第一話 休みの日くらい休ませてほしい
2026.5.17
初投稿。
金曜日、午後十時四十分。
コンビニの駐車場で、相沢誠司は営業車の中にいた。
助手席にはノートパソコン。
後部座席には、来週の提案資料。
足元には、得意先の売場で撮った写真を印刷した紙が散らばっている。
エンジンはかけたまま。
エアコンの風は妙に乾いていて、車内にはコンビニコーヒーと栄養ドリンクの匂いが混じっていた。
「係長、まだ帰れないんですか?」
スマホの向こうで、若手社員の高橋が言った。
「あと少しだ」
「月曜の会議資料ですか?」
「ああ」
「今日やらなくても……」
「月曜の俺が死ぬ」
「今も半分死んでません?」
「半分ならまだ動ける」
電話の向こうで苦笑が漏れた。
相沢は売場写真を見返す。
平台の位置。
冷蔵棚の前の滞留。
惣菜売場から飲料棚へ抜ける客の流れ。
特売のポップは目立っている。
だが、肝心の商品が奥に沈んでいた。
(これ、五センチ手前に出すだけで変わるな)
無意識に考える。
癖だった。
人がどこで止まるか。
どこで迷うか。
何を手に取り、何を見落とすか。
食品メーカーの営業にとって、売場は数字そのものだった。
棚の一段。
陳列の一列。
ポップの角度。
それだけで、売上は変わる。
相沢誠司、三十九歳。
食品メーカー営業、係長。
独身。
最近、腰が痛い。
「係長」
「なんだ」
「ちゃんと休んでくださいね」
「休む予定だ」
本気だった。
土日は寝る。
絶対に寝る。
それだけを支えに、今週を乗り切ってきた。
電話を切ると、車内が静かになった。
時刻は午後十一時三十七分。
あと二十三分で、土曜日になる。
コンビニの自動ドアが開くたび、揚げ物と出汁の匂いが流れてくる。
相沢は腹が減っていることに気づいた。
だが、今から何かを食べる気力はなかった。
「帰るか……」
ノートパソコンを閉じ、資料をまとめる。
月曜の自分が少しだけ楽になるように。
結局、休みの前日まで仕事をしている。
いつものことだった。
◇
午後十一時五十八分。
帰宅。
ワンルームの部屋は、暗く、静かだった。
玄関で靴を脱ぐ。
スーツの上着を椅子に掛けるつもりが、少しずれて床に落ちた。
拾う気力はなかった。
ネクタイを緩める。
スマホをワイシャツの胸ポケットに入れたまま、冷蔵庫を開ける。
麦茶を取り出し、一気に飲んだ。
スマホが震える。
【月曜会議 修正版お願いします】
「……見なかったことにしよう」
本気で呟いた。
ベッドに倒れ込む。
スラックスのまま。
ワイシャツのまま。
ネクタイだけ外した状態。
靴下は履いたままだった。
体が重い。
脳も重い。
だが、安心感があった。
休みだ。
ようやく、休みだ。
「休みの日くらい休ませてほしい……」
枕元の時計が、0:00を示した。
その瞬間。
部屋の空気が、ふっと消えた。
「……は?」
視界が揺れる。
天井が遠ざかる。
ベッドの感触がなくなる。
次の瞬間、相沢は冷たい水の中に落ちていた。
「ぶっ――!?」
激流。
冷水。
全身を叩きつけるような流れ。
息が詰まる。
何が起きたのか分からない。
だが、理解より先に体が動いた。
(流れが速い)
水量が多い。
雨のあとか。
前方に岩が見える。
(まずい)
相沢は必死に体勢を変えた。
流れに逆らわない。
斜めに抜ける。
足はつかない。
靴もない。
靴下が水を吸い、足にまとわりつく。
ワイシャツが肌に張りつき、胸ポケットのスマホが重かった。
川を流されながら考える内容ではない。
それでも頭が勝手に働く。
流れ。
障害物。
抜け道。
売場でも、道路でも、川でも。
結局は、流れを見るしかない。
岩が迫る。
(ぶつかる)
その瞬間。
「おい! そっち行くな!」
女の声がした。
何かが飛んでくる。
縄。
相沢は反射的に掴んだ。
「引け!」
強烈な力で体が横に引かれる。
肩が抜けそうになる。
水が口に入る。
それでも縄を離さなかった。
岸。
泥。
草。
相沢は地面に転がり、水を吐いた。
「げほっ……!」
肺が焼けるように痛い。
数秒遅れて、ようやく呼吸が戻ってきた。
「……生きてる?」
呆れたような声が降ってくる。
相沢は顔を上げた。
赤茶色の髪。
日に焼けた肌。
動きやすそうな服。
二十代前半くらいの女だった。
気の強そうな目をしている。
「……ああ」
「変な服」
第一声がそれだった。
会話が成立している。
その事実に、相沢は少し遅れて気づいた。
服も。
景色も。
空気も。
何もかも知らない場所なのに。
目の前の女の言葉だけは、妙に普通に分かる。
「……何で言葉通じてるんだ」
「何?」
「いや、こっちの話」
相沢は自分の姿を見る。
濡れたワイシャツ。
スラックス。
靴下だけの足元。
完全に不審者だった。
「川に落ちた」
「見れば分かるわよ」
女は腕を組んだ。
「なんで上流から人が流れてくるのよ」
「俺も知りたい」
本音だった。
相沢は周囲を見回した。
森。
川。
石造りの道。
見たことのない草木。
湿った土と、焚き火のような匂い。
大阪ではない。
少なくとも、自宅の近くではない。
胸ポケットからスマホを取り出す。
画面は生きている。
時刻は0:03。
電波は圏外。
「……」
「何それ」
「電話」
「でんわ?」
通じていない。
相沢は静かにスマホをしまった。
嫌な予感がした。
かなり。
「で、あんた誰?」
女が尋ねる。
相沢は少しだけ考えた。
自分は誰か。
食品メーカー営業。
係長。
三十九歳。
休日初日に川へ落ちた男。
「相沢」
「アイザワ?」
「相沢誠司」
「長い」
「よく言われる」
「本当に?」
「今初めて言われた」
女は怪訝な顔をした。
「仕事は?」
「営業」
「えいぎょう?」
「物を売る仕事だ」
「ああ、商人ね」
「近い」
近いのだろうか。
自信はなかった。
女は相沢を上から下まで見る。
「で、アイザワ。なんで川から来たの?」
「分からない」
「怪しいわね」
「俺もそう思う」
女は一瞬、黙った。
そして、少しだけ眉を下げた。
「……でも、嘘ついてる感じじゃないわね」
「助かった」
「信用したわけじゃないから」
「それでも十分だ」
相沢は立ち上がろうとした。
足の裏に痛みが走る。
靴がないせいで、石を踏んだらしい。
「大丈夫?」
「ああ」
立てる。
問題ない。
問題ないはずだ。
その時。
遠くから悲鳴が聞こえた。
「きゃあああ!」
女の表情が変わる。
「……まずい」
「何だ」
「ゴブリン」
聞き覚えのある単語だった。
ゲームや小説でなら。
だが、目の前の女の顔は冗談ではなかった。
「村の方だ」
女は走り出そうとする。
相沢は反射的に周囲を見た。
道幅。
森の位置。
川。
柵らしきもの。
逃げる方向。
「待て」
「は?」
「村の入口は?」
「一本道」
「避難場所は?」
「そんなの――」
「子供と老人はどこに逃げる」
女が言葉を止める。
「……広場ならある」
「入口に向かわせるな。詰まる」
「詰まる?」
「人がぶつかる。逃げる人と戻る人で流れが壊れる」
相沢の頭の中で、勝手に図が組み上がっていく。
一本道。
入口。
広場。
家の配置。
逃げる人。
追う魔物。
混乱は、被害を増やす。
売場も、道路も、避難も同じだ。
流れが壊れた場所から、事故が起きる。
「数は?」
「三、四匹だと思う」
「戦える人は?」
「ガンツがいる。村で一番強い」
「なら、そいつに入口を任せる。お前は人を広場へ回せ」
「ちょっと待って。なんで初めて来たあんたが仕切ってるの?」
「俺もそう思う」
「思うならやめなさいよ!」
「でも今は、誰かが決めた方がいい」
女は相沢を睨んだ。
数秒。
それから、舌打ちした。
「ミナ」
「何?」
「私の名前。呼ぶ時困るでしょ」
「ああ」
相沢は頷く。
「相沢誠司だ」
「だから長いって。アイザワでいい?」
「構わない」
ミナは走り出した。
「行くわよ、アイザワ!」
相沢も後を追う。
濡れた靴下で石道を走るたび、足の裏が痛んだ。
息も苦しい。
体は休みを求めている。
だが、悲鳴はまだ聞こえている。
見捨てて寝られるほど、割り切れなかった。
村の入口が見えてくる。
木の柵。
小さな門。
逃げ惑う人々。
その向こうで、緑色の小柄な怪物が棍棒を振り上げていた。
相沢は息を吸う。
頭の中で、売場の導線が避難経路に変わった。
「ミナ!」
「何!?」
「子供と老人は広場! 入口に近づけるな!」
「分かった!」
ミナの声が村に響く。
「みんな! 広場へ! 入口に来ないで!」
混乱していた人の流れが、わずかに変わる。
その瞬間、相沢は思った。
休みの日くらい、休ませてほしい。
本当にそう思う。
だが、このまま放っておけば、もっとひどいことになる。
なら、やるしかない。
いつもの仕事と同じだ。
崩れる前に、回す。
相沢は濡れた袖で口元を拭い、村の入口へ向かった。
こうして。
食品メーカーの営業係長、相沢誠司の休日は、完全に消えた。




