第433話:百五十年目の朝
レグナス王都の朝は、百五十年前よりも早く始まる。
中央広場の鐘が鳴る前から、荷車は石畳を進み、パン屋の煙突から白い煙が上がっていた。街路樹の根元では清掃人が落ち葉を集め、役所の若い職員が水路の蓋を一枚ずつ確かめている。
誰も急いではいない。
だが、誰も止まってもいなかった。
中央歴史編纂室の新人書記官リオは、地下書庫で古い箱を抱えていた。整理札には、百五十年前の王都東区とだけ記されている。
中に入っていたのは、英雄の勲章でも、戦争の記録でもなかった。
雨で崩れた路肩の位置。
冬に不足した薪の量。
夜勤の門兵が温かい食事を取れなかった日。
荷役人が腰を痛めた倉庫の段差。
細かな文字が、何冊もの手帳を埋めている。
「こんなものまで残したのか」
リオが呟くと、先輩書記官が箱を覗いた。
「誰の記録だ?」
表紙の裏側に、薄く名前が残っていた。
カイン。
それだけだった。
窓の外では、朝の配給馬車が決められた場所へ止まり、荷役人たちが無理のない間隔で袋を運び始めている。その足元の段差は低く、雨水は脇の溝へ静かに流れていた。
リオは古い手帳と窓の外を見比べる。
百五十年前の小さな不便が、今の王都には一つも残っていない。
「この人は、何を見ていたんだろう」
問いに答える者はいなかった。
ただ王都は、いつもの朝を滞りなく迎えていた。
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