第七十三話
――恐怖とは、何だ。
それは防御的、生存的な本能的感情。
安全への退避の動機を起こす感情。
じゃあこの恐怖は、自分が大切だから感じているのか?
逃げる為に?アーニャやエランティスを置いて?大切なものの足枷となりながら?
……あぁ、だとしたら、だとしたらこんなもの――
「要らないよ、こんな恐怖」
呟きと共に魔法を発動させ、それを“拒絶”する。その瞬間、身体の芯からゴソリと何かがそぎ落とされる間隔が走り、想像以上の不快感に吐き気と悪寒に苛まれて、思わずえずく。
拒絶したのは恐怖という感情。“誰我接触不叶”は、拒絶の魔法。ありとあらゆるものを拒む魔法。それは例え物質でなくても、この心に触れる感情すらも拒絶することが出来る――
「けれど、拒んだものは還らない。失くしたものは戻らない」
……これほど怒った表情のティアナちゃんを見るのは初めてだった。先ほどのプレッシャーとは比べ物にならない圧力と、涙目で激怒している姿は、一切の言い訳を許容していない事がわかる。
「そして心とは、何か一つを失くして成立するものじゃない。わかってるんですか?」
“心”というものは、いくつもの感情が集まって形成されるものだ。その感情の強弱は誰でもあるが、それが0になる事は有り得ない。
恐怖心を拒絶した――それは、ただ恐怖を感じなくなった、無謀になったという単純な事ではない。恐怖を失えばやがて危機感は鈍り、鈍った危機感はまた別の感情を鈍らせ、連鎖的に心を蝕み、壊す。
「……覚悟の上、だよ」
「……そうですか。ならちょっとお説教です。えぇ、時間はたっぷりありますものねぇ?」
僕の返答は余計に彼女の怒りのボルテージを上げたのか、頬をヒクヒクと震わせ、全身を怒りに震えさせながら、深呼吸の様に息を吐き出す。亜麻色の長髪が揺らめいていて、まるで怒りがオーラになっているようにも見える。恐怖を拒絶するのは上手くいったようで、全くそれに対して恐怖は感じない、けど、他の感情が総動員して今の危機的状況に警鐘をならしている。
「正座」
「はい……」
いつものソプラノボイスからは想像つかない程低く、短く、そして鋭い指示に、僕はおずおずと大人しく従うしかなかった。
……説教は、体感だけど数時間じゃすまなかったと思う。
「まぁそういう訳で、僕は戦えるよ」
恐怖心を“拒絶”したと聞いた反応は三者三様だけど、その感想はどうやら皆同じの様だ。
アーニャは涙をその綺麗な碧眼からこぼしながら、罪悪感を刺激する悲しげな表情で僕を抱きしめる。
「どう、してっ……どうして、そんな馬鹿な事……!」
「……自分で決めた事だよ。僕は、アーニャを護る。愛緋ちゃんを止める」
「だからって……!……ごめん、なさい。ごめんなさい……」
「アーニャが謝る事じゃないって」
僕は彼女を抱きしめ返しながら、背中をやさしく撫でて慰める。
ありがとう、僕の為に泣いてくれて。気負いやすくて、泣き虫で、落ち込みやすくて。だけど、それは誰よりも優しいからだって僕は知っているから。
「……説教は後だ。覚悟しておけ」
「ハハ、お手柔らかに……」
アーニャの抱擁から解放された僕に、エランティスからは短く一言だけ。
ティアナちゃんの説教はある意味で女の子らしい感情の籠った説教だったけれど、エランティスの場合はきっと理論的に反論の余地のない、追い詰めるような説教だろう。今からその説教は気が重い。だけど、それは本当に僕を想っての事で、甘んじて受けなければならないんだろう。
「……私からも、一言、だけ。……バカ」
「手厳しい。一応敵だよ、僕」
「そう、だね。私には、言う資格無かったけど」
「でも、ありがと」
「…………」
以外にも、向かい合った愛緋ちゃんからも一言。
彼女らしい、端的でみもふたもない評価だ。だけど、やはりその声には僕を心配してくれている事を感じれて、敵だと簡単に切り捨てれそうもない。
「さて、こちらとしても誤算だが……戦況が逆転したな」
そんな僕の考えを遮る様に、エランティスが身体に魔力を迸らせ、愛緋ちゃんを威嚇する。
「2対1だが、よもや卑怯などとは言わぬな“界渡りの”」
前回2対1で惨敗している僕にとってはあんまり余裕で居れる程の自信は無いけれど、エランティスはやる気満々だ。相手の力量を図るという事が全く分からないから、その辺りはエランティスに頼るしかない。
「……私相手に、数の利を、問うの?」
「問うさ。生憎と我の魔術は殲滅に特化していてな。有象無象は無為と知れ」
「…………」
愛緋ちゃんは無言で門を開き、そこからまた魔獣がワラワラと湧いてくる。
「……まさかぶっつけ本番でエランティスと組んで戦うことになるとはなぁ」
「法を緩めるなよ。巻き込まれれば死ぬぞ」
「……りょーかい」
死ぬ気で維持します。
……そういえばエランティスが本気で戦ってるのを見た事が無いな。
「では宣言通り、有象無象を間引くぞ」
そしてエランティスの咆哮と共に竜巻が現れ、戦いの火ぶたが再び降ろされた。
「ってすごっ?!」
エランティスが放った数個の竜巻の魔術――初めて見た瞬間はただ風を操って竜巻を出す魔術だと思っていたけれど、この竜巻、普通のものじゃない。この風は、あらゆるものを“風化”させるんだ。風化させ、脆くし、削れ、崩れ、分解し…… 壊す。
巻き込まれた魔獣達はまるで脆い砂の彫像の様に崩れ、塵となっている。しかも竜巻はうねりながらそれぞれが意思を持つかのように動き、魔獣を追い詰めている。まるで草食動物を追い詰める肉食獣みたい……
「この魔術……あなた“嵐壊の魔獣”?」
「ハッ、その名はとうに捨てたわ!」
「そんなのが何故、契約魔獣に……それに、その姿は……」
“嵐壊の”それはエランティスがティアナちゃんの契約魔獣、“拒絶の魔獣”と名乗るまでの二つ名。こっそりとアーニャに教えてもらったことがある。この名を呼ばれるのをものすごく怒るから絶対に言わない様に、って。
愛緋ちゃんの呟きに、エランティスはそう言い捨てながら嵐の勢いを更に激しくする。愛緋ちゃんはその嵐を転移をしながら躱していき……
「――!?」
「よそ見は良くないよ?」
竜巻に意識を向けている愛緋ちゃんに向かって、弾かれるように距離を詰めた僕の拳を受け、大きく吹き飛ばされる。って言ってもしっかりガードされたから、そんなにダメージは無いかな。
「馬鹿者。不意を突くなら喋るな馬鹿者」
「馬鹿って二回も言った?!いや、今喋る前から気付いてたからノーカンでしょ!」
取り巻きの魔獣達をすべて壊し終えたのか、エランティスが嵐を一旦収めながらダメ出しをする。辛辣だけどなんだか懐かしい。
「……エランティス。愛緋ちゃんの逃げ道を塞ぐように竜巻操って」
「どうする気だ」
「がんばって足を止めるから……僕ごとまきこめ」
「ッハ!ならば死ぬ気で耐えろよ!」
エランティスが一段と気合を入れて、先ほどの倍の竜巻を呼び出し、勢いよく愛緋ちゃんに向けて放つ。
うん、まぁ、耐える自信はあるけど、あんまり気合を入れられるのも困る。恐怖心が無くて助かった。
「……絶音・天泣」
まぁ泣き言を言っていても仕方ない。僕は術式が発動するギリギリの声量で、何とも皮肉な術式名を唱える。天泣。いわゆる天気雨や狐の嫁入りの事だ。霞を小さく、細かく、黒い小雨の様に圧縮した魔法を生み出す。それを身体の周囲に浮かべながら――斥力を以て愛緋ちゃんに向かって飛びかかる。
「……ユウ、さん」
「……愛緋ちゃん」
交差する一瞬視線が交わり、名を呼ばれた気がして。
「っでやぁぁ!!」
それを振り切るように、拳を叩き付け、それを銀色の巨大な鍵が受け止める。
あの日、愛緋ちゃんと闘った時の焼き回しの様な展開。未熟な僕ではその力量差が図れなかったけれど、アーニャの検分では分の悪かった戦い。
「……?!」
愛緋ちゃんの視認しづらい表情に、明らかに驚愕の感情が混じる。彼女の感覚では数か月程度の時間、その期間だけで僕の動きが変わったことに。訓練中はティアナちゃんとの練度の差が絶望的過ぎて、いまいち実感が薄かったけれど、どうやらちゃんと成長はしていたようだ。
「こんな、短期間で、どうやって」
悪いけど、驚いている内に追い詰めさせてもらう。いくら戦いが苦手と言え“千年級”。数十年の詰め込みで覆せるほどの積み重ねではない事は重々承知だからこそ。
僕の攻撃を捌きながらも“門”から様々なものを召喚して反撃を欠かさない愛緋ちゃん。だけど、エランティスの的確な魔術の操作により、明らかに動きと表情に焦りが生まれ始める。
「このッ、いいか、げんに……」
愛緋ちゃんが眼前に召喚した魔力弾に思わず僕は顔を護り、攻撃の手が緩む。その隙をつき、銀の鍵を振りかぶる愛緋ちゃんが視界の端に映る。“開錠”の術式を込められた魔法の鍵は、全力で防御しなければ致命となる一撃。
賭けるべきはこのタイミングだ。“恐怖”があったままならきっと恐ろしくて試みる事ができなかったであろう手に。
(振りぬかないでくれよ、愛緋ちゃん――)
全力で防御すべき攻撃。だからこそ僕は、魔法をギリギリまで緩める。
意図的に突然斥力を弱めた僕に、愛緋ちゃんが鍵を振りぬく力を、躊躇と共に一瞬だけ弱める。もし予想に反して彼女が躊躇なく振り抜けは、僕の身体はバラバラに開錠されていただろう。けど、愛緋ちゃんは躊躇した。躊躇ってくれた。狙い通り鈍った銀の鍵を、僕の手が確りと掴み取る。
「……捕まえたッ!!」
「……!転移を――」
それを待っていた!続いてのアクション。予想通り愛緋ちゃんが転移を行おうと空間に渦を生み出した瞬間、それに米粒大に圧縮した『天泣』が飛び込み…… 破裂する。
「――ぁ」
愛緋ちゃんから、小さく驚愕の声が聞こえる。
一瞬で、無限に転移をする愛緋ちゃんを捉えることは困難だ。だからこそ、あらかじめ転移の術式に反応して飛び込むように組んだ『天泣』を仕込んでいた。すべてはこの一瞬の為に。
「これで終わりだ、“界渡りの”ッッ!!」
勝利を確信したエランティスの叫び。僕ごと愛緋ちゃんを巻き込む竜巻は、既に避ける事の不可能な位置にあった。




