コミック1巻発売記念SS 番外編『クロのマリス出勤阻止チャレンジ』
マリスに拾われて世話され、すっかり懐いた頃。正体発覚前のこと。
「ただいま、クロちゃん。よく眠れた?」
柔らかい声、優しい微笑み。
ふわりと頭を撫でる小さな手には、ただあたたかな慈しみだけがある。
マリスの気配で微睡みから覚めたゼレクは、ゆっくりと頭を撫でられるのにまたトロトロとした眠気が戻ってくるのを感じて、彼女の手が離れると寝台の上にごろりと寝転がった。
「少し待っててね。すぐに夕食の支度をするから」
そう言ってくるくると小動物のように動き回るマリスを眺めていると、部屋が息を吹き返したように暖かくなってくるように感じる。
マリスがいない間も、暖炉石によって部屋は居心地よく温められているはずなのに、今の方がいいと、理由も分からないままゼレクは思った。
***
朝、腕の中からするりとマリスが抜け出し、ゼレクはぼんやりと意識が浮上するのを感じる。
しかし体を動かせるほどには起きられず、ただマリスが抜け出たところがぽっかりと空いて、寒い。
部屋も毛布に包まった体も暖かいはずなのに。
カタン、コトッ、と静かに動き回るマリスが時折立てる小さな音。
以前のゼレクなら、近くに人がいるだけでこんなふうに力を抜いてうとうと微睡むことなどできなかった。
それなのに、マリスの立てるその小さな音だけは心地好く、ゼレクをより深い眠りへと誘う。
だから今日も、ゼレクは朝食の時間に起きられない。
「いってきます、クロちゃん。……今日もゆっくり休んでね」
朝食をとって支度を済ませたマリスが、出勤前に寝台で眠ったままのゼレクの様子を見に来る。
ぐっすり眠っている様子を見て嬉しそうに微笑み、そうっと髪を撫でてから、静かに部屋を出ていく。
体は眠りに沈んだまま、意識だけがふと、嫌だ、と主張した。
なんで行くんだ、どこへ行ってしまうんだ、と思った。
マリスはゼレクの世話をするのが楽しそうだし、ゼレクもマリスと一緒にいるのが気に入っている。
それならマリスもずっとここにいればいいのに、彼女は朝になると出かけてしまう。
嫌だ、と思いながらも体は動かず、ゼレクはまた眠りに沈んだ。
***
そうだ、マリスが出かけようとしたらそれを止めればいい。
目が覚めたゼレクは唐突にそう思いついた。
マリスが出かけるのが嫌なら、自分が止めればいいのだ、とようやく気付いたのだ。
これまでゼレクの方から他人に干渉することがほぼ皆無だったため、それを思いつくのに時間がかかったが、気付いてしまえばあとは実行するだけだ。
しかし、それを実行するのは思った以上に難しかった。
原因ははっきりと分かっている。
朝、起きられないのだ。
マリスの部屋は居心地がよく、あたたかくて小柄な彼女を腕に抱いて眠るとかつてないほどの安らぎの中でぐっすりと熟睡してしまう。
これまでほとんど熟睡することのなかったゼレクにとって、その深い眠りから覚めることは難しい。
そうして思いついた翌日。
ゼレクはいつも通りぽやぽやと半分寝ている状態でマリスに頭を撫でられ、「いってきます」という声を聞きながら二度寝した。
次こそは、と思った二日目。
ゼレクはまたしても半分寝ている状態でマリスに頭を撫でられ、「いってきます」という声を聞きながらかすかに手を伸ばそうとしたところで寝落ちした。
今度こそ、と挑んだ三日目。
ゼレクはどうにかマリスが目を覚まして彼の腕から抜け出そうとしているのに気付けたが、「ごめんね、起こしちゃった? まだ寝てていいよ」と優しく言われて頭を撫でられ、あっさり寝落ちした。
違う、そうじゃない、と思いながら四日目。
ゼレクはようやくマリスが目を覚ますタイミングを掴めるようになったが、完全には起きられず、結局ぼんやりした意識で毛布の中を指で探るだけで終わり、気付いた時にはもうマリスの姿はなかった。
「いない……」
小さな部屋なのに、マリスがいないとがらんとして広く感じられる。
今までできないことはあっても、何度かやれば簡単に習得できたゼレクは、珍しい失敗続きの試みに拗ねていた。
なんでできないんだ。
マリスを引き止める、ただそれだけなのに。
彼女が見たら「可愛い!」と言いそうなむっすりと拗ねた顔をして、今日も今日とて寝台で毛布に包まってふて寝する。
それでもゼレクは諦めない。
自分には本物の犬ではできないことをやれる手がある。
明日は必ず、マリスを引き止められるだろう。
***
「ん? あれ……?」
ある日の朝、寝台から出ようとしたマリスは、寝間着が何かに引っかかっていることに気付いて振り向いた。
見れば、クロの前脚に絡んでいるようだ。
「寝てる間に爪に引っかかっちゃったのかな? ……うーん、外れない。あんまり引っ張ったりして動かすと、クロちゃん起きちゃうよねぇ」
ケガをして療養中の愛犬である。
できればゆっくり眠っていてほしいマリスは、少し考えてから、よし、と決めた。
できるだけクロの前脚を動かさないように注意して、するりと寝間着を脱ぐ。
そして彼が起きた時に邪魔にならないよう、そっと寝台の端の方に置いておく。
後は自分が服を着て、いつも通りに朝の支度にかかればいいだけだ。
「おはよう、クロちゃん」
マリスはぐっすりと眠っている黒い犬に微笑んで、寝台から離れた。
「いない……」
しばらく後、ようやく起きたゼレクが昨夜からしっかりと握りしめていた寝間着を手に、しょんぼりとうなだれたのをマリスは知らない。
彼のマリス出勤阻止チャレンジは、今日も連敗中である。
コミック1巻発売記念の番外編SS、ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
皆様のおかげで、FLOS COMIC様より『犬を拾った、はずだった。 わけありな二人の初恋事情』のコミック1巻、2025年4月17日発売となりました。
マンガ化してくださったのはおおね先生です。
原作を大事にしてマンガ化していただきましたが、おおね先生ならではの可愛らしくコミカルな演出も入り、素敵な作品にしていただけました。
ありがとうございます。
今回はコミックの時間軸から、まだ正体が発覚していない頃のエピソードを書かせていただきました。
こちらでの掲載時から読んでいただいていた方にも、マンガを読んで知ってこちらに来ていただいた方にも、お楽しみいただけましたら幸いです。