文化祭【1】
真っ白のシーツに汗ばんだ金が散らされる。白いふんわりとした頬は、今や、ひどい熱でもあるのかと不安になるくらい赤らんでいて。涙の中で揺れる翡翠は、透明の海の中に翠の宝石を落とし入れたかのようだ。
どこかぼんやりとした、液晶越しに彼を見ているような感覚。夢心地な他人事。翡翠の持ち主をここまで泣かせているのは、自分だというのに。
「とも……すき……」
「俺も……俺も、好き。みづきさんが好き」
甘ったるい蜂蜜みたいな空間の中、白の中に白が浮き出て、そして赤く熟していく様は、男の劣情とどうしようもない肉欲を生み出していく。
「とも……」
「みづきさん……」
吐息が互いの名前という役割を持って吐き出され、重なり合う体と唇の距離がなくなった時。
――バサァッ!!
異常な汗。異常な呼吸数。そして、――異常な、下着を濡らす感覚。
「…………最悪だ」
「トモ先輩、こっちサインまだっすよー」
「こっちも判お願いしますー! あ、これは副会長のでも大丈夫か」
バタバタと騒がしい生徒会室内で、二つのでこぼこな影が動く。
「黒葛原副会長ー! 会長が使えないので代理印お願いしますー!」
今さらりと人のことを使えない発言した黒髪のこいつは、新原麻咲。中等部時代から馴染みの、会計を務める後輩その一だ。
見た目は黒目黒髪に黒縁眼鏡と真面目な優等生そのものだが、これで存外に口が悪い。慇懃無礼を地でいくような奴なのである。
そしてもう一人が。
「トーモせーんぱーい。あ、まーたみっき先輩見てるんすかー?」
ひょこんっと前に現れた、未だ成長を続けているのだという高身長を惜し気もなく晒すいけすかない男。高良恭一郎。こちらも中等部から続く腐れ縁な後輩その二だ。
すっかり運動焼けした髪は短く刈られた濃茶で、体付きもスポーツマンのそれそのもの。バスケ部エースを誇る気持ちのいい爽やか青年であり、先輩に甘えるのも先輩を立てるのも上手い見本のような後輩だ。ただひとつ気に食わない所があるとすれば、――俺より身長が高いところと妙に失礼な言動くらいだ。
彼等の身長差には随分と幅がある。俺とみづきさんも頭一つ分以上開いているが、彼等の場合新原が平均的だとしても、高良が容赦ない。いつまで伸びる気だこの独活の大木め。
そして、生徒会という縁からよく行動を共にする彼等を生徒達は親しみを込めてこう呼ぶのだ。『生徒会のでこぼこコンビ』と。
身長順で並べば、みづきさん、新原、俺、高良ってマトリョーシカができるから、みづきさんと高良が並んだ時なんてまさに『大人』と『子供』くらいあるんだろうけれど、まあみづきさんはあの身長が一番似合っていて一番可愛いから何も問題はない。うん。
(……みづきさん、か)
チラリと、新原から書類を受け取り押印している天使様を横目で見つめてみる。
気まずい。非常に気まずい。今朝がた、親友の彼でとんでもない夢を見てしまったのだから。夢どころか、――夢精した。
最悪だ。最低だ俺は。唯一無二の親友になんてことをしているんだ。発情期の猿か。
「いや、トモ先輩、みっき先輩のこと見すぎっしょ。ふつーにキモイっすよ」
ずーんと自身の限度のない性欲猿っぷり落ち込んでいると、これまた失礼な後輩のツッコミが飛んできた。君ら絶対俺のこと敬ってないでしょ。
あ、トモ先輩てのは俺のことで、みっき先輩はみづきさんのことね。
「俺は今深刻な悩みに直面してるんだ。男の矜持がかかっているんだよ」
「そっすか。悩む前にサインください」
「仕事も満足にできない輩に男を名乗る資格はありませんよ」
「…………」
――本当に頼もしい後輩らで先輩は嬉しいよチクショウ!
無事活動時間も終わり、後輩達が生徒会室を後にした現在。――俺の心臓はエラーと警戒音を同時に起こし喚いていた。
「バ会長ほんとどうしたのお? 今日ずうっとうわのそら」
色を深める金がさらりと揺れて、小さな子供みたいな手が額に触れた。
――危険だ。これ以上は危険だ。心臓が壊れる手前まできている。警戒せよ。阻止せよ。頭の警告音が煩い。
「熱はないよねえ。……体調、悪かった?」
心配だと伝える翡翠が茜の中で輝く。
「あのね、体調悪い時は、ちゃんと言って。僕だって見ているつもりだけど、それでも見抜けないものがある。僕はそれで最大の後悔をしたから、だから、」
「――みづきさんっ!」
拳一つ分くらいの距離で下心も何もない『心配』だけを寄越すその人に、あまりに居たたまれなくて言葉を遮った。……俺は、こんな優しい人で抜いてしまったのか。
自己嫌悪が重くのし掛かる。同時に、これまでまるで意識せず、それこそ同じベッドで子供のように身を寄せ合って眠っていても意識のいの字もなかった『彼』だというのに、何故今さら。そんな理不尽な怒りも湧き上がってきた。
「メシ! 行こうみづきさん!」
「え、うん」
彼の手をつかんだまま、席から勢いよく立ち上がった。
――この時の俺は、ただただ必死だった。彼との『日常』を取り戻そうと、当たり前を繰り返し、全てを勘違いと結論付けて終わらせようとしていたのだ。
――エラーは、原因を見付けなければエラーのままなのに。
「…………」
「食べないのお? バかいちょー」
失敗した。箸を手に取りながら、その言葉ばかりがグルグルと頭を回っていた。
なんてことはない。可笑しなところなんて一つもない普通の食事風景だ。みづきさんは天津飯を頼んで、俺は玉子そぼろ丼と追加でチキン南蛮。これで足りなければ唐揚げも追加しようかなーなんて考えていたところだった。
それなのに。予兆も何もない『当たり前』しか並んでいなかったのに、――まさかみづきさんの食事風景が直視できないだなんて。
艶に光る餡がレンゲに掬われ、とろりと琥珀色を垂らしながら小さな唇に吸い込まれていく。蛍光灯に光るそれがみづきさんの赤い唇に付着しグロスを塗ったかのように広がって、下唇を伝う瞬間、ぬるりと嘗め取っていく舌が最早別の生き物のように思えた。
なんだこれ。え。なんで。おかしい。何もかもがおかしい。朝からおかしかったんだ。エラーどころか、極悪でタチの悪いウイルスに俺の脳みそはやられてしまったのかもしれない。
「……ねえ、本当に大丈夫?」
艶の増した天使がそろりと顔を覗き込んでくる。
「あ、う、うん。それ、おいしい?」
「おいしいよぉ。なぁに? たべたかったの? もー、それならちゃんと言いなよねえ。はい」
スイ、と彩りの付いた玉子と餡とそれに隠れた米が乗せられたレンゲが目の前に差し出されて、カチンッと硬直した。
いや、だってこれ俗に言うアーンてやつじゃ。しかも相手は天使様で天使様にアーンなんてされちゃって、ほら周りも驚いて……
「うわあ、まーたやってるっすよ。トモ先輩たち」
「無自覚バカップルもいい加減にしてほしいよな。まあ黒葛原副会長のはただの介護だから主に会長の所為だけど」
「…………」
「バかいちょー?」
なんというか、ああ、自業自得でした。
そうだよな。そうだったよな。これが俺達の『普通』なんだよな。
初めは「まさかあの二人がくっついた!?」みたいな見出しで新聞を出されるくらいには騒がれていたけれど、俺らが『あくまでもただの友情。お互い兄弟のようなもの。』で押し切ったから、周囲にとってもこれが当たり前になってたんだよな。
そうだよ。今更なんだよ。こんなみづきさんの一つ一つの仕草を意識しちゃうとかさぁぁぁ……!
全部全部あの夢の所為だ。俺のセックス脳。猿! 性欲猿!
「……やっぱり、なんかおかしいよね。今日はもう部屋戻ろ。会長が眠るまで側にいるから」
「へあッ!?」
「そうだよ。部屋」
三分の一程しか減ってないそれを置いて、みづきさんが神妙な顔で立ち上がる。
違う。そうじゃない。待ってくれ。今の俺は可笑しくて、頭がウイルスにやられてて、だから、だから、
「しんどい時は、ちゃんと言って。――僕が、傍にいるから」
それが逆効果なんですよ天使様――――!
「……で、一睡もできない夜を過ごしたと。いつの間にそんな面白いことになってたんだお前ら」
「笑い事じゃないよォ……焔先輩」
神梛学園大学部中央食堂にて。丁度良く講義のない空きコマだった元会長様を捕まえ、ずぅぅぅんと下がった頭のまま昨日の失態について俺は情けなく語っていた。俺にとっての『先輩』は焔先輩と花京院先輩の二人だけなのだから、当然、相談対象といわれて真っ先に浮かぶのも彼等というわけだ。――普段ならば一番に頼る相手はみづきさんだけれども。
「俺としては、あそこまであからさまに懐いていて何で自覚がないのか不思議なくらいだがな」
「そ、れは……」
――『自覚』
喉を嫌な唾が流れていった。そのまま、背中の汗に変わって隈無く俺を苛め抜いているみたいだ。
自覚。なんの、自覚なのか。わかっている筈だ。わかりたくないだけだ。だって。
「――まだ、怖いか」
黒い黒い瞳に、射抜かれる。
「まだ、『恋』をするのが怖いか」
ぶわりと、血が逆流したような気がした。
「――こ、わいよ。怖いに決まってるじゃん。何年、このチカラに付き合ってきたと思ってるの。生まれつきだよ? 長い年月と百パーセントの成功率でどれだけ『お墨付き』なのか、わかるでしょ」
初恋なんて数え切れなくて、そのたびに裂かれてきたのだ。残酷なキューピッドに。
自覚が、俺の『終わり』だった。そこから始まる運命はなかった。
「花京院の時は形振り構わず突っ込んできた癖になあ」
「――っはなちゃんとみづきさんは違うじゃんかッ!」
思わず声を荒げた。遠くで教科書を開きルーズリーフに何やら書き込んでいた学生が、何事だと振り返ってはただならぬ雰囲気に目を反らしていた。
どうして伝わらないんだ。そういう問題じゃないだろう。
そんな幼稚な苛つきと共に冷静な黒を睨み上げて、
「――つまりそれが、答えだろ」
「え……」
ストンと、荒くれていたマグマが冷却されるように、彼の言葉が降り落ちた。
「花京院の時は無我夢中で追い掛けられたそれが、黒葛原相手だと一歩目すら踏み出せずにいる。――それだけ、黒葛原との関係が大切で、黒葛原が『好き』ってことなんだろ」
机の上で作っていた拳が震えた。じわじわと、冷たくて優しい黒に、逃げ場を削られていく。
『好き』
ああ、そうだ。好きなんだ。本当はわかっていた。小学生の抜き打ちテストよりも、簡単で単純な問題。
「まあお前のそれは立派なトラウマだから今更考えを変えろとは言わないがな、せめてプラスに捉える努力くらいしてみろ。いいか、お前はいつだってマイナススタートだ。希望がないゼロからのスタート。てことは、後はどう走ってもプラスしかない。追い掛けるしかないんだから難しいことは考えずにお前の思う通りに走ればいい。ただでさえバカなんだから」
冷たいように見せ掛けて熱い黒曜が、いじける『俺』を呆れた風に慰めていた。
――ああ、本当に、だから好きなんだ。この先輩達が。
「あれだけ粘った花京院が『別』だと思えるくらい『好きな人』ができたんだ。 ――今度こそ、キューピッドに勝つ時なんじゃないか」
じわじわと侵食されるぬるま湯の温かさに、どうしようもなく喉が震えた。きっと、今声帯を使っても情けない声しか出ない。
だから、黙っておこう。感謝の言葉は、『結果』と共に。
「……ほむら、先輩」
「――まさかソッチと浮気されるとは思ってもいませんでした」
「「っ!?」」
背後から、声を張り上げている訳でもないのに聞き手の意識を一心に捕らえ離さない『彼』の声が聞こえて、ビクゥッと肩を跳ね上げた。もしかしたら軽く尻も浮いていたかもしれない。
「は、はなちゃん!?」
「織色……」
「いえまあいつかはこんなこともあるだろうとは思っていたのですがそれにしても選ぶならば女性か黒葛原のような可愛らしい男性だとばかり思っていたところにまさかのダークホースですよ。これはあれですか、所謂攻め攻めというやつですか。コアなファンもゲット作戦ですか」
「たまに出るお前のその妙な知識は何なんだ……。あと勝手に人を浮気者にしないでくれ」
大学部へ上がり美しさがさらに増したと評判の花京院先輩の無表情マシンガントークに、訳のわからない焦りが駆け上がってくる。
え? 攻め? 今何て言ったんだこの人。早すぎて全然聞き取れなかったんだけど。どうでもいいけど私服姿が眩しくてなんかドキドキするこれはまずい!
「まあ冗談はここまでとして」
「ワア、はなちゃん冗談とか言うんダァー……」
「先程の話ですが、私としても貴方は私なんかよりも余程黒葛原を好いているように見えましたよ。……子供が母親に懐く姿であると言われればそれ迄ですが」
カタンッと焔先輩の隣に花京院先輩が着席する。二人並ぶと本当に、一対の美術品のようにお似合いだ。
「そうだな。問題は黒葛原にその気がまっっったくない、て所だよなあ。黒葛原のアレはどう見てもどうしようもない子供の世話だ」
「うっ」
「男とは思えない母性が溢れていましたもんね。男ですが」
先輩二人の容赦ない言葉の連続に、浮上していた気分がまた振り出しに戻っていった。
まずアーンやお泊まりが当たり前のように出来ちゃう距離からして問題なんだよな……。
「まあその辺は当人達に任せるとして、……一つ、伺ってもよいですか」
静かに落とされた花京院先輩独特の、場の静寂を掻き集めるような深々とした声に、スッと背筋が伸びた。隣に座る焔先輩も、何処か緊張の面持ちで場の支配者たる彼を見つめている。そして。
「――キューピッドとは、何ですか」
「「…………………………」」
――この神梛学園に入学して以来、初めてされた質問だった。
「おかえりぃ、バかいちょー。ギリギリ間に合ったみたいでよかったよかった。時間を見る程度の脳みそはあったんだねえ」
昼休み終了のチャイムと同時に飛び込んだ教室内にて、にいーっこりと笑い掛けてきたその人の天使の笑顔に、ゾゾッと謎の悪寒が走り抜けていった。
あれ? みづきさん何か怒ってらっしゃる?
「ずるいよねえ。わざわざ大学部まで行ったんでしょお? ずるいなあ。いいなあ。――ぼくも京ちゃんに会いたかったー!」
ぷくうっと膨れた頬に、がっくり脱力した。
いやまあ、みづきさんも花京院先輩大好きだったのは知ってるけど。
「なーんて、まあそれも事実なんだけどさ、――放課後、生徒会室にみんな集まれって。顧問が言ってた」
「顧問が……?」
これといった予定がなくとも、生徒会室に集まり活動時間ギリギリまで執務に暮れることは、我々生徒会役員としては至っていつも通りの行動だが(余程忙しい時以外、ただ集まって駄弁っているだけとも言うが。まあそれも生徒会活動ということにしておこう。)そこに『顧問からの呼び出し』があるとなると話は別だ。
基本、顧問及び教師達は俺達役員の活動にノータッチの姿勢を貫いている。それがわざわざ口を出してくるのだ。――理事からの厄介事を持ち込まれた可能性がある。
(うーん、どっかから三日間留学生が来るとか、簡単に終わる話ならいいけど)
――なんて、世の中そんなに上手くはいかない。
「「「「は? 文化祭の開催時期が変わった?」」」」
「おー。いやあ、伝え忘れてた。すまんすまん」
スーツというフォーマルな格好の筈なのにどこか小汚なく見える顧問の、ヘラヘラとした笑いと中身のない謝罪に唖然と万年筆を握る手を震わせた。
「え、最近妙に忙しかったのって……」
「これの所為だなあ」
「いやいや、聞いてない。聞いてないっすよ先生」
「今言ったからな」
後輩達も、新たに増えた彼ら専用マグカップを、傾けた角度のまま硬直している。気持ちはわかる。気持ちはわかるぞお前ら。でもこぼすなよそれ。
「えーと、文化祭期間が数日ずれるとか、短くなったとか、そういうのじゃなくて?」
ここ神梛学園高等部の文化祭は三日間ある。中等部も日にちをずらして三日。一ヶ月と少し前から準備に入り、ハロウィンと被せて一日目二日目は来客用、三日目は生徒自身の鑑賞用と後夜祭に時間が取られるのだ。
三日を二日に絞るくらいならばギリギリ対処できなくもないが――
「数日どころか六月だ」
「「「「は?」」」」
「うん、だから、本来なら十月に行う筈の文化祭を六月ですることになったの。大人の事情で」
――この一瞬だけでいいから、誰か俺か顧問のどちらかを気絶させてくれ。
混乱のあまり、思わず神にめちゃくちゃな願いをしてしまった。
いや、落ち着け。整理しよう。とにかく冷静になれ。会長は俺だ。動かすのも会長の俺なんだ。
今は五月。もしも本当に六月に文化祭を開催するとなれば、準備期間の一ヶ月は当に切っている。何より、何の通達もない生徒達に、今から文化祭があるからクラスで催しを考えろと言ったところで、そのタイムロスを考えれば準備期間なんてあって無いようなものだ。
それに、――六月ってそもそも球技大会あるじゃん。
九月にも体育の日に則って(体育の日は十月だけど、十月には文化祭があるからな。)体育祭が控えているが、その布石となるのが六月の球技大会なのだ。クラス対抗になっているそれは、前半戦を球技大会、後半戦を体育祭と分けて長い期間で行われるのである。
文化系クラブや生徒の見せ場が文化祭だとすると、体育系クラブやその生徒達の見せ場は球技大会と体育祭。どちらも蔑ろにはできない。
それを、六月で一遍にこなせと……?
馬鹿か。
いや、あの、ほんと馬鹿か。理事は何考えてんだ。馬鹿なのか。
「まあそんなわけだ。勿論、教師陣は生徒達の自主性を育てる為に余程の事がない限り関わらない、て決まりがあるからな。あとは生徒等代表の君達次第ってところになる。まあ適当に頑張ってくれ。若人よ」
最後の最後までヘラヘラした頼りにならない大人は、それだけ飄々と述べるとあっさり生徒会室を後にしてしまった。
「「「「…………」」」」
様々な思惑を孕んだ沈黙が、四人の中に重く落ちる。
――ああ、これはとんでもないことになってしまったかもしれない。




