第82話 迷走するドラゴン捕獲部隊
こう毎日が平和だと、少し物足りないものがあるな。
いや。
いかんいかん。
平和が何より素晴らしいじゃないか。
この平和がずっと続けばいいな。
勇者・前川を召喚したチャングム王国は、海に囲まれた豊かな海洋国家である。
四方から船が行き交い、港には常に活気が満ちている。
商人たちは声を張り上げ、異国の品々が並び、海風に混じって香辛料の匂いが漂う。
この国は、交易と海運によって繁栄してきた。
そして、この国を治めるチャングム王は、慎重で現実主義者だった。
領土的な野心がまったく無いわけではないが、国民性もあって、無駄な戦争を嫌う。
「勝てる保証がないなら、やらない」
それが王の信条であり、国の方針でもあった。
――あの日までは。
ある日、王の謁見の間に、一人の男が現れた。
青白い肌、真っ赤なオールバック、黒い丸メガネ、黒のスーツ。
その姿は、異様なほど整っていて、まるで人間の形をした別の何かのようだった。
「私の名前は、ギナ」
男は静かに名乗り、王の前に進み出る。
その声は、低く、妙に耳に残る響きを持っていた。
「王よ。ドラゴンという強大な力を、手に入れたいか?」
その言葉を聞いた瞬間、王の背筋に冷たいものが走った。
だが同時に、胸の奥に奇妙な高揚が湧き上がる。
まるで、心の奥底に“欲望”を直接触れられたような感覚。
「……ハイ」
気づけば、王は答えていた。
ギナの赤い瞳を見つめたまま、思考がゆっくりと鈍っていく。
視界の端がぼやけ、世界が遠ざかる。
「フフフ……このギナの言う事を聞けば、お前を、この世界の王にしてやろう」
その声は甘く、耳に絡みつく。
王は目をそらせなかった。
いや、そらすという選択肢が、頭から消えていた。
こうして王は、ギナを側近として迎え入れた。
そして、王の耳に届くのはギナの言葉だけとなり、国の方針すら彼の一声で決まるようになった。
「兵器となりうる、強いドラゴンを捕獲してくるのだ!」
王の命令により、軍の精鋭と魔道科学者たちが編成される。
その先頭に立つのは、チャングム王国の誇る将軍――アガス。
大柄で、赤い目をした男。
かつては豪胆で部下思いの将軍として知られていた。
だが今、その瞳には、どこか濁った光が宿っていた。
出発前――
アガスは、重い足取りで城の廊下を歩いていた。
王からの命令は絶対だ。
だが、どうしてドラゴンを捕獲する必要があるのか。
なぜ、他国と争うような真似を急に始めたのか。
理由は分かっている。
分かっているのに、どうすることもできない。
――あの男が来てから、王は変わった。
廊下の空気は重く、兵士たちの視線もどこか怯えている。
ギナが王の側に立つようになってから、宮廷の空気は明らかに変わった。
誰もが口を閉ざし、目を合わせることすら避けるようになった。
アガスが廊下の角を曲がると、そこに『理由』が立っていた。
「……ギナ」
薄ら笑いを浮かべ、アガスを待ち構えていたかのように立っているギナ。
その笑みは、まるでアガスの心の奥を覗き込んでいるようだった。
「アガス、私の眼をみろ……」
ギナがメガネを外した瞬間、アガスの心臓が跳ねた。
見てはいけない。
体が反応したアガスが剣を抜いた。
明確に敵だと直感が叫ぶ。
――だが、もう遅かった。
赤い瞳が視界を満たし、アガスの思考が一気に濁っていく。
足元がふらつき、世界が遠ざかる。
耳鳴りがし、呼吸が浅くなる。
カラン……
アガスの手から剣が零れ落ちる。
何も考えられない。
何も思い出せない。
ただ、ギナの声だけが、頭の奥で響いていた。
――従え。
その一言を最後に、アガスの意識は闇に沈んだ。
そして現在――
アガスに率いられた一行は、ドラゴンの里を目指して森を進んでいた。
アガスの足取りは重く、時折「あー……うー……」と意味のない声を漏らす。
かつての威厳は消え失せ、ただギナの命令だけを反芻する操り人形のようだった。
兵士たちは不安を隠せない。
だが、誰も口には出さない。
王の命令であり、アガス将軍の指揮なのだ。
魔道科学者たちは、ギナから渡された『何か』を大事そうに抱えている。
それが何なのか、兵士たちは知らない。
ただ、見ているだけで背筋が寒くなる。
森の奥へ進むほど、空気は重く、湿り気を帯びていく。
鳥の声も消え、風の音すら遠のいていく。
ただ――
彼らはまだ知らなかった。
この行軍が、地獄の始まりであることを。
今日も平和な一日が過ぎた。
平和な俺たちと違って広がる森をさまよう人間がいたりして。
無いか。
この広大な森に足を踏み入れるなんて頭がおかしいとしか思えんから、そんな奴はいないな。




