夜間攻防
はぐれウッドウルフの討伐依頼を受け、都市ロメオから西4キロほど西に位置する森へ、ジャックたちはやってきた。
木こりの家に夜な夜な訪れるというウッドウルフを待ち構えるため、マーシュが考えたのは三方向からの奇襲だった。
その奇襲ははぐれウッドウルフ数匹が、散らばって隠れた3人の中心にある、干し肉に気づいた時に開始する。その中心に入ってきた時にマーシュの一射から始まり、一匹を仕留めたところからクレアとジャックが突っ込む。
『……というわけだ。もちろん単純な作戦だが、かといって小難しいことさせると混乱するからな。2人は今の作戦で大丈夫か?』
『ええ。問題ありませぬ』
『うん、いいんじゃない?』
現時点でマーシュは矢をいつでも射れるようにして、木の陰に隠れている。家の裏手にある薪の山に屈んで隠れているのはジャックで、クレアは草むらの中に横になりつつじっと息を潜めて待っていた。
もう日は落ちている。それはすなわち、モンスターが活動的になり、しかも夜目の利きにくい人間には圧倒的に不利な状態だ。
矢も狙いにくければ敵にも見つかりやすいこの状況を、マーシュとクレアは好まなかった。現に、二人がジャックと出会う以前は、自分たちの力がいつも通りに発揮できる依頼をこなしていた。だが、今は心もとなかった『前衛』がいる。
待つことによって自然と緊張がふくれていくのか、マーシュとクレアは自分の手が知らず知らずのうちに汗ばんでいることに気づいた。
新加入のジャックとの連携ができるのだろうか?
自分がミスをして迷惑をかけないだろうか?
この時、ほのかにマイナスなイメージを作って待ってしまったのは初依頼のジャックではなく、意外にも経験者のマーシュとクレアであった。
やがて、唸り声を鳴らしながら土を踏み草をかき分ける音が聞こえてきて、3人それぞれに緊張が走った。
高位の魔術師となると人やモンスターの帯びる魔力を可視化させることができて、結果的にパーティの周辺探知として大いに貢献する。
そういった話をマーシュとクレアは聞いたことがあったが、今感じている『はぐれウッドウルフ』の獰猛な気配は、魔力が見える見えない関係なしに、周囲の3人を含める生物をゾワリとさせた。
はぐれウッドウルフはその醜悪な気配を隠しもせず山を下り、ふもとのこの森林へ出て来た。ここまでは依頼者フルクが依頼書に記してあった通りの展開で、さらに狼たちは置いておいた干し肉へ一直線に歩を進めていく。
クレアとジャックは、自分たち2人の間(約7メートル)を通り過ぎたはぐれウルフたちの後ろ姿を見ていた。このまま行けば、正面奥に陣取ったマーシュがどれか1匹の脳天を射って、それと同時に自分たちが斬りこむ手筈だ。
予想通り、ウッドウルフたちは干し肉を前にして止まった。スンスンという音が小刻みに聞こえているので、狼たちが今は肉の匂いを嗅いでいるとわかる。
正面の木陰に隠れつつ、狼たちの様子をうかがうマーシュは、匂いを積極的に嗅いでいる狼たちが、我先にと干し肉にかぶりつく瞬間をじっと待っていた。その瞬間こそ、確実に先頭の狼の脳天に命中させるチャンスなのだから。
―――その時、狼たちがそろって匂いを嗅ぐことをピタリと止めた
あまりにも不自然なその行動は、3人の、特に機会を狙っていたマーシュの鼓動を跳ね上げた。
はぐれウッドウルフの目線は、地面に置かれている肉からすでに離れていて、正面前の木立に邪悪な敵意を鋭く向けている。
どういうことだとマーシュが、木陰から顔を出して目をこらした。しかしそのせいで、夜目の利く獣型モンスターと完全に目が合ってしまった。
ウォォォオン!!
「ッッ!?ちぃッ!」
出鼻をくじかれつつも、木から体を出して一射を見舞った。先頭を走る狼の右耳あたりの肉を矢が貫いたが、狼は矢傷などまったく意に介さず、こちらに猛然と向かってきた。
単独で囲まれたら、瞬く間に八つ裂きにされると悟ったマーシュは、すぐさま走り出してその場から離れた。近接的な武器を持たないマーシュにとって、ジャックやクレアと離れた場所で狙われているのは、恐ろしいことだった。
狼のいない方向を選んで走っていると、いつの間にか見当違いの方向に向かっていたことに気づいた。小屋はおよそ30メートルほど向こうに見えていて、2人から大分離れてしまった。しくじったと思った時には、すでに四方から追い詰められている状況になった。
「臭いを振りまく干し肉より俺を優先するなんて…趣味悪いし本当にくそったれだな、おい…」
この場にいる狼は全部で4匹。
悪態をついたマーシュは、木を背にして後ろから飛びかかられないようにしているが、逃げ道をほとんど失ったことには変わりなかった。
だんだんと近づくはぐれウッドウルフたちは、マーシュがこれまで本や挿絵で見たような、聖獣という姿ではなかった。剥きだされた目は血走り、涎をばたばたと落として唸る口はどこまでも醜悪で、毛皮も泥と血で汚れているためにアンデットモンスターと間違えるほどだ。
これから自分を食い散らかそうとするこの4匹のモンスターが、およそ森林を守る聖獣とよばれるものだったとは到底思えない。
イチかバチか矢を番えようとすると、右端の1匹が顎をがぱりと開けて飛びかかってきた。
「マーシュ殿ッ!」
ジャックの声がしたとほぼ同時に、襲ってきた1匹が空中で吹き飛ぶ。
何が起こったか理解が追いつかないまま、マーシュは無我夢中で残った狼めがけて射った。
額を矢で貫かれた1体が、ギャブッという叫びをあげて倒れ、破れかぶれに突っ込んできた2匹を、マーシュはかろうじて躱す。
慌てて避けたせいでうつぶせに倒れてしまい、矢筒から矢がこぼれてそこら中に散らばってしまったが、もうジャックが追いついていた。
「つぁぁぁあらッ!」
起きあがろうとしたマーシュの頭上をぎらりとしたものが閃いたかと思うと、2匹のウッドウルフの悲鳴が今度は聞こえた。生暖かい血液がマーシュの足に降りかかる。
落ち着いてあたりを確認しようとすると、眼前にジャックのつるりとした手がさしのべられた。
マーシュはすまねえと言って手を取る。彼が辺りを見ると2匹のオオカミが真っ二つにされていて、最初に飛びかかってきたオオカミに至っては、側頭部を曲剣が貫いていた。
自分の射た矢に貫かれて絶命している死体はまだぴくぴくと痙攣していて、改めて『ただのオオカミ』とは違ったモンスター特有の生命力を思い知った。
「ふう…!ジャックが曲剣を投擲してくれたおかげで間一髪助かったってことか」
「怪我はありませぬか?」
「ああ大丈夫だ。ありがとうな。…っと、それよりクレアは?」
散らばった矢をかき集めながら何気なく聞くと、なぜか嫌な臭いが小屋のほうから漂ってきていることに、マーシュが気づいた。ジャックもカビ自体と肉自体がひどく腐ったような強烈な臭気を感じて、顔をしかめた。
小屋の方を見ても特におかしな事がないのが分かる。火事になっていたり、大量のオオカミに囲まれているということではないのは明らかだったが、夜になっているのにもかかわらず、小屋の窓からは灯りがまったく出ていないことがやはりおかしかった。
そもそものことだったが、小屋の方の草むらにはクレアが潜んでいて、マーシュとの距離はジャックと変わらなかった。だがクレアは見あたらない。
当たり前のことだが、オオカミたちが猛然とマーシュに向かって駆けだした時には、クレアもジャックと一緒に走り出していた。つまりは同じ方向に走っていた2人のうち、突然片方がいなくなってしまったことになる。
「何故だ? マーシュ殿がオオカミの頭を射た際に、よく見えていなかった俺は、クレア殿が倒したように見えたのです。じゃが、マーシュ殿が仕留めたとなると全くの間違いということになる」
「おいおい……それじゃあ、何かがあったんだ。なにかが起こってクレアがいないんだ。行くぞジャック!」
マーシュはついさっきまで命を失う寸前だったことの恐怖を、相棒の危機を感じた瞬間に忘れてしまったようだ。矢を取っていつでも射れる体勢を取りながら、彼は小屋へ走り出した。
ジャックは曲剣をオオカミから引き抜こうとしていたが、思うように頭から剣が抜けず、走り出したマーシュを見て曲剣は諦めた。オオカミ2匹を薙ぎ払った大鉈のみを持っていくことにした。
30メートルほどしか離れていなかったので、すぐに小屋に着いた。臭気はさらに濃密になり、どこから臭っているのかは皆目見当もつかなかった。
マーシュはいくら見回してもクレアがいないことが分かり、小屋の扉を叩いて木こりのフルクに呼びかけた。
「おい! 木こりの旦那ッ! あんたが悩ましてるオオカミのことを、ギルドが長い間ほったらかしたことは謝る! すまなかった……。仲間が1人いなくなっているんだ、女の方だ! 何があったか教えてくれ!」
ドアを叩く音に負けないくらい声を張り上げたが、返事は聞こえなかった。代わりに扉に近づいたおかげで、嫌な臭気がやはりこの小屋の中から漂っていると確信した。
マーシュは次に小屋の側面に回って、窓の方を見た。
灯りがついていないのは、遠くからでも確認できたことだったが、今近くで見ると窓のガラスが派手に割られていた。破片は大量に散らばり、窓はもはやガラスのないただの大きな空洞になっていた。
「なんだよこれ…おいッ! 木こりの旦那どうした? 返事しろ!」
さらに呼びかけたマーシュが窓をのぞくと、ちょうど雲から出た月の光が小屋の中を照らした。
小屋の中の家具は少なく、木箱とテーブル、そして梁と柱にくくりつけられたハンモックがあるだけだったが、マーシュの目に飛び込んできたのはそんな物ではなかった。
まず床に空けられている巨大な正方形の穴に目がいき、次に目にしたのは、奥の壁により掛かるようにして座るクレアだ。クレアの後ろには、彼女の首に腕を巻き付けている木こりのフルクがいた。
斧を扱って木を切るのが生業であるフルクの腕は、壮年の割に隆々としていて、手の中にある小さなナイフは、クレアの首筋にあてられている。
ぴくりとも動かないクレアはどうやら意識がない。
「何だ? 何をしている? …そのナイフは何だよ木こりの旦那……! 返答によっちゃあオオカミよりも優先して始末するぞッ!」
クレアを人質のように扱っているフルクに向かって、マーシュ叫びながら鏃をフルクの眉間に向けた。
クレアの背中と首の影に、半分隠れているフルクの表情は歪んでいる。その表情は嗤っているのか、引きつっているのか、恐怖なのか愉快なのかも分からない。びっしりと大量の汗が顔に張り付き、次の瞬間にはどんな恐ろしい行動も起こすような不気味さがあった。
双方、言葉を発しないまま数秒間向かい合っていたが、マーシュの後ろに立っていたジャックが、大鉈を構えつつフルクに問いを投げかけた。
「…依頼者の御仁、あなたは何故このようなことをしている? モンスター退治をしている最中に冒険者を人質にとって何になる? それと、その穴から漂う死臭も説明してもらおうか……もしも口が利けぬのならば、こちらからその穴を確認しに参るぞ」
言葉をかけてもフルクは表情を変えない。マーシュが業を煮やして叫びかけたが、その前にジャックが素早く窓下の壁を二振りで斬り飛ばし、軽く蹴り上げた。
窓の下の壁がガタリと前倒しになり、悠々とジャックは小屋の中に足を踏み入れる。
「その手を離して貰おうか。あなたのために危険を冒して戦っているのを忘れたか…?」
小屋の中を進んでいくジャックの行動は一見、クレアの命を危険に晒す行為だが、ジャック自身はクレアを殺させない絶対の自信があった。
クレアを人質に取った理由が分からないが、依頼者フルクの状態を見るに、目の焦点と手先がぶれておぼついておらず、体勢から考えると、首を切ろうにも力が充分に入らないはずだ。第一、クレアも冒険者なので黒革鎧を装備している。首と言わず心臓を突き刺そうとしても時間がかかる。
『晒されておる頸動脈を狙えばあるいは死に至らしめるかもしれんが、そんな所を狙う時間があれば、先にこちらが突き殺す』
進み出るジャックは穴を横目に見て、通り過ぎようとした。マーシュも矢を引き絞りつつ後に続こうとしたが、不意に穴の中から、巨大な黒いモノが飛び出してきた。
「ぬぅッ?!」
ジャックの身体が黒いそれに衝突して、左方向に吹き飛び、小屋の扉を突き破って地面に転がった。ジャックは立ち上がらなかった。
代わりに、マーシュの目の前には、飛び出してきたそいつが立ちはだかった。
現れたそいつは人間で、マーシュよりも一回り大きな体格をしていた。
服装は黒を基調とし、場違いに鮮やかな外套の紫が嫌に毒々しくマーシュの目に映った。肩まで伸びる茶色と灰色を混ざった髪をかき上げて、目の当たりにした顔は、髭のない、見た目麗しい若い男だった。
マーシュの方へゆっくりと向き直った男は、薄らかな笑みを浮かべて立ちはだかる。口の端を歪ませ、異常に長く鋭く尖る歯がその存在を主張する。
男は目を細めたかと思うと、ついと長い指先をマーシュに向けてきた。
「『お前は誰だ?何が目的なんだ?』…って言いたい顔してるよな。…別に? ただの犯罪者でもなければモンスターでもないよ……そう、もっと言えば、たった一人の子供に全滅するようなヤワい山賊でもなければ、路地裏で返り討ちにあうような三流冒険者でもない、な」
この男はジャックのやってきたことを、知っている?
危険を理解したマーシュは、矢を向けて牽制するよりも、一刻も早くこの男を仕留めることを選び、腕が届くような至近距離から躊躇なく矢を放った。
ギャバキィッッ!
小屋の外まで飛び退がってからマーシュは男を見た。矢は口に咥えられていて、そのまま男は鉄製の鏃を噛み砕いた。
「ふぅん…驚いた。矢を引き絞ったままでいたのは、ただの脅しかと俺は思っていたんだがな。見当が外れたよ。いきなり目玉を貫こうとしたお前の判断には、そう…ちょっとだけだが!……驚いたぞ」
歯を見せて愉快そうに笑う男は、徐々にマーシュへ近づいてくる。
冷静さを保ちながら、低い声でマーシュが問いかけた。
「何が目的なんだよ…てめえ…」
「さてね。俺がどんな身分の者で、何が目的なのかまでは教えるつもりはさらさらないし、逃がす気もない。ここで全員死んでもらう…けどまあ…うん…少しは死に土産にいいモノを見せてやるか」
マントを翻してそう言った男は、右袖をまくって腕をさらけ出した。特に変わったことはなく、色の白い華奢な右腕が晒された。
歩みは止めない男だったが、今はマーシュを全力で逃がさないという切迫した表情ではない。
男が足を止めた。
マーシュもつられるように後ずさる足を止めたが、フーッと男が息を吐いた次の瞬間、右腕だけがだんだんと膨れあがって体毛を帯び始めると、本能的に跳び下がった。男の腕は最終的に、丸太と変わらない太さになり、艶やか黒灰色の獣毛が丸々と腕中を覆った。
「お前はもしや獣人族なのか…?」
知らずにマーシュは口が開いて質問していた。
「ああそうさ。人間なぞとは違った気高いオオカミ種族であり、さらにはこれから大業を成し遂げる身だ!」
そう言って男は変容したポンと叩くと、またゆっくりと歩き出した。
マーシュは背筋に汗を感じつつも冷静さはあった。つまりは、まだ彼自身の本能が完全に戦意喪失しているわけではなく、手は震えつつも新しい矢を探っている。だが、近づく男の瞳をじっと見ていると、一瞬先には殴り殺されているような気がした。
男――――もといオオカミ男のずっと後方には、人質に取られているクレアがいる。木こりのフルクがどういう理由で、このオオカミ男と結託していたのかは想像つかないが、現在正気を保っていないフルクが、クレアに危害を加えない保証はない。
「…ぐッ……このぉーーッ!」
クレアを殺させる訳にはいかなかった。歯が圧し潰れるぐらい噛みしめて覚悟を決めると、ぎりぎりで手の震えが止まった。
矢筒から矢を抜いて引き絞ったマーシュは、一度男の顔にねらいを定めてから、すぐさま標準を変えてフルクめがけて射た。
「んん?!」
さしものオオカミ男も反応が遅れたようで、男の脇腹を矢がすり抜けて通過した。その瞬間にマーシュは命中を確信した。寸分違わずフルクの左肩を射抜く。そう思っていた。
――――パァンッ
弾けた音が響く。
見ると矢が男のすぐ後ろに転がっていた。意味が分からず目を剥いたが、すぐに分かった。
オオカミ男にはいつの間にか長大な尻尾が生えていて、さも見せびらかすようにうねっている。男はクツクツと嗤うとその尻尾で器用に落ちた矢を絡め取って、マーシュの足下に投げ返した。
マーシュが返された矢を拾うと、矢が真ん中から折られていた。
「また驚いた…あれほど遠くの人間を狙うとは、相当に自分の腕への自信がないとできないことだからな。まあ、ほんのちょっとヒヤッとしたが、はたき落とすのは造作もないことだったよ………さて、そろそろトドメを刺させてもらおうか」
オオカミ男がさらに左袖もまくろうとした時、マーシュは弓を投げ捨てて『前へ』駆けだした。
あまりの暴挙にさすがのオオカミ男も目を点にしたのだが、マーシュが全力で殴りかかっても、難なく押さえつけて膝立ちに組み敷いた。振り払おうとするマーシュの両肩を、男の両手がぎしりと押さえつける。鋭い爪が食い込んでくることで、マーシュの両肩からは血がにじみ出した。
「くくっく…くく………くははははは! 実にいい判断力だ!これこそ根性というものじゃないか? この両腕と尻尾を見て、そして俺の身体能力を見てッ、ろくに武器も持たずに突っ込んでくるなんて、さすがに『俺には』考えつかないよ。だがしかし、お似合いだ。非力で下等な人間らしい無謀な行いだッ!!」
月夜の森の中、オオカミと人間を混ぜ合わせた咆吼が響く。オオカミ男は高々と笑い吼え、大きく腕を振り上げる。
突然現れた強敵によって絶対の危機に追い込まれた。しかしながら、マーシュはそれでも笑っていた。
「もご…くく…ブゥッ!」
―――――マーシュは組み敷かれて血を流しながらも、その実したたかに足掻くことを考えていた。
さっさ殺せばいいものを、自分の身体能力をいちいちひけらかすという詰めの甘さに、オオカミ男のあまりの油断に、うんざりしていた彼は表情はそのままで、自分のほお肉や歯肉を噛みちぎって血を口の中にため込んでいた。
マーシュが噴きかけた血を、まともに目に受けたオオカミ男は一瞬ひるんで押さえつけの力を緩めた。
「ははッ、大当たりだ…そりやぁッ!」
右腕が振りほどけて自由になったとほぼ同時に、マーシュはオオカミ男の急所を思い切り蹴り上げた。
雄の人体にとって、最大の急所を蹴りつぶされた男の顔は苦悶に変容し、声にもならない叫びを上げた。獣人であろうともこの攻撃の効果は絶大だったようで、マーシュは左腕も振りほどいて自由になった。足の間をくぐり抜けることも不可能ではないだろう。
「ぐう!?」
「ケッ…マウントポジションならこうはならなかったろうぜッ!! よっと…そして『こいつ』はさっきのお返しだァ!」
左腕を伸ばしてそれを拾ってから体を前へ滑らせる。オオカミ男の股をくぐって逃れようとしたマーシュは、今拾った折れた矢をそのまま股に突き刺した。
「ぐぁあああ!」
抜け出すついでに鏃を喰らわせると、男はうずくまって動かなくなった。無様な格好で血を流して死ぬ姿を見て、マーシュは呟きながら立ち上がった。
「俺も気をつけるよ。『気高い』死に方ができるようによ~く気をつけるよ。あんたと違ってな」
マーシュはクレアを助けるために小屋の方向へ、再び弓を引き絞った。狙うはクレアの後ろに座るフルクの左肩。間違ってもクレアに当たらないように、とマーシュは目をこらすと、すでにクレアの姿はなく、フルクは左肩にナイフを突き刺されて、壁に張りつけられていた。
『は? なんでいない……?!』
マーシュが戸惑いながら小屋へ近づくと、中からはクレアとジャックが出てきた。ジャックはクレアの肩を借りながら脇腹を押さえて歩いている。ジャックが押さえている脇腹は、吹き飛ばされた時にやられた箇所で、息苦しいところを見るに、軽い負傷ではないと一目で分かる。
「やれやれね。さすがにジャックでも死んだかと思ったわよ」
「ぐ…不覚」
「大丈夫なの?ジャック」
「ええ、触れてみたところ完全に折れていません。じゃが、ヒビくらいは入ってるやもしれませぬな」
「それでも剣で防いだんでしょ? マーシュが先に入らなくて良かったわね」
「おい待ておいおいおい……おいおい、ジャックもそうだが…待てよクレア、お前はなんだ?」
「え?」
「いや……どうしてフルクから逃げられたんだよ! 気を失っていたんじゃなかったのか?!」
「最初から意識はあったわよ? いい? まず、あの男が森から出てきて私は腹を殴られて意識を失いかけたわ。その時すでにマーシュを助けようと、ジャックが向こうまで走っていた。
動けなくなった私を肩に担いだ男は、窓から乱暴に入って、フルクにこう言っていたのよ。『まずは一人目。手はず通りにな。とりあえずこのナイフを持ってこの女を押さえていろ』って。男が床板を開けた時には驚いたし、そこから漂う死臭にも鼻が曲がりそうだったわ」
「それからは…どうしたんだよ」
「私はあの派手な男には敵わなそうだと判断したから、気絶したフリをして、適切な状況で木こりをふりほどこうと待っていたんだけど……さすがにジャックが蹴り飛ばされたときはダメかと思ったわ」
「はあ~~……いらねえ心配かけやがって」
「まあまあ、私があんな木こりにやられるようなタマじゃないとは分かってたでしょ? 殺されたわけじゃないんだから良いじゃないの―――――さて」
一同がフルクの方を一斉に見る。肩に刺さっているナイフを引き抜こうとしてもがく、木こりの中年男は、3人の冒険者の視線を受けてさらに恐怖した。
「随分と苦労しているわね。そんなに取りたいなら手伝ってあげるわよ?」
クレアの声色は冷ややかだった。
歩み寄ってその場にしゃがんだクレアは無造作にぶつりと引き抜いた。
勢いよく引き抜かれた痛みで女のような悲鳴を上げたフルクは、肩を押さえてうずくまった。
フルクが悲鳴をひとしきり上げて落ち着くのを待つ3人は、その間に穴の中を見た。
穴は広さ2m50cm平方で深さは大体3メートルはありそうだったが、中に詰め込まれていたものを見て三者一様に顔をしかめた。
暗いせいで全てまでは確認できないのだが、詰め込まれて折り重なったものは、人間とモンスターの死体だった。穴の本当の深さは、死体を取り払ってみないとどれほどかはわからない。
「マジかよ…とんでもねえな」
「木こりの御仁。これほどの死体を隠しておきながら俺たちを謀ろうとは、まさに狸親爺だな」
「ほんと、とんでもない依頼人ね。死体の状態を見るに、古いものだと2週間はとっくに経ってるものもあるわ。女や子供の死体がないのは何か理由があるのかしら?」
クレアがそう質問をしたが、フルクはなおもひいひいと声を上げてうずくまるばかりで、業を煮やしたクレアが髪をひっつかんで顔を上げさせた。
「ねえ、いつまでそんな傷で痛い痛いと喚けば気が済むの? 私たちは元々『ウッドウルフ退治に来た』のであって、あなたに人質に取られたり、獣人族の男に引っかき回されたりしに来たわけじゃないのよ。ほら、そうなった経緯を一から十まで説明しなさいよ」
しゃがみこんでフルクに尋問するクレアを見て、ジャックとマーシュは、これからは彼女を怒らせることは極力避けておこう。互いに目線でそう示し合わせていた。




