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人の持つ牙  作者: 赤胴貫介
ディーセント帝国・騎士団編
97/105

少女の暴威は乱れ舞う

 ラスクは自分が掴み上げた少年の様子を見た。喉元をラスクの怪力で掴まれているので、少年の顔色はみるみるうちに土気色になってきている。このままでは酸素を取り込めずに窒息死するだろう。


 少年の格好はラスクと同じく見習い騎士の装備で、おそらくどこかの貴族の子弟だとラスクは思った。帝都出身か地方領の出身かは分からないが、この少年たちも帝国の正統騎士になる夢を叶えるために、この選考大会に出場したに違いない。


 この少年にも家族や友人がいるのだろう。剣や馬術を教えた師も、ともに技術を磨きあった仲間がいるのだろう。


 だが、その少年の喉を締めつけるラスクに迷いはない。


 この場にいる男たちはラスクを卑劣な手で捕まえて、正々堂々戦うよりも罠にかけることを選んだ。もちろんラスクが他人の手段をどうこう言うつもりはないが、この男たちはラスクを痛めつけて、さらには人の尊厳すら(おとし)めるような下劣な暴行に及ぼうとした。


 ラスクは先ほどの男たちの会話を聞いている。若い男たちはラスクの身ぐるみを剥ぎ、無抵抗な状態で凌辱することを楽しみにしていた。


 あのような会話を平然とできるということは、そういった暴力行為を常日頃から行っているはずだと推測できる。高貴な身分という権力を盾にして、安全な立場に立っている上で、これまでも弱い者を虐げてきたのだろう。


「……ふん」


 侮蔑するように鼻を鳴らしてから、ラスクは前方にいる男たちを見た。


 少年を捕まえたラスクの前には9人の人間がいる。捕まえた少年を合わせれば、10人で集団を作っているということになる。


 そのうち8人は年齢こそバラバラだが、それなりに裕福な見習い騎士といった格好だ。しかし残りの2人は明らかに異質だった。その2人は酒場ホール内の奥に座っている。


 片方はナイフを持った人間に追われる演技をしていた、あの臆病そうな男だった。あの時は墓場まで追い詰められたフリをしていたが、今はラスクが見た時よりも堂々とした態度で座っている。ラスクが自由になったせいで表情に緊張が見られるが、そう簡単に慌てふためくような人間ではないようだ。


 そしてその小柄な男は魔術師用のローブを着ていて、テーブルの上には鉄製の杖を置いている。あの男こそ、ラスクを捕らえた粘液魔術を駆使する張本人だろう。


 もう片方の男も同じテーブルを囲んだ椅子に座っている。魔術師の男とは対照的に、大柄で筋骨隆々とした体つきだ。その大男は魔術師よりも態度が大きく、ラスクが拘束から抜け出した今でも、ほとんど表情を変えずに平然と座っている。十中八九、あの男がラスクを殴打して気絶させたに違いない。


 またその大男の身につけている鎧は頑丈なもので、デザインも蛮族的な意匠が施されている。壁には1本の大剣が掛けられているが、巨大な体躯のせいで、その大剣すら小さく見えるほどだ。


 ラスクは奥にいる魔術師と大男の2人組が、この集団の中心人物だと判断した。


「この女ッ! 今すぐそのうす汚い手を離せ!!」


 腰の剣を抜きながらそう叫んだのは、ラスクに首を絞められている少年よりも少し歳上の見習い騎士だ。顔は怒りで真っ赤になっているが、その唇はわずかに痙攣している。この男もラスクに対して恐怖を抱いている証だった。


 その若い男が剣を抜くと、それに続いて他の者たちも一斉に剣を抜いた。いつでも飛びかかれるようにラスクに剣先を向けているが、どの男たちも剣が微妙に震えている。


「汚いって……はあ、先に掴んできたのはそっちだろ。僕は髪を掴まれたから、逆に掴み返しただけだ。君たちって馬鹿なのか?」


「なっ、何を!」


 心底呆れた口調でラスクが言い返すと、さらに男たちは激昴した。中には人質になっている少年のことも忘れて、ラスクに攻撃を仕掛けようとした者もいた。


「…がっ?! かはっ、ぁああっ……!」


 だが、それを見たラスクは少年の首をさらに締め上げて、わざと少年の苦しげな声を聞かせた。突撃しようとした男もその声を聞いて、我に返って後ずさった。その代わりに悔しげに睨みつけてくるが、ラスクはどこ吹く風といった様子だ。


「お前たちは静かにしていろ。僕が質問したいのは奥にいる2人に対してだ。もしもお前たちが変な真似をすれば、こいつの喉を引きちぎるからな」


 自分の周囲を囲む男たちにそう宣言したラスクの声は、とても淡々としたものだった。むしろ下手に声を荒らげるよりも説得力があったので、思わず男たちの皮膚に鳥肌が走った。


 ラスクはホールの奥を見据える。魔術師と大男はラスクが自分たちに何か言ってくると知っても、大して体を動かすことなくラスクを見ている。


「そこの大きいやつと小さいやつ! 僕を拘束してここまで連れてきた動機を教えろ!」


 奥にいる2人組はラスクの質問を聞いて、一度だけ顔を見合わせてから、腕を組んで座る大男の方が首をしゃくった。大男の仕草を見て、小柄な魔術師の方が立ち上がった。どうやら大男の方が力関係が上なのだろう。


 小男の魔術師はテーブルの上に置いた杖をそのままにして、ラスクの質問に答え始めた。まだ自分は臨戦態勢にならなくても大丈夫、という余裕がある表れだ。


「けぇっ! 人質を取ってから随分と態度が大きくなってきたなぁ、小娘! お前はこの多勢無勢な状況をよく分かっているのか?」


 魔術師の声は中年な割に高い声だった。なんとも威厳はないが、残忍さと狡猾さを感じる声と口調をしている。


 だが、ラスクは小男の言葉に返事する代わりに、掴んでいる少年の喉の締めつけを無言で強めた。さらには男たちから少年の表情がよく見えるように、今まで以上に高々と持ち上げた。


「げ、ぇぇっ……えぅ、ぁ……!」


 少年の顔は涙と涎で醜い有り様になっていた。加えて、苦痛で歪んだ唇は酸欠のせいで青紫色に濁り、顔全体の皮膚は濃いピンク色に染まっている。眼球の白目の部分も、著しい充血により赤みが目立っている。


 仲間が苦しむ顔を見たことで、男たちの間にラスクに対する怒りが湧き上がるが、その怒りの裏には根源的な死の恐怖が巻き起こり、男たちの胸を支配し始めていく。


 魔術師の男もその少年の顔を目にして、少しばかりたじろいだ。


「お前こそ分かっていないようだな。こっちはいつでもこいつの息の根を止められるんだよ。質問していたのは僕だ。早く答えろ」


「っ?! ぬ、ぬぅぅ……っ!」


「それとも、1人殺さないと質問には答えてくれないのか? そういうことなら、こいつをくびり殺してから別のヤツを捕まえるけど……」


 別のヤツという単語をラスクが言った途端に、ラスクを取り囲む8人がギクリと体を硬直させる。ラスクは剣を握る男たちの顔を、まるで物色するかのように一人一人眺め始めた。丸腰のラスクと目が合っただけで、武器を持っている男たちの方が萎縮して目を背ける。


 その様子を見た魔術師の男は、ラスクの質問に渋々ながらも答えることにした。すでにこの場の雰囲気はラスクへの恐怖に支配されつつあるが、このまま要求を飲まずに何も答えなければ、もう間もなく仲間の1人が窒息死してしまうだろう。


「……お前を捕まえた動機は、この大会のトップ争いにおいて邪魔だと思ったからだ! この街に今夜泊まっている出場者全員が、明日には第1チェックポイントの都市『ヴェルティア』に着くはずだからな……一番乗りを争う敵は、なるべく少ない方が有利だから捕まえたんだ……!」


 小男の魔術師の説明にラスクは納得した。おおむねラスクが予想した通りの動機だった。


 ルイーネも話していたが、この街とヴェルティアは馬で1日以内の道のりだ。ゆえに明日は一番乗りを巡る激戦が必至となる。この10人の男たちのように汚い手段を使ってでも、有力なライバルを潰そうとする出場者が現れても不思議ではない。


 ラスクはさらに質問を続けた。


「この街には他にも有望な出場者がいるはずだ。その中から、わざわざ僕を標的にした理由は何だ? 女だから捕まえやすいとでも思ったのか?」


「……っ!」


「図星か」


「そっ、それだけが理由じゃない! お前が乗っていた馬が『魔馬』だから真っ先に狙ったんだ。あれは並の人間が飼い慣らせるような怪物ではないのに、なぜかお前は手なずけている。これからのレースを進める上で、ただの馬に乗っている俺たちにとって、魔馬に乗っているお前の存在は特に邪魔なんだよ!」


 ラスクの問い詰めると魔術師の男は、栓の抜けた蛇口のように理由を話し始めた。標的のラスクは拘束から抜け出し、こちらの目論見も知られてしまった以上、男は半ばやけくそな様子になっている。


「そうか。じゃあ、なぜ気絶した僕をその場で殺さなかったんだ? 悔しいけどあの瞬間に僕の負けが決まっていた。お前たちなら何回だって僕の命を奪うチャンスがあったのに、どうしてそうしなかった?」


「それは……」


「聞こえなかったか? なぜ僕を殺さなかった、と訊いたんだけど」


 なおもラスクは質問を重ねる。好き勝手に訊きたいことを訊いて一方的に喋らせるので、今や魔術師とラスクの間にある主導権は完全にラスクが握っていた。


「ただ殺すよりも、その、殺す前に全員で犯して遊んでやろうって思ったんだ……ここまで大した休息もなく、馬ばかり走らせていたから、我慢も限界だったんだよ! そりゃそうだろ?! はるばる帝都まで来たのに、競争相手は多いし、飯だって安心して食えやしないし……」


 小男の話題が逸れ始めたので、ラスクは空いている左手で不要なものを払うような仕草をして男の話を(さえぎ)った。


「ああ、もういいもういい。もう訊きたいことは分かったから、余計なことは言わなくてもいい。お前らの苦労話なんて知りたくもないから」


「なっ……こっ、こ、この……っ!」


 一気に男の顔が怒りでピクピクと痙攣する。ついさっきまでこちらが優位に立っていたのに、ここまで良いように言われることが屈辱なのだろう。すでに我慢は限界に達していて噴火寸前というところだ。


 小男の魔術師は自分の後ろに座っている大男の方に振り返った。まだ大男は腕を組んだまま黙っている。小男は仲間の大男にどうにかして欲しいと思ったらしいが、大男は泰然とした態度を崩さず静観している。


「キックルさんっ! あ、あれを!」


 キックルと呼ばれたのは魔術師の小男だった。小男は仲間の男の呼びかけに気づいて、素早くラスクのいた方向に向き直った。


 キックルのことを呼んだ若い男が指差していたのは、ラスクに掴み上げられている仲間の少年だった。


 先ほどからラスクに喉を掴まれた少年は、今までの会話の間でも、脚をじたばたと動かしてもがき苦しんでいた。また少年は何度かラスクの右手を引き剥がそうとしていたが、ラスクの右手は少年の喉に食いついた肉食獣のように、一瞬たりとも力は緩まなかった。


 その少年の様子が明らかにおかしいことに気づいたのが、キックルを呼んだ男だった。


 すでに少年が暴れていなかったのだ。両腕と両足は全て脱力していて動きを見せない。首もがくりと前に倒れているので、そのうつむいた顔の様子を男たちは確認できないが、ラスクの右手の袖に唾液が垂れていた。


「……っ! お前、まさかっ!!」


 仲間の少年が動かなくなった意味を理解し、キックルはテーブルに置いてある杖を取って、ラスクに向けて声を荒らげた。


「うん、どうかした?」


 自分が締め上げていた少年が動かなくなった意味を知ってか知らずか、ラスクはキックルに対して首を傾げる。


「とぼけるなぁっ! 俺たちが気づかないとでも思ったか? もうニックは死んでるんじゃないのか!?」


「ニック……ああ、こいつか。どうだろう、詳しい死亡判断なんて僕はできないから分からないな。でもこの様子だと、まだ生きてたとしても助からないだろうね」


 そう言ってラスクはニックの体を持ち上げたまま、その体を片腕だけでガクガクと揺らして、その顔を下からのぞき込む。ニック少年の体が一度揺れるごとに体液が飛び散った。死んだことで体中の体液が、穴という穴から流れ出したのだろう。


 仲間が死んだと判断した男たちが一斉に動き出す。


 怒号とともに男たちが剣を振り上げ、ラスクに向かって突進してきた。キックルも杖を構えて魔力を練り始め、大将格の大男以外の9人が臨戦態勢に入った。


 ラスクは不敵に笑った。この男たちは自分を生かしておいた時点で、ほとんど敗北は決まっていたのだ。好機を逃してから攻撃を仕掛けるのは、戦闘における愚の骨頂といえる。


 それに、自分は剣を取り上げられてしまっているが、何も丸腰(・・)というわけ(・・・・・)ではない(・・・・)のだ。ラスクは自分が締め上げていたニック少年の足首を掴んで、その体を武器のように容赦なく振り下ろした。


 圧倒的な質量と速度を伴った少年の体が、最も前にいた男の頭上に振り下ろされる。男は自分に迫るものに驚いたが、叫ぶ間もなく叩き潰された。鎧を着た者どうしの衝突音は、酒場内の空気を強烈に震わせた。


 男たちの動きが止まり、水を打ったような静寂が訪れる。武器の代わりにされた少年と潰された男の血が、酒場の床にどんどん広がっていく。2人とも頭が派手に砕けていて、ピンク色の脳漿と灰白色の脳髄が、男たちの目にまざまざと焼き付いた。


「……うっ」


 あまりの光景に(うめ)いたキックルの視線が、仲間たちの死に様の次にラスクの表情に移る。ラスクの顔はある意味で異常だった。人の命を奪ったことにひとかけらも動揺していないのだ。まな板の上の食材を捌き終えた料理人のように、眉一つ動かさずにいる。


 初めての人殺しをラスクは後悔していない。自分が力を振るうことで呆気なく2つの命が消えたが、心の中は至極穏やかな状態のままだった。もしもジャックが同じ状況にいたならば、問答無用で敵を斬り捨てるはずだとラスクは考えていた。


 それに選考大会の出場者は1万人を超えていて、このような悪党たちは大勢いるはずだ。たかが10人を殺したことで尻込みしているようでは、ジャックには絶対に追いつけない。とうにラスクの迷いは消えている。


「これで残りは8人……じゃあ、行くぞっ!」


 ラスクが勢いよく駆け出す。男たちは慌てて剣を振り上げて迎え討とうとしたが、まだラスクが少年の死体を手放していないことに気づくと、迎撃することを諦めて、必死に防御姿勢をとった。


「がぁあああっ!!」


 咆哮とともにラスクが少年の死体を横薙ぎに振り回す。金属の鎧を装備した人間の死体は強力な凶器になり、剣を構えて防ごうとした男たちの体を吹き飛ばす。男たちが脚で踏ん張って抵抗しても無駄だった。後方にいた魔術師キックル以外の男たちは、このラスクの一撃で完全に体勢が崩れた。


「くっ、くそぉっ! 絶対に許さっ……え?」


「こっちだよ」


 少年の死体を何とか押しのけた男が前を見ると、ラスクの姿が消えていた。敵が忽然と姿を消したせいで思考が止まった男だが、その男の真横からラスクの囁き声が聞こえた。


「えぎっ?! あ…ぁ……」


 その男が振り向いた時には、眼前にラスクの指先が迫っていた。そして右目に激痛が走って男は意識を失う。男の目玉はラスクの指に潰され、さらに奥にある脳も貫かれた。倒れた男は数回痙攣した後に動かなくなった。もし奇跡的に生きていたとしても、二度と五体満足に動けないだろう。


「この女ぁああっ!!」


 近くにいた別の男がいきりたって剣を振り回す。勢いはそれなりにあるが、ラスクにとってもはや冷静さを失った剣は脅威ではない。


 頭上に振り下ろされる剣の横っ腹をラスクが殴ると、男の剣は半ばからへし折れた。目を丸くした男のことを待たず、ラスクは男の首に回し蹴りを喰らわせる。


「げっ……っへ…」


 壊れた人形のように男の首が直角に曲がった。男がよろけると首はぶらぶらと揺れて、2、3歩前に進んでから、その場で男の体は膝から崩れ落ちた。


 ドギュウッ! ドゥンッ!


 キックルが2発の水の弾丸を撃ってくる。鋭利な水はラスクに迫るが、苦もなくラスクは体を仰け反って避ける。ラスクは水魔術を避けている間も、キックルと他の男たちの動きを見ている。


「ちぃいっ! おいっ、俺が撃つからお前たちもいけ! 一気に攻めるんだ!!」


 怒鳴ったキックルがさらに水魔術を撃ち込み、それに続いて残った4人の男が襲い掛かってきた。ラスクは水の弾丸を避けつつ、迫ってくる剣を後ろに飛んで(かわ)す。空中で1回転したラスクは丸テーブルの裏に着地して、そのテーブルの縁を蹴り飛ばした。


 蹴られたテーブルは猛スピードで床を滑ってくる。剣を空振りした4人の男はテーブルを避けようとしたが、避けられたのはたった1人だけで、残った3人の男は避けられず激突する。


 3人の男は後ろに倒れないように耐えたが、テーブルを受け止めて硬直した瞬間に、ラスクが手近にあった椅子を投げまくった。飛来する木の椅子が何脚も男たちの顔面や胸にぶつかり、今度こそ3人の男は倒れた。木の椅子が割れる音と、金属鎧が床にぶつかる音が酒場内に響く。


「さて……」


 再びラスクは酒場の中を見渡す。いまだ無事なのは奥に座る大男と魔術師キックル、そして金属鎧を着た男1人だった。一気に7人の仲間が倒されたことで、剣を構えている1人の男の顔から血の気は引いて、能面のように真っ白になっていた。


「次はお前かな」


 最も近くにいた男にラスクが声をかけて歩み寄る。まだ距離は4mほど離れているが、剣を構える男はラスクが1歩近づくと1歩後退する。たとえ両者が槍を持っていても届かない間合いなのだが、それでも男は近づけない。


 男にとってラスクは巨大な怪物に見えた。見た目こそ自分より少し歳下の少女だが、力関係は天と地ほどの差があると理解してしまった。


「スライミー・バインドォーッ!」


 少し遠くに立っているキックルが水魔術を発動する。テーブルや椅子の影に忍ばせていた水の粘液が、四方八方からラスクに襲いかかる。


 魔術に気づいたラスクはほとんどの粘液を避けたが、キックルは巧みに粘液を操って、ラスクの拳と脚の先に粘液を当てた。水の魔力を変性させたキックルの粘液はただの物質ではない。使い手のキックル自身も、自分の粘液魔術の粘り強さを自負している。


「は、ははっ……油断したなっ! これでお前は拳も蹴りも封じられた! 墓地で生み出した粘液よりも強力なやつだ! ムトン、怯えてないでさっさとこいつを殺せぇっ!!」


 ムトンと呼ばれた剣を持つ若い男が、ラスクとキックルを交互に見る。キックルの目は興奮して血走っていて、ラスクは自分の手と足を覆った粘液を振りほどこうとしている。


 攻撃できないラスクならば勝てる。千載一遇のチャンスが到来したことでムトンの戦意がそそり立つ。震えていた指を励まして剣の柄を握り直し、絶叫をあげて突進した。


 鋼の直剣の切っ先を向けてムトンは突っ込んでくる。ラスクは何度か腕を振って粘液を落とそうとしたが、ムトンが突撃してきたのを見て、やれやれというように溜め息をついた。


 今のまま拳を握ってムトンを殴っても、手を覆う粘液が衝撃を吸収してしまうので倒せないだろう。脚で蹴っても同じことだ。物を投げつけようにも、指先すら粘液で覆われているので何も掴めない。


「ーーー仕方ないな」


 ラスクは目を閉じて腹の奥底に(・・・・・)意識を集中させた。敵が剣で攻め込んでくる切迫した状況だが、ラスクに恐怖や狼狽はない。そしてラスクの集中力は目指すべき高みまで一瞬で到達する。


 ムトンの剣先がラスクの胸に迫る。一突きで心臓を貫いて殺すための攻撃だ。ラスクへの恐れを必死でかき消そうと叫びながら、満身の力を込めて剣を突き出してくる。


『ウオォーーンッ!!』


 意識の中枢で人狼エイドスの咆哮が轟く。カッと目を開けたラスクが右手を突き出す。目にも止まらぬ速さで打ち込まれた手刀が、まとわりついた粘液を風圧のみで吹き飛ばし、ムトンの金属鎧ごと胴体を穿(うが)ち抜いた。


 ムトンの体を真正面から貫いたラスクの右手が、ムトンの後ろにいたキックルからはっきりと見えた。血と臓物が絡みついたラスクの手は人間のものではなく、まるで狼の前足のような鋭利な爪と黒々とした獣毛が生えていた。


 その右手を見た瞬間にキックルの身の毛がよだつ。先ほどまでキックルが抱いていた警戒心や恐怖は、ラスクの戦闘の強さに対するものだった。しかし今回ばかりは別物で、この生物には敵わないという動物本能的な恐怖がキックルの心を押し潰そうとしてくる。


「がふっ……ゔっ……?」


 自分の身体が貫かれたという事実を、当のムトンは受け止めきれていないようだ。何が起こったのか分からないまま、自分の胸から血液が噴き出していく様子を眺めることしかできない。圧倒的な苦痛の荒波がムトンに襲いかかり、その波に飲み込まれながらムトンは絶命した。


 ラスクが一息でムトンから腕を引き抜く。死んだムトンの体はラスクの腕という支えを失うと、その場に広がっていた自分の血溜まりの上に沈んだ。


「来い、あとはお前たちだけだ」


 右手の甲についた血を舐めて、ラスクは魔術師キックルと大男を見据えた。ラスクの右の瞳は獣のように金色に染まっていて、それはまさしく黒狼ラプターウルフの瞳だった。


質問、感想等あればお気軽によろしくお願いします!

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