じゅせい(2)
ぐっすり眠れるというのは、実はとても幸せなことである。
快眠という言葉があるが、人間は歳をとるとこの快眠が難しくなる。永続的な体調不良が眠りを妨げて、ちょっとした事でも起こされてしまうからだ。
だったら若者は問題ないかというと、若者には若者の悩みがある。眠れぬ夜もあるだろうし、色のつかない……たとえて言えば、何もかもが錆びていくように見える事だってあるだろう。
だからこそ、問答無用で眠ってしまえるというのは、とても幸せな事なのだと言える。
「……ん」
あたたかなぬくもりの中で、彼女は動き出した。
とても暖かかった。それは人肌のぬくもりを思わせた。
あえて言えば、どこか懐かしいが粗野な感じのする臭いを伴っていて、それが違和感を与えていた。彼女は働かない頭で疑問を抱きつつも意識を覚醒させていく。
ぼんやりと意識が定まり、思考が、視覚が蘇っていく。
「……ん?」
彼女を抱きしめる、たくましい腕に気づいた。
(え、なに?)
どう見ても大人の、そして男の腕だった。
そして彼女の身体が伝えてくる感触が、自分とその男が全裸もしくはそれに近い姿であり、そして、ただならぬ状況で眠っていた事にも気付かされた。
「…………ひ」
そして次の瞬間。
「ひゃああああああっ!!!」
数分後。
ぷんぷんとお怒りの若い女と、そしてなぜか満足気で爽やかな笑顔……ただし頬に綺麗な手形のついている青年の姿があった。
ちなみに全裸ではない。
ここは現実の世界ではないから、意識した途端、パパッと魔法のように衣服を着た状態になっていた。
ではまず彼女の容姿から。
彼女がサユリである事はおそらく間違いない。顔立ちなどに面影があるし黒髪黒目なのも変わらない。
ただし、それ以外の部分は完全に若き成人女性だった。
少々スレンダーではあるが、明らかな大人だった。派手な美女という雰囲気は皆無であるものの、見る者をどこかホッとさせるような、たおやかで柔らかい、ただし見方によっては少々古風な印象もあるように見えた。おそらく中の人は、さらにもう少し年上なのだろう。
青年から見ると見慣れないグレーの衣服は、まったく異質な文化によるものだろうが女性にとても似合っていた。髪型もツインテールでなく頭の後ろでゆるく束ねたものに変わっているが、おそらく美しさよりも利便性を重視したもの。
青年は知らないが、彼女と同じ世界の人間がもし見たら、東京あたりのビジネス街を連想するだろう。地味ではあるが機能的な姿は、ふわふわしたドレスなどとは異質ではあるものの、明らかに高価な布地を使って高い技術力で縫いあげられたもの。スレンダー体型の彼女にも非常によく似合っていた。
つまり。
そこにいるのはサユリの面影を強く残した、見た目は若干若いが充分に大人といえる女性だった。
「で、謝罪の言葉は?」
「だから君が自分が選んだんだって。まぁ役得ではあったけどね」
「……」
「可能性を考えなかったわけじゃないだろう?ま、役得で楽しませてもらったのは悪かったが」
「誤解を招くような言い方しないでくれる?」
「いやいや、裸で同衾してたのは事実だから」
実は同衾どころか抱きしめて色々と堪能していたのだが、もちろん気づいてない当人にわざわざバカ正直にバラすわけもなかった。
それに青年はイヤらしい笑いというよりも、幸せそうなホコホコ顔というのが近かった。つまり全く毒気というものがなかった。
彼女は、そんな青年に思いっきり調子を狂わされていた。
「……いちおう確認しておくけど、レクターでいいのよね?」
「ああそうさ。どうだい、潮風の似合いそうないい男だろ?」
「……」
「あはは、そんな怖い目をしないでくれよ」
「誰のせい?」
眉をつりあげた彼女に、青年はクスクスと楽しげに笑った。
実際、青年は確かに潮風が似合いそうだった。
よく焼けた肌は浅黒く、そしてたくましい。白猫のかわいらしいイメージとは対極の存在だった。
サユリが聞いたところによると、生前のレクターは漁師の息子だったという。
なるほど、これで漁師なら本当に似合うかもしれないと彼女は思った。
「ところでさ」
「え?」
そんなサユリにレクターは聞きたい事があった。
「その姿は生前のものなのか?」
「ええ、たぶんそう」
「そうか。じゃあ、今なら本当の名前もわかるんじゃないか?サユリって本名じゃないんだろ?」
「あー……えっとね」
彼女はしばらく悩むと、首を横にふった。
「ごめんなさい、わからないわ」
「ああいや、責めてるわけじゃないから」
「でも」
「生前の記憶なんて無い方がいいに決まってんだから。ヘンな質問して悪かったね」
「……」
サユリは眉をしかめたが、これは本当の事だった。
この世界の住人であるレクターが世界に溶けていかないのは、強い心残りが彼の心を現世に縛り付けたからというのが大きい。カタチある精霊として残るにはそれだけではダメらしいのだが、しかし心残りが大きな要素なのは間違いない。
もし、ただでさえ世界に溶けにくい魂をもつ異世界人のサユリが、さらにレクターのような事になってしまったら?
それは不幸なことだとレクターは思っていた。
「じゃあ、今の君もサユリと呼ぶけど問題ないかな?」
「ええ、いいわ」
子供から大人になり、ぐっと大人の雰囲気を見せるサユリ。
内心レクターはまぶしいものを感じていたが、とりあえず今はそれどころではない。
「ところで本題なんだけどさ。サユリは覚えてる?」
「え?ああ、うん。樹精とお話したいのよね?」
「うん、そう。こうして夢で出会えたって事は話もできるのかなって思うんだけど……」
「そうねえ」
そういうと、キョロキョロと周囲を見回す二人。
「それらしい存在は……といっても、これじゃあ探すにもなぁ」
「どういうこと?」
「いや、この風景……異世界のだよね?」
「うん、たぶん。新宿じゃないかな?」
彼らのまわりには、うっすらと異郷の風景が広がっていた。
そしてそれは、こちらの世界の者であるレクターにはあまりにも異質な風景だった。
灰色の石の建物のようなものが、どこまでも続く世界。
かといって無味乾燥かというと、あちこちに光るものや動くものがあって。
そして、されら全てを圧倒するように、見知らぬ、しかし今のサユリに近い服装の人々が流れていく。
それはレクターにとっては、たとえようもない……まぎれもなく異界の景色であったし、それは同時に「どこからどう探していいのか、すらも見当もつかない」事をも意味していた。
「シンジュク?もしかしてサユリの住んでたとこ?」
「ううん違う。たぶん何か用があって来てたんだと思う。ここと、あとそれから池袋ってとこはよく覚えてるんだよね」
「イケーブ・クロ?……それも地名なのか」
「いやいや池袋」
「イケ・ボ・クロ?」
「ボじゃないって」
「イケ・ブン・クーロ?」
「だんだん離れていくんですけど」
「あー、ごめんね、異世界語は発音難しいみたいだ。
ところで、どんな用だったのか覚えてる?」
「新宿の方はわかんない。誰かに会ってたのかもしれないけど。
池袋の方は、なんか新刊がどうとか頭にこびりついてるんだけど……何なのかな?」
「シンカン?」
「新しい本、かな?なんかね、『薄い本』っていうのがあって、それに関係する事をしてたみたい」
「本を書いてたの?それはすごいね、いいとこのお嬢様だったのかな?」
「そうなのかな?あんまりそんな感じはしないんだけど」
「ほう?」
そんな会話をしていた、その時だった。
『わたしと話したいのですか、来訪者……レクター・エラ・マリアス?』
「!」
突如、ふたりの間に厳かな老女のような声が響き渡った。
「え、どこ?」
キョロキョロと周囲を見渡すサユリ。だが姿はどこにもない。
レクターはというと、油断なく周囲に目を走らせながら一言つぶやいた。
「えっと、……大樹精様?」
『その呼称が示す意味を鑑みれば、そうだと答えるべきでしょう』
それは聞き取りやすい声に聞こえたが、同時に何かがひどく遠い声だった。発音が流暢なのに、何かとても異質な存在が無理に人間の言葉を操っているようにすらも感じられた。
「そうですか。ところで、どうして僕の名を?」
『わたしは、この世界のあらゆる生命とつながっていますから』
「そうですか。だったら僕の事はレクターと呼んでください。下はいりません」
『わかりました。
ではレクター、わたしに聞きたい事があり、わざわざ夢に入ったのではないですか?そこまでして知りたい事とは?』
「はい、では遠慮なく質問させていただきます」
コホン、とレクターは小さくためいきをついた。
「今、森は人間に攻めこまれていますよね?
オークやゴブリンたちが一時的に追い払う事に成功したようですけど、満身創痍状態です。ゴブリンたちは進化と数を増やす事が対抗しようとしているようですけど、このままでは人間側の再侵攻の方がおそらく早い。確実に森は人間に蹂躙されるでしょう。
これに対して、どういう作戦をとられているのですか?」
『作戦ですか?』
大樹精と思われる声が、若干何か考えこむような雰囲気を帯びた。
『人間の言うところの「作戦」にあたるようなものは、特にありません』
「ないんですか?でもそれじゃあ?」
『このままでは人間に勝てない、森が掃討されてしまう。そう言いたいのですね?』
「はい」
声はとても丁寧であったが、どこか機械的な雰囲気を漂わせていた。
「……」
レクターの横で聞いているサユリにきちんと記憶があれば、まるで精巧なAIが語っている、あるいは別の言葉を話す者が翻訳機を通しているようだと感じたかもしれない。しかしサユリにもそこまではわからなかったので、じっとレクターの隣で聞いているだけだった。
そんなふたりに対して、声は静かに語る。
『問題ありません』
「問題ない?」
『目の前だけ見れば、確かに危険な状況なのでしょう。しかし問題ありません』
「というと……何か理由があるのですか?」
『……』
しかし、それに対する返答はなかった。
少し間を置くように沈黙した後、
『うまく言語化するのが困難ですが、問題が起きる事はありません。オークやゴブリンたちの強化はつつがなく行われますし、森も回復します』
レクターは眉をしかめた。
「つまり、うまく言葉にできないけど、人間の侵略は問題にならないという事ですか?しかし、すでに被害が出ているわけですけど?」
『それが何か?』
「いや、何かって……」
不思議そうに声は返してきた。
『鹿がいれば、狼がそれを狙う。鹿は狼に警戒し、時には一撃を与えて撃退する。そして悲しくも食べられてしまう場合にそなえ、多めに子孫を残す。
狼の側も、一体でも鹿を確保するために作戦をたて、巧妙な狩りを行う。
生と死のせめぎあい、それは運命というものです。
レクター、そこに何か問題がありますか?』
「……あなたは森の味方ではないのですか?」
『敵か味方かといえば、味方と答えるでしょう。
ただし、特定の生命体、特定の個体の味方ではありません。
わたしは、この世界における生命の循環そのものを守るために存在します。ゆえにその構造の破壊を試みる今の人間族を敵と規定する事も確かに可能ですが、同時に人間族がその力で生命の循環構造を破壊する事は現状では不可能です。あなたがたの言うこの「樹精の森」が破壊される可能性は現時点でもゼロではありませんが、かりに「樹精の森」が致命的に破壊されてしまった場合、復元作用が発現する事になります』
「復元作用?」
『はい』
レクターの問いに、声はまるで明日の天気でも告げるように普通に答えた。
『たとえば、人間族の攻撃により「樹精の森」の中心である大樹が焼き払われた場合ですが。
破壊が確認された時点でこの大陸にある全ての森が動きはじめます。
具体的には、動き出した全て森林の領域が一時的に拡大し、そこに存在する人間の街を、その住人ごと飲み込んで破壊・吸収するでしょう。
そうして回収したエネルギーを用いて森の補修が行われつつ、新たな樹精も生成されるでしょう』
「……その場合の人間側の被害予想はどのくらいになるんですか?」
『不明です。ただし今回の侵攻の原因となった、人間側の王国は消失するでしょう』
「そうなんですか?それを断言できる理由は?」
『動き出した森が再び停止するための条件が、侵略者の勢力縮小だからです。
森は人間側の細かい事情など考慮しませんが、王国という組織構造の存在自体と、その挙動については防衛のために理解しています。
王国組織が方針転換をするか、充分に規模縮小するまでは事態は続くでしょう』
「……」
『もっとも、これは最悪の場合の話です。
今回のケースに関していえば、そこまでの事態にはなりません。人間側の侵攻は最悪の事態までは推移せず、森が動くこともないでしょう』




