第六十九話
例えば夜の校舎。例えば閉店後のショッピングモール。例えば誰もいない公園。本来であれば人がたくさん居る場所から人影が完全に消えた時、そこから感じるのはどうしようもない程の寂寞感と僅かな恐怖心。
その正門は固く施錠され、電気はブレーカーごと落とされているのか、常夜灯や非常灯一つの光すら見えない。固く施錠された窓は数ヶ月の間開かれた形跡はなく、サッシのレールにはホコリが積もっていた。
「みんな避難できている事を喜ぶべき、なんだろうけど…… やっぱりちょっと寂しいな」
ここは、夏の間僕が住んでいた孤児院だ。今では全員が避難しているようで、ここはしばらくの間使われた様子は無い。ホコリの溜まり様から何ヵ月経った、何てことを推測する知識は僕には無いけれど、それでもそれなりに長い間使われていないんだな、という事は予想が付く。
幸い鍵の方は僕が持っているものから変わっていないようで、鍵穴に容易くささりカチャリという音を立てて開く。センサー式の防犯装置とかありませんように、と思いながら恐る恐る正面玄関の扉を開くと、警戒音やアラートが鳴る事も無く、僕はホッと胸を撫で下ろす。
「……おじゃましまーす」
もちろんその声に対する返事は無く、シンと静まり返った玄関があるだけだった。
外から見ていて分かっていたことだけど、建物の中も電気は全て落とされ、カーテンを閉められた廊下や部屋から冷たさを感じる無音が、寂寞感と恐怖心が心をくすぐる。けれど、それ以上に感じるのは、懐かしさ。この孤児院で過ごしていた時間ははっきりと楽しいと言えるもので、その面影を持つこの孤児院は僕にとって大切なものだ。正直に言えば浮かれていたのかもしれない。
――監視カメラの起動を示す、赤いランプが光っている事に、僕は遂に気付くことは無かったから。
聞こえる音は廊下のフローリングを叩く僅かな足音だけの静かな廊下を歩んで、辿り着いた部屋。そこに掛けられたネームプレートの名前は『芦屋 綾』そして、『竜胆 悠』。
「僕のネームプレート、残ってるのは意外だったな」
警察の人たちにどんな風に言われていたかは分からないけど、殺人事件の容疑者くらいは伝わってたんじゃないかと思ってた。そうであれば僕のネームプレートも外されていて然るべきだ。でも、疑問は残るけど……
「ちょっと、いや、結構、嬉しいかな」
これは僕がここに居たという証明、“竜胆 悠”がここで暮らしていたという事の証明だ。男として生きていたころの竜胆 悠は死んだ。ティアナちゃんの姿で生きている竜胆 悠が居る事の証明は、僅かなものしかない。だからこそ、ここに居たんだって事を知る事ができるこのネームプレートが、凄く、嬉しい。
「……こっちは開いてたか」
ドアノブを回すと、特に抵抗も無く扉は開き、部屋の中へ僕を誘う。ベッドの上の布団は撤去され、その骨組みとマットだけが置かれている。学習机や本棚に本は一冊も無く、クローゼットや棚には衣服は見当たらず、靴下一つすら残っていなかった。
「っ……」
仕方のない事だってことは、分かってる。でも、この光景は、綾は二度と帰ってこないんだって事を伝えてくるようで、正直かなり、キツい。
「僕の服は、無いか……」
ため息と共に肩を落とす。備え付けの姿鏡で自分の姿を見ると、思わずまた、ため息をこぼしたくなる。今の僕の姿は、お世辞にも清潔的とは言えないものだった。シャツは何度も着てヨレヨレ、しかも撃たれた際の穴がみっともなく開いている。スカートは一部が破れ、体勢によってはかなり際どいスリットの様な状態だ。
一言で言うなら、完全にホームレスのそれだ。一応エランティスに浄化の魔法をかけて貰ってるから、変な臭いはしないみたいだけど、思わず自分の匂いを確認してしまう。
「夏服しか持ってなかったけど……この格好よりましだしなぁ……」
捨てられてなければいいんだけど、とボヤく。あの服は、僕の宝物だ。女になってしまった僕に、一番最初に手を伸ばしてくれたあいつのくれた宝物。もしかしたら綾が……と思ったけど、殺人犯として追われてる僕の私物なんて気持ち悪くてすぐに捨ててしまったのかもしれない。むしろそう考えるのが自然だろう。
「……ごめん、な」
僕は涙目で、もういない人に謝る。
◆◇◆◇◆◇
失意のままフラフラと施設の中を周る。懐かしいもの、変わって無いもの、変わってしまったもの。それをぼんやりと眺めながら歩み、そろそろ戻ろうかと玄関に辿り着いた瞬間だった。
声を、掛けられたのは。
「竜胆さん」
「――ッ、朝日、さん?」
声を掛けられるとは思って無く、びくりと身体を震わせて掛けられた声の方を向くと、その先に居たのは、朝日さん。他に警察の人が居る様子は無いけれど、応対するべきか逃げるべきかの逡巡が頭を巡るけど…… 逃げる事を考慮に入れ、足に込めた力を抜き、自然体となる。その僕の仕草に朝日さんはホッとした表情をする。
「お久しぶりです」
「はい……偶然、って訳ではないですよね」
「えぇ、人感式の監視カメラです。ここにはいつか、戻って来ると思っていましたから」
「……言っておきますが、捕まるつもりはありませんよ」
僕が恐怖で動けなくなるのは、対魔獣に対してだけだ。人間相手なら普通の精神状態で居る事ができる。魔法でも、身体能力強化でも十分だ。……情けない話ではあるんだけど。
「……いくつかお尋ねしたい事と、それと、伝言が」
「伝言?」
「芦谷さんからです」
「――――」
息をのむ。綾からの、伝言。確かにこの施設に僕を待ち伏せする為にセンサー式の監視カメラを付けているなら、その際に綾から伝言を預かっていてもおかしくは無い。けど、その伝言を聞かせてもらうという事は……
「……むぅ、ずるいですね。伝言を教えてくれるのは最後なんでしょう?」
「ええ。ですが答えたくない質問は拒否してもらって構いませんから」
交換条件、と言う訳だ。伝言を聞きたければ、情報をくれと。と言っても、僕が何を喋ろうが“前知の魔女”に伝わって困る情報がある訳でも無い。恐らく朝日さんの欲しい情報は、この魔獣騒ぎについてだろう。それならば、むしろ積極的に情報を渡す事は、ひいては被害の削減につながる可能性がる。僕としても悪い話じゃない。
ちょっと嵌められたみたいで悔しいけど!
「僕で答えれることなら」
「一つ目、あの化け物――あなた達が魔獣と呼ぶ化け物共の事です」
一つ目の質問はズバリ予想していた質問の一つだ。自分たちが今戦っているものが何なのか。それは確かに今最も、のどから手が出るほど欲しい情報だろう。
「あれは、何です?何処から来ている?」
「又聞きの情報で良ければ。えっと、魔獣は魔力と怨念で産まれる化け物、だったかな。やってくるのは異世界から」
「……漫画かゲームの話だと切って捨てたい所ですが」
「あはは、同感です」
「実物を見ている以上、目を逸らしている訳にはいきませんからね」
二人で苦笑する。男の子であればこの年齢までには何度かゲームなり漫画の一つに手を出したことがある人が殆どだろう。そして、男の子が好きなものは、冒険活劇、能力バトル……ファンタジー。そんなファンタジーの世界に出てくる“敵キャラ”の見本のような設定だもの。
「現在では機動隊や自衛隊で対処は可能なレベルですが、これから更に強大な個体が現れる可能性は……」
「あります。僕の知っている限りで自衛隊の人が倒した魔獣の一番強いもので中級クラス」
「……中級、と呼ぶからには上級があるんでしょうね」
「あと更に上に“名付き”っていう最上級がいますね」
「……すみませんちょっと眩暈が」
頭痛に耐える様に眉間を抑えた朝日さん。気持ちは分かる。僕が知ってる“名付き”はエランティスと“蠅山の”だけど、どちらも僕の力を大きく上回っている強さだ。正直一人じゃ勝てる気がしない。
「……朝日さん、しゃべる魔獣が現れたら、絶対に戦わずに逃げてください」
「それは…… いえ、私は」
「ごめんなさい、返事は、いいです。それより、次の質問は――?」
その先の答えが分かってしまったから、僕は返事を聞く前にその言葉を遮る。聞きたくなかったから。いずれなるその先を想像したくなかったから。朝日さんの目に、変えられない決意の色が見えてしまったから。
「……何故急に現れる様に?あなた達の警察署襲撃からの急な出現です。容疑者はあなた達ですよ」
「あー、やっぱりそうなりますよね……ってか朝日さん大丈夫でした?!あの時吹っ飛ばされたりケガしたりしてませんでした?!」
うっかりしていた。警察署を破壊してしまったけど、朝日さんも居たかもしれないんだ。死者は出ていないとはエランティス談だけど、それでもあんな勢いで吹っ飛ばしていたら、誰か大けがしていてもおかしくない。
……あの強面の警部さんは別にいいや。撃たれたこと、ちょっと、怨んでるし。
「別件で署には居なかったので大丈夫でしたよ。戻った時は腰を抜かすかと思いましたが」
「ご、ごめんなさい……いや、ほんと、申し訳ありません……」
「まぁおかげで急ピッチで体制が整えられて、結果魔獣の被害が抑えられたので……」
やったのはエランティスといえ、僕は共犯者だ。ペコペコと頭を下げていると朝日さんが優しくそう言ってくれる。確かに警察署に襲撃の可能性があるのなら、襲撃者に対する指針や対策がとれる体制になるのは自然な事だ。それがそのまま、魔獣の襲撃への対策に流用できる。怪我の功名と言うべきか、何というべきか。でも朝日さんのおかげで、気持ちが大分軽くなったのは確かだ。
「うぅ、ごめんなさい……あ、えと、質問の答えですが、元々魔獣は定期的に現れてたんですが、僕の仲間達が先回りして駆除してたんです」
「…………」
「けど、僕たちはあの“前知の魔女”と、えと、その……もう一人の魔女に負けた」
「負けた……?大丈夫だったんですか!?」
その言葉に、僅かに“あの時”の光景と、痛みがフラッシュバックする。指を折られる感覚が、振り下ろされる拳の感覚が、皮膚を焼かれる熱の感覚が――
……思わず泣き叫ぶ所だった。ハッと意識を取り戻すと、こちらを心配そうに見る朝日さんの姿。大丈夫――と言うには無様な姿を見せてしまった。
「大丈夫、では無いですかね。僕と僕の仲間は戦えなくなって、最後の1人が後手に回って魔獣を駆除しているところです」
「先手に回る事が出来なくなったから、被害が表面化したと…… 怪我等は……」
「怪我は完治していますし、心配しないでください。次の質問は?」
下手に症状やあの時の状況を聞かれると、またフラッシュバックしてしまいそうなので、次の質問を催促する。流石に泣き叫ぶような様は見せたくないし、見られたくない。
何かを言いたそうにする朝日さんだけど、僕の意図を汲んでくれたのか少し悔しそうにしながらも追及しないでくれた。
「わかりました……その魔獣はいつまで出現するのですか……?」
「“前知の魔女”の仲間の魔女を倒すまで、ですね。彼女は自分で制御できず、勝手に漏れ出す部分があの魔獣達だと言ってました」
「なんて事だ……私たちは、元凶の肩を持っていたと言う訳ですか……竜胆さん達が負けた相手に……か……」
朝日さんは忌々しげに整えられた髪をくしゃりと握りしめる。多分、彼の脳裏ではそんなに頭のよくない僕とは比べ物にならない程の高度なシミュレーションが行われているんだろう。しばらく無言で考えた様子の後、深い、大きなため息をつく。
「――ありがとうございました。聞きたい事は以上です」
「……朝日さん、多分この状態は」
「えぇ、長くは保たないでしょうね。想像以上に絶望的です。ですが、誰かがやらねばならない事なので」
「…………」
その言葉に、僕は静止の二の言を告げれずにいる。止めても朝日さんは聞かないだろう。最初の拒絶は僕の言葉程度が入り込む余地などないと断じる言葉だったから。悔しさに歯を強く噛みしめる。やっぱりこのままじゃダメだ。早く、何とかしないと……そう思っていると、不意に朝日さんが声を明るくさせて言う。
「それよりも、約束の伝言です。やっと繋がりました。どうぞ」
「あっ、え?どうぞって」
渡されたのは朝日さんのスマートフォン。その画面には、通話中の状態。そこまで来ればどんな鈍い人でも気付くであろう。この通話がつながっている先が。まって、待って待って。えっ、つまり、そういうこと?え、繋がってるの?もう?心の準備が――
震える手で持つスマホから耳を当てずともわずかに聞こえてくるのは、聞きなれた、あの元気な声。意を決して耳元にあて、おそるおそる半年以上ぶりの電話での呼びかけの定型文を言う。
「も、もしもし……?」
『――悠ちゃん?』
耳元に当てたスピーカーから聞こえてくるのは、綾の声。あの、人を元気にさせる明るい声。心臓が大きく音をたてる。喉が震える。ずっと、聞きたかった、大切な友達の声――
「あ、や……?」
『そうだよ!うちだよ!悠ちゃん手紙読んでくれた?どこ行ってたの!ちゃんとご飯食べてる!?』
「――ッ、ぅ……うぅ……あ、やぁ……」
『って悠ちゃん!?泣いてるの!?どうしたの?朝日さんに何か酷い事言われた?』
言葉が出なかった。言いたい事はいくらでもあった。伝えたい事も、聞きたい事も。でも、綾の声を聴いた瞬間、全部吹っ飛んでしまった。
「ちが……っ……だって、声……もう、聞け、ない、って……思って……て……」
『ぐすっ、もう!悠ちゃんが泣くから、うちまで……』
そのあと僕たちは、日が暮れるまで延々と泣きながら話し合ったんだ――
永い間放置して本当に本当に申し訳ありませんでした。
リアル事情がボチボチ改善したので、少しずつ再開していきます。




