心地のまま、俺は目の前で頬杖を突いている莉々朱さんを見つめる。


 俺が何度もイベントのDVDや声優雑誌で見たのと同じ顔が、そこにあった。


「本当の、本当に……莉々朱さんなんすか? 」


「あら、あなたが昨日見ていた雑誌と同じ服着てきたけど、信じられないのかしら? 」


「いや、疑っているというわけじゃなくて、その、」


 ともごもご言うと


「いいわ。それなら、私が薔薇園莉々朱だっていう証拠、聞かせてあげる」


 その眼が怪しく光ると、


「ほら、顔こっちに寄せて」

 

とおいでおいでと手招きされる。


 俺は莉々朱さんに言われるがまま、机に前のめりになると、莉々朱さんが顔を近づけてくる。


 再び心臓が鼓動を響かせ始める。


 一瞬キスされるかと勘違いした俺は慌てて目を閉じると、香しい花の香りがふっと俺の鼻腔をくすぐると同時に、左耳に吐息を感じる。


「あなたの愛と私の愛。束ね結び、永遠に生きましょう」


 全身を撫でられたかのような甘く切ない声が、左耳から全身に広がっていく。


「うはっ!?」

 と俺は思わず叫ぶと


「こら! 静かに!」

 

莉々朱さんがしーと指を手に当て、俺は慌てて両手で口を閉じる。

 

 テーブルの間隔があいてるのが幸いに、主婦たちはおしゃべりに夢中、年配の女性は手もとの本から微動だにしていなかった。

  

「ほ、本物だ……本物の莉々朱姫だ……」


 何度も見て、何度も聞いたからわかってしまう。


 今年の覇権アニメにして薔薇園莉々朱の出世作であるアニメ『時間(とき)永遠とわの楽園へ』(通称トキトワ)。そのアニメの最終回で、俺が何度も涙した薔薇園莉々朱さんが演じるメインヒロインのセリフそのものだった。


 俺は感無量になって、全身の震えが止まらない。


「どう? これで私が本物の薔薇園莉々朱だってこと、わかったかしら」


 俺は何度も頷く。


「感動した? 」


 俺は首がちぎれるほど頷く。


 昨日、出会った時のことを思い出す。確かにどこかで聞き覚えのある声だと思ったが、まさか莉々朱姫だったとは。


 どうして気づかなかったんだ、俺は!


「言っとくけど、アニメのキャラの声を常に出しているわけじゃないわよ。あれは演技で、私の地声はそこまで一般の人と変わりないわ」


 確かにイベントのDVDで見た莉々朱さんの声は、いわゆるアニメのキャラみたいなアニメ声ではなく、落ち着いた感じの声だった。


 未だに現実感が湧かないまま、莉々朱さんを眺めていると、


「お待たせしましたー」


とほんわかした雰囲気の女性店員が両手に器用にプレートをもってくる。

 

 テーブルに色とりどりのケーキが乗ったプレート、その横に湯気を立てた紅茶がカップと一緒に置かれる。


「美味しそー! ほら、食べましょ」


 いただきます、と莉々朱さんは手を合わせると、フォークでケーキを切り口に入れると


「うん、美味しいわ! たまたま入ったけど、この店、当たりね! 」

 

 俺もフォークでケーキを食べるものの、味が全く脳に伝わってこない。 


「でも、どうして……」


 俺は呆然としながらも、浮かんできたことを尋ねる。


「どうして、この町にいるんすか? 」


「まあ昨日もいったけど、旅行よ、旅行」


「旅行って、その、莉々朱さんはめちゃくちゃ忙しいんじゃ」


 今をときめく人気声優の彼女だ。休みなんてきっとないに違いないと素人の俺でもわかる。


「ありがたいことにね。だけど休みが全く無いわけじゃないのよ。まあ、めちゃくちゃスケジュール調整がきつかったけどね」


 色々と大変なんだから、と莉々朱さんはつぶやくと、どこか遠い目をして、窓から外を見る。


 その何とも言えないアンニュイな表情にどきっとしつつも、あまりそれについては深く突っ込まない方がいいと思った俺は話を変えることにする。


「その、旅行とか、好きなんすか? 」


「ええ、好きよ。ちょっと前までは海外とか一人で行ってたわ。今は中々行く暇がないから、国内旅行が精一杯、てとこかしら」


 両手で持ったカップの紅茶を、ふーふーと冷まして飲みながら、微笑む。


 憧れの薔薇園莉々朱が俺に向かって話している。


 昨日の怪物との壮絶な戦いのことを思い出し、そして今日、自分の眼の前に、憧れの人がいるという信じられない現実。


 気づいたときには、俺の両目から涙がこぼれていた。


「今度はどうしたのよ?! 」


 慌てて莉々朱さんが俺に言い、俺は慌てて袖で目をごしごしとこする。


「いや、その……生きてて、よかったっす」


 莉々朱さんはぽかんと口を開き、目を丸くする。そして、ぷっと頬を膨らませると、くすくすと口元を手で押さえて笑いだす。


 途中で我慢できなくなったのか、顔を後ろに背けて震えながら笑っている。


 莉々朱さんはひとしきり笑うと、涙を指で拭いながら


「涙が出るくらい笑ったのなんて何年ぶりかしら。あなたって本当に私のこと、好きなのね」


 俺は何度も頷く。


「その……俺が言うのもなんなんすけど、ばれないんすか? 」


 小声で俺が聞くと


「普段は昨日みたいにキャップとサングラス付けておとなしくしてるから大丈夫なんだけど。まあ、さっきみたいなことは、マネージャーにばれたらかなり不味いかな」


 あはは、と莉々朱さんは目をそらしながら苦笑する。


 確かに、声優、モデルでもある彼女が雑誌に載った服装で街に出たら、気づかれない方がおかしいくらいだ。いくら、この街が東京からかなり離れた田舎とはいえ。


「その、どうして……俺に話してくれたんすか? 」


「ん? 私が薔薇園莉々朱だってこと? 」


 俺は頷く。

 

 何の縁もゆかりもない、ただのファンである俺みたいな高校生に、どうして正体を明かしてくれたのか?


 気付くと、莉々朱さんが、俺の顔をまじまじと見ていた。


「な、なんすか? なんかついてるっすか」


と俺が慌てて顔を触るも、莉々朱さんはくすくすと笑い、


「それは内緒。あ、言っとくけど、こんなこと普段は絶対にしないんだから。これは二人だけの秘密よ。約束できる? 」


 俺は勿論です、と強く答える。


「ありがと。ところで、太陽君。君にお願いが」



「喜んで! 」


 と俺は間髪入れずに叫ぶ。


「こらっ! 君、声大きいんだから」


「す、すんません。つい」


 と俺が頭を手で押さえると


 呆れたような莉々朱さんの笑みを見ているだけで、また鼻の奥がつんとしだす。


 不味いと思い、俺は冷静になれ、太陽、と自分に言い聞かせ、


「で、何すればいいっすか? 何でもするっす! 」


と言うと


「ふーん、なんでも、ね……」


 俺はごくりと生唾を呑み、莉々朱さんの言葉を待つ。


 莉々朱さんは頬杖をつきながら満面の笑みを浮かべる。


「なら……付き合って」

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