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空の片隅で




****



「見て、将軍様! 雲だわ」

「止めろ落ちるっ。死ぬ気かお前さんは!」


 高さも速度も一切無視して、全身をほぼ真下に投げ出した少女を男は容赦なく服の背を掴んで引き戻した。


 空だ。

 青く、どこまでも広がる澄んだ空。

 男にすれば慣れた光景、別に珍しくもなんともないが、目の前で同じ鞍にまたがる少女は目に入る景色すべてに敏感に――過剰に、でも間違いない――反応し、ちっとも大人しくならない。


 同乗するのが男でなければ、とっくに何もない空へ投げ出されていてもおかしくないくらいだ。

 少女は恐れない。

 強く吹き付ける風も、遠すぎる大地も、またがる鋭い爪と牙を持つ生き物も。


 いたずらに過ぎ去っていく雲のかけらを追い、太陽の位置や後ろを飛ぶ飛竜を眺める。何かしら変化があれば、すぐに指さして男に知らせた。


 んなのは分かっている、と何度繰り返したか。


 目を覚ましたのは、まだかの国上空にいるとき。

 神様って将軍様と同じ姿だわ、と目を丸くされ、呆れかえったのはすでに昨日の事だ。


 説明は、ほとんど必要がなかった。

 ただあの「王太子」をひたすらに見つめ――あり得ないほど遠くにいるにも拘わらず、しっかりと頷いた――頷き合った。


 それもまた、「力」なのか……尋ねはしなかった。行くぞと声をかければ、眩しい笑顔で頷かれた。それが、答えだ。


 なのだが――問題は。

 飛竜に乗るのは、身に沁みついた日常で、いくら囚われていたとはいえ……この同乗者のおかげで、疲労感が半端ないことぐらいだ。

 

 分かっている。

 体の問題ではない。精神の疲労だと。


 とにかく一事が万事、こんなに近くにいるのに、事故が起こるのだ。目を離していないのに、一瞬の隙をついて、心臓に悪いことが起こる。言ってることも、次の動きも、さっぱり読めない。大体、なぜ腰を抱えているのに、飛竜から落ちそうになるのだ。


 真剣勝負の切り合いの方が、よっぽどマシだ、と思えるほど。


 一体どうすりゃいいんだよ、と何度頭を抱えたことか。


 見かねた部下には、昨夜、野営地で何か話を振ってみては、と提案された。が、その余裕がない。

 くそう、と再度腕を小さな体に回しながら、ぼやく。


「将軍様?」


 どうしたの、と尋ねられて、無駄と知りつつ――すでに何度か同じやり取りをしていた――口を開いた。


「いい加減、大人しくしててくれんかね、お(ひい)――」

「……?」


 途切れた先を、怪訝そうに少女がうかがう。急に黙った男が、今は興味のそそられる対象になった。一生懸命、身をよじって後ろを見ようとする。


 青い目は、時に酷薄と評される薄い茶の目と、ぶつかって。


「――グェンスト」

「?」

「グェンスト・ヴァール、だ」

「それって……」

「……全部はもっと長いんだがな。この二つで大体事足りる」

「将軍様の、お名前ね?」


 ああ、と首肯した男に、少女はややあってから……ふんわりとほほ笑んだ。


「そうだったのね……えっと……ぐ、グエン、様?」

「……大部違うが。ま、そのうち言えるようになれ」


 もちろんよ、と少女は大きく頷いた。その後は練習のためか、下を向いてしまい……ちょっと待て、と男は頭を軽くつかんで仰向かせる。


「名乗ったぞ、俺は」

「ええそうね。だから今」

「名乗られたら、名乗り返すだろうが」


 普通は、と軽くすごむ。いつも通り、怯えはしなかったが……少女は目を丸くしたまま動かなくなった。もちろん、男――グェンストは気に入らない。


「何だ? 今更名乗る気はないとでも?」

「いいえ。あの………い、のよ」

「あ?」

「だからね……ない、と思うわ。名前」


 ぐらり、と飛竜が揺れた。手綱さばきを誤ったせいだ。グウァ、と相棒が不満げに鳴いたので、軽く首をたたいて詫びを入れる。姿勢を立て直し――ついでに自分の背筋も伸ばした。


「っと待て。だったら何て呼ばれてたんだ?」

「そうね。『姫様』か、『御使い様』かしら?」

「……実の親からも、か?」

「お父様にはほとんどお会いすることはなくて……お母様は、私を生んだ時にお亡くなりになったのよ」

「……」


 ただ前を向く黒髪のつむじを、グェンストは見下ろす。特にこれといった感情は伝わってこない。そこで、もう一人、もう少し家族としてはまともだった人間を思い出した。


「だったら……王太子――兄は?」

「お兄様は……」


 少し間が空いた。


「『素敵な妹』『愛い子』とか。あとは『僕の可愛い天――』」

「もういい」


 ちっともまともではなかった。はあ、と無理やりに息を吐きだす。まあいい、と切り替えた。


「……名無しってのは、不便だしな」

「将軍様?」


 別に今更、抱えるものが増えたところで大差はない。むしろ――


「俺のものなら、当然か」

「……?」


 疑問を浮かべる青い瞳。

 にんまりを見下ろせば、少しずつ、晴れやかで美しいほほ笑みを返す。



 分かってない。まったく――だが、今はそれでよかった。


 

 目指す土地はまだ遠く。

 空の上の時間はまだ十分にある。


 それまでに――証を渡してやればいい。


 



 手放すことは二度とない、という……無二の証明を。












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