最終章 毒杯
申立書を提出する場所は、慎重に選んだ。
権藤本人にではない。
大学病院の運営を監督する、外部理事会に対してだった。
表向きの文書名は「医療及び教育過程における評価公正性に関する再調査要請」。
成瀬は、それを美咲の名前ではなく、統計的な異常値の指摘として組み立てた。
桐生薬品の癒着疑惑によって既に医局への信頼が揺らいでいる今この瞬間を狙って、提出した。
理事会は、権藤に「自浄作用を示すため」の再調査委員会設置を求めた。
権藤は――他に選択肢がなかった。
自らの手で、再調査委員会の設置を承認する書類に、判を押した。
「もちろんです」
権藤は理事たちに向けて言った。
「私は常に、医局の透明性を第一に考えてきました」
再調査委員会が対象とする案件のリストが回覧されてきたのは、その三日後だった。
権藤はそれに目を通しながら、事務的に一つずつ承認の印を押していった。
リストの中ほど、七番目の案件。
「附属医療専門学校・評価不正処分(八年前・当該学生:自死)」
権藤の手が、そこで止まった。時間にすれば、わずか二秒か三秒だったろう。だが権藤の顔から、初めて完全に、あの仮面が剥がれ落ちるのを、成瀬は確かに見た。
「……成瀬先生」権藤の声は、初めて掠れていた。「これは、君が」
成瀬は何も答えなかった。ただ、まっすぐに権藤を見返した。
「もう遅い」
成瀬は静かに言った。
「あなたはすでに、承認の書類に判を押した」
「私は……私はただ、学校の評判を――」
「守るために、彼女を切り捨てた」
成瀬は言葉を継いだ。
「それだけの理由で、彼女の人生を、まるで書類の誤字のように、訂正した」
その日から一ヶ月後、権藤は理事会での再調査の結果を受け、辞任を表明した。表向きの理由は「健康上の都合」だったが、地方紙はすでに、製薬会社との癒着と、八年前の不正処分の隠蔽疑惑を並べて報じていた。
権藤の「聖者」としての虚像は、完全に崩れ去った。だが誰も、その崩壊が一人の外来医によって、静かに、しかし確実に仕組まれたものだとは気づかなかった。
権藤が病院を去る日、成瀬は診察室の窓から、彼が車に乗り込むのを見ていた。
「先生」
美咲の声がした。今日は、いつもより静かだった。「先生は、救われた?」
成瀬は答えられなかった。
窓の外、権藤を乗せた車が、病院の門を出ていく。それを見届けても、胸の中には何も満たされるものがなかった。復讐は、何かを取り戻すものではない。ただ、失われたものの輪郭を、より鮮明にするだけだった。
「先生」
美咲の声は、それきり聞こえなくなった。
成瀬は白衣の袖をめくり、次の患者のカルテを開いた。診察室には、いつもと変わらず、消毒液の匂いが漂っていた。
窓の外では、何事もなかったかのように、病院の日常が続いていく。
――了




