エイドスvsジャック その3
「次はお前だ…… すぐにあいつと同じところまで送ってやる。お前を殺して壁を乗り越え、俺は絶対に生き延びる!」
堀の水でずぶ濡れになっているエイドスは、真上およそ6mの壁の上に立つラスクに、指を差して宣言する。
ジャックという宿敵を始末したおかげか、極限まで昂った精神状態により目は血走り、顔つきも自然と狼の形態に変化していく。
ニィと笑ったエイドスが壁を登るために手を掛けた。
ラスクも覚悟を決めて、背中の両手剣を抜いた。本能的な恐怖で背筋に寒気が走ったが、ラスクは刺し違えてでも、ジャックを殺したこの人狼を仕留めるつもりだった。
「黙れ……ッ! ジャックの仇をみすみす逃がすもんか。この命と引き換えにしてでも、お前だけは生かして帰さないぞッ!」
「クククッ、随分と必死に吠えるじゃないか。その調子で死ぬ瞬間も泣き喚いてくれよ……?」
壁を順調に登るエイドスの表情は、ほとんど勝利を確信している。薄ら笑いを浮かべ、逃げ場を塞いでいるラスクを小物同然に扱っている。
『ただで死んではやらない。登って近くまで来たところを叩き落としてやる!』
恐怖を精神力でなんとか力に換えようとしているラスクは、剣の柄を強く強く握りしめる。手の平が汗ばんでいる感触があったが、自分の緊張が極まるところまで達していることを、できるだけ無視する。
ラスクの緊張が何かしら伝わったのだろう。
エイドスは顔を背けて失笑した後、ギラリと狼の双眸を向けた。一段と大きく手を伸ばし、壁に右手を掛けてラスクに近づいた。
ビシュッ!
壁上から見下ろすラスクと、登って上を見上げるエイドスの間を、小鳥のようなものが横切った。
瞬く間に過ぎ去ったそれが何なのか2人とも理解してないが、右手首の骨ごと丸々エグられたエイドスだけが、なす術なく落ちていった。
「なんだっ?!うぉ、おおぉぉぉ……ッ」
叫び声を上げてエイドスの体は水堀に落下し、遅れて右手首も着水した。
この光景を見たラスクは、物凄い速度で横切った物体は何だったのか視認しかねたが、誰の仕業かなのか……それは心で分かっていた。
水堀に落ちて浮上し、危うく流されそうになっていた右手首を掴んだエイドスも、『指』の力で手首をくっつけながら今の攻撃の主を探した。
「ヌゥゥ……ッ どこまでも邪魔ばかりを……ジャァック!! いるなら出て来い!」
エイドスもラスクと同じく、あれがジャックの一撃だと分かっている。
横切った何かが来た方向は、ジャックが流されていった方向なのだから。
それゆえ壁上のラスクも、壁に掴まりながら立ち泳ぎしているエイドスも、その方向の激流の中に目を凝らした。そして、ギョッと目を見開いた。
ジャックはエイドスから15mほど離れたところにいた。
流れの中でじっと止まっていて、首だけが水中から出ていた。傍目から見れば、それは生首だけが浮いているようだった。
「………ハッ、ここまで執念深いと俺ですら気味悪くなってくるよ…………そんなにも俺を殺したいかッ! 言っておくが無駄な努力さ!!」
多少はジャックに面食らったエイドスだったが、軽く笑い飛ばしてから右の手の平をジャックに見せる。そして、容易に修復した右手首をありありと見せつけることで、自らの不死身性を誇示する。
「いいか? 断言してやろう、お前に俺は殺せない………聖獣ウッドウルフと黒狼ラプターウルフの力を、どちらも兼ね備えたこの俺は絶対に負けない。お前ら人間に、俺を仕留める牙も爪も有りはしない………!」
「くだらん」
首から下が水に浸かっているジャックが、エイドスにそう告げた。
たった一言だったが、そこには重みがあった。
見据えているジャックの言葉は、エイドスの逆鱗に触れたようだ。
「なんだと?ジャック……もう一度言ってみろ」
「ふう………若造のたわ言には付き合ってられん。要らぬ言葉は聞き飽きたし、お前の首はもらう。それだけだ」
ジャックの体が静かに浮上する。
ちょうど腰辺りまでが水面から出たところで、ピタリと左手一本で構えた。
今までの構えとは違い、軽く半身になって刀の切っ先をエイドスに向けていた。
ラスクはその構えが、先ほどエイドスの手首に見舞った一撃の『構え』と理解した。
そして、ジャックの周りの激流がいつの間にか凪いでいることも、ここからでも伝わってくるジャックの殺気で妙に納得する。
『ジャックの身に何が起こったのかは、僕ごときじゃ分からない。でも、これだけは言える……エイドスは追い詰められている。………静かに着実に、やつはジャックに体力も余裕も、引き剥がされているんだ』
壁に掴まって水流に耐えているエイドスは、ジャックが構えたところで、自身に『指』を打ち込んだ。
怒りはかなり溜まっていたが、エイドス自身も、冷静さを欠かさぬように心中で戒めた。
最後に勝つのは自分であって、泥土に沈んで血と涙を流すのは、他ならぬジャックなのだと考えることで、苛立ちを封じ込めた。
エイドスが能力を使ったことは、ジャックもラスクも視認できている。
しかしジャックは、あの風の刃を放った時と同じように、己の呼吸と機会だけを頼りにエイドスの生命を狙う。
ここにきてエイドスが『指』の能力を使おうと使わまいと、ジャックは仕留め切る自信があった。
「ひとつだけ、お前に教えていないことがあったな」
構えたまま、ジャックが口を開いた。
ラスクには聞き取れない小さな声だったが、人狼エイドスの聴覚は聞き取っていた。
「俺の名を教えてなかったな」
薄く笑ったジャックの首から一筋の血が流れた。エイドスはジャックの言葉を訝しみながらも、なぜか耳を傾けずにはいられなかった。
「俺の名は、寂 主水 だ。俺はこんな雨の中………首を刎ねられて死んだんだ。その後は罪人として晒し首にされていただろう」
脈絡も何も無い話だった。知能の高いエイドスですら、突拍子もないジャックの言葉に当惑した。気が触れたのでは、ともエイドスは考えた。
一方で、前世で寂 主水が首を刎ねられた際の傷は、ジャックに残っている。水の魔力がジャックに発現した時も、この傷への刺激が引き金だった。
ーーー堰を切ったように、首の傷から血が滔々と流れ出す。人狼エイドスですら、そのジャックの姿に異形の恐れを感じた。
「俺の名を……冥土の土産として覚えておけ、エイドス・セイルズ……………『水牙』ッ!!」
引いていた左手に水の魔力が迸る。
左手一本で突きを繰り出すと、切っ先から水の弾丸がエイドスへ飛んでいく。
一瞬で水の弾丸はエイドスの左胸部、つまりは心臓がある部分に風穴を開けた。
威力も速度も、居合抜きで放った風の刃とは桁違いであり、事実、エイドスを貫通した後に、カーブを描いてそびえ立つ街壁をくり抜いていった。
ジャックの一撃の威力に、確かな手応えを感じてラスクは拳を握った。
だが、エイドスの左胸部から血はほとんど出なかった。見事に水の針はエイドスを貫いたものの、ホンバットが胴体に拳を爆裂させた時と同じように、傷口から血はあまり出ず、致命傷には至っていないのだ。
エイドスは若干フラついただけで、首をコキリと鳴らしてジャックに嘲けった表情を見せた。
水の弾丸の威力に驚きを隠せてなかったが、まだ生き残れるぞという余裕の笑みがそこにはあった。
「あ、あり得ない……間違いなくジャックの一撃は、ヤツの体を………」
「怯むなラスクーーッ!! お前と俺で、この暴獣を狩るのだ! お前はヤツをよく見ろッ!!仕留めるのなら今しかないぞ!」
下の水流にとどまっているジャックが、たじろいだラスクに檄を飛ばした。
突然の檄にラスクは体を硬直させたが、すぐにビリビリとした攻撃性が奮い立った。この好機を逃してなるものか、ここで決着をつけるしかないのだ、と己に呼びかけ覚悟を決めた。
エイドスの『指』が刺さっていた腹の傷に、ラスクは自ら指を乱暴に突っ込んだ。
痛みが走った。歯を食いしばり涙を堪えた。
そして引き換えに、感覚はみるみる冴え渡った。
ラスクは真下にいるエイドスを見た。穴が空くほどじっと見ていると、エイドスの脈打つ心臓が網膜に焼き付いた。
壁上のラスクの精神状態は、その時は一匹の獣もしくは狩人同然であり、エイドスという獲物を喰らい尽くすために、自然と感覚が生命の根源に狙いを定める。
「よし、よし……よしッ! ジャーック!! ヤツの心臓はッ……左肩だーー!!」
「なっ……ッ?!」
真上にいるラスクの怒鳴り声を聞いて、エイドスは信じられないと言いたげな顔をした。
秘中の秘を知られてしまったエイドスは、わずかに思考が停止する。それほどまでに、心臓の位置を変えるという秘密は大きかった。
戦士ホンバットの爆裂攻撃でさえこの切り札で凌いだのだから、ジャックやラスクごときに看破されるはずがないと考えていたのだ。
そして水牙が放たれる。
エイドスは大急ぎで左肩に移動させていた心臓を、体の下にずらせて脇腹へ向かわせた。
ビシィッ!
水の弾丸は左肩を貫いて骨と腱を跡形もなく抉っていったが、心臓を捉えることは出来なかった。
出血量とエイドスの怯みかたからジャックはそれを確認して舌打ちしたが、エイドスもほんの少し心臓の移動が遅ければ危なかっただろう。
しかし、心臓が捉えきれなったことは、ジャックとラスクにとって瑣末なことだった。
2人の狩人は獲物の息の根が止まるまで、思考と行動を止めないのだ。
間髪入れずラスクが叫んだ。
「次は脇腹に行った!」
「かぁあーッ!!」
なおもジャックは突きを繰り出して弾丸を飛ばした。エイドスは心臓を移動させ、ラスクがすぐにそれを暴くので、必然的にイタチごっこを繰り返すことになるが、ジャックとラスクの攻勢は止まらない。
徐々にエイドスの出血が増え始めた。ジャックの水の一撃が心臓を掠めることが多くなってきたのだ。
『なんてことだ!こんなバカな話があるか、人狼と聖獣の力を持ったこの俺が、こんなガキどもに負けるのか?!』
様々な感情が噴き出てエイドスの顔つきは痙攣していたが、まだ理性は残っていた。精神的に恐慌に陥いる寸前だが、知能と狡猾さはまだ健在だった。
「ウォォンーーッ!オォーンッ!」
エイドスが狼特有の遠吠えを始め、心臓の移動も中断した。ラスクは構わずエイドスの心臓位置を叫んだが、ジャックが手で制して辺りを確認する。
『はぐれウルフを呼んだか?』
ジャックは水堀から見上げて通りと建物に目を凝らすが、はぐれウルフの姿は見当たらない。『指』でラスクや自分を操ろうとしているのかと予測してみたが、自分もラスクも一向に異変は訪れていない。
仮にエイドスが何かしらの策を弄したにせよ、防戦一方の人狼エイドスが、自分以外の何者かに『指』を使うことは、自ら守りを捨てる自殺行為だ。
再度、ジャックは片手突きを放つ体勢に入ったが、とてつもなく嫌な予感がした。そしてその予感は直ちに、風を突っ切る羽音が聞こえたことで的中した。
ーーーゴオォォォォッッ!!
羽音がすぐ近くに到達するとともに、巨大な影がジャックとエイドスを、さらに壁上にいるラスクさえも覆った。
3人の上空に現れたのは帝国の竜騎士が乗っていた翼竜だった。
竜は目が虚ろな点以外は、雄々しく羽ばたいて眼下にいる3人を見下ろしている。
壁の上に立つラスクは、突如としてやって来た竜に驚いたが、そこで全て合点がいった。
『しまった、そういうことか! 残り1本のエイドスの指は、この翼竜を操るために派遣していたのか!』
ラスクはわずか数m上に滞空する翼竜の乳白色の腹を凝視した。案の定、エイドスの最後の『指』が1本だけ翼竜の体に埋め込まれていることが分かった。
「なるほど、な……あの小娘……『指』の支配が不十分だったことで、この俺に、とって……厄介な能力を、身に付けていたらしい……!」
今にも卒倒しそうなほどエイドスは弱っていたが、冷静にラスクを分析してから、即座に行動を起こした。
その顔は狂気と酷薄さが滲み出ていた。口角を上げ、牙が剥き出される。
「よくぞ駆けつけた、ワイバーン……そして、残念だがお別れだぞ………ジャックゥッ!」
自身の体内にある『9本』と、ワイバーンに仕込んだ『1本』をフル稼働させる。
エイドスが壁を垂直に駆け上がり、ワイバーンは下降した。
「逃すかっ!」
いち早くジャックが水の弾丸を飛ばしたが、弾丸は壁を走るエイドスの背中の肉を削っただけだった。
その時、ジャックはエイドスが勝利に顔を歪めていたような気がした。
「えっ、まさか……うわぁーーっ!?」
翼竜は降下しながら真下にいたラスクに、その巨体を押しつけてきた。ラスクも落下しないように踏ん張ったが、このままだと押し潰されてしまうため、体は落下を選ぶしかない。
それをエイドスは見逃さなかった。
エイドスは壁を駆け上がりながら、バランスを崩したラスクを抱えて翼竜に飛び乗った。
抱えられて翼竜に乗ってしまったラスクは、エイドスの腕を振り解こうと暴れるが、エイドスは手早く翼竜の手綱を使ってラスクを縛り付けた。
「エイドォォスッ!!ラスクを離せ!」
エイドスが体を横に傾けて下を見下ろすと、鬼の形相をしたジャックが水牙を撃ってきた。
ふん、と鼻を鳴らしてエイドスはワイバーンに『指』を2本加えた。
ギパァンッ!
計3本の『指』によってさらに凶暴となった翼竜は、体をパワフルに半回転させ、翼の裏にある隠し爪で水牙を弾いた。
ジャックは歯軋りし、もう一度水牙を撃とうとするが、エイドスは縛りあげたラスクを盾にして見せつけた。
「貴様、どこまでも……!」
ジャックが攻撃することを躊躇うと、エイドスは下卑た笑みを浮かべてジャックを指差した。
「卑劣と、言いたいか?それとも………醜悪とでも言いたいか? これが戦いさ!! 力勝負では俺の負けだった、が………果たしてお前は、大切な仲間の命を守れなかった時、それを勝利と……言える、かな?」
「おのれっ!ラスクを返せぇッ!!」
「そこで吠えてろ負け犬! この小娘は解剖してからブタの餌にしてやるよ」
ジャックを怒鳴り返してから、エイドスは乾いた笑い声を上げる。
怒り狂うジャックと、恐怖と悔しさから暴れるラスク。それらにエイドスは、心の底から満足して上空へ逃れようと翼竜を羽ばたかせた。
しかし、家々の間から発射された1本の鋼鉄ボルトが、翼竜の足首の傷に突き刺さった。
ただ1つ、鱗に覆われていない傷口へ、深々と刺さったクロスボウのボルトは、派手に血が吹き出る。
翼竜が悲鳴を上げ、高度をガクリと落とした。
エイドスもこの不測の事態に狼狽し、血眼になって今の射撃の張本人を探し出す。
ドヒュンッ
またもやボルトが発射され、エイドスの首筋を掠めていった。エイドスがその方向を向く。
家々の間から、大型のクロスボウを構える血まみれのマーシュが歩み出てきた。
べったりと血に染まっているマーシュの体からはなんと、はぐれウルフの血の臭いが強く漂っていることにエイドスは気づく。狼数匹を返り討ちにしたマーシュを含めた冒険者への、エイドスの侮りがついに露見した。
「エイドスッ! のうのうと逃げるなんてそうはいくかよ!」
思いがけぬマーシュの妨害にエイドスは言葉を失った。それは驚きではなく余りの怒りよるもので、眼の周りの筋肉をヒクつかせてマーシュを睨みつけた。
「だぁああ!」
翼竜の高度が下がり、エイドスの意識がマーシュに向いたその瞬間、ジャックが跳んだ。
残り少ない魔力を刀と脚に流して、無我夢中で跳んだジャックは、翼竜の足首に突き刺さっているボルトを掴んでぶら下がった。
この光景を目にして、マーシュはジャックの名を叫ぶ。ジャックが何を狙っているのか、マーシュは分かってしまったのだ。
1人分の体重がさらに加えられたことで、また翼竜の体が沈む。エイドスは真下の水堀にジャックがいないことに気づく。
エイドスが体をぐいと傾けて翼竜の体の下を見ると、ぶら下がったジャックと目が合う。わざとニヤリと不敵な笑みを浮かべたジャックにエイドスが激昂する。
「この……クソったれがァーーーッ! そこまで死にたいのならジャック!邪魔が入らぬところで殺してやるッ!!」
エイドスは『指』で翼竜に指令を出し、ジャックがぶら下がっている状態のまま、上空へと羽ばたかせる。
「待て!エイドスッ!待ちやがれぇ〜〜ッ!」
マーシュがクロスボウで追撃しようとしたが、翼竜ワイバーンが凄まじい速度で高度を上げたので、ボルトは届かず舌打ちする。
「ちくしょう……あれほど、無茶はすんなって……ジャック………クレアになんて言えばいいんだよ……ッ」
ジャックとラスクが、エイドスとともに空へ飛んでいった。それを止めることができなかったことで、マーシュは拳を握り締める。
人間があのようにはるか空まで飛んで、生きて帰ってくることは絶望的だ。
マーシュは祈るしかなかった。
神に、というよりもジャックの天運に祈っていて、命が助かってくれることを一念に願うしかなかった。
彼はこの時、自分の無力さを骨の髄まで刻み付けていた。




