第五十六話
――人殺しに正義も何もあるか、君は僕にそう言ったね。確かに、至極当然、“こちら”では当たり前のことだ。
幽鬼のように立つ、少し陰鬱な雰囲気を持った青年が呟く。……切り裂き魔だ。正確に言えば、その幻影。その姿を見て、僕は大きく深いため息をつく。今まで記憶の隅に追いやっておいて、話題に出た途端夢にまで見るなんて、自分の頭の単純さに呆れてしまう。
――まさか忘れた訳じゃないだろう?僕の腕を引き千切った感触を、死に体の僕を弾き飛ばし続けた感触を、僕を……
次の言葉を吐き切る前に、切り裂き魔の幻影の頭に、捻じれたマントの切れ端で作った黒い槍先が突き刺さり、次の瞬間、その頭部を水風船のように弾き飛ばす。
「……黙れよ」
うるさい、黙れ。苛立ちと共に声を低くし、吐き捨てるように言い放つ。だけど相手は幻影、幻だ。頭を吹き飛ばしても、何事も無かったかのように再び言葉を紡ぐ。
――酷いじゃないか、また殺すつもりだったのかい?
「また、か。……あぁ、何度だって選んでやる。何度だってその命で償わせてやる。
あんたの復讐劇に興味は無いけど、あんたは無関係な人を殺した。そして何より誰より、あいつを殺したあんたを僕は許さない」
――正義の味方を目指す割には、ずいぶんと私怨が過ぎるじゃないか。
「これが僕とあの子の正義だ。僕は、僕の大切な人達を傷つけるものを絶対に許さないし、認めない」
大切なものを護りたいという願いを以て生まれた魔法。つまりそれは、大切なものを傷つけたものを許さない魔法でもある。
言い切った僕の様子を見て、切り裂き魔の幻影は詰まらなさそうに呟く。
――……君には、揺さぶりは効かないみたいだね。
諦めた様に頭を振り、薄れゆく切り裂き魔。この夢は、僕の罪悪感が産んだ幻なんだろうか。本当は心のどこかで後悔しているのだろうか。何とも言えないモヤモヤとした感情が心の中を渦巻く。
「何度だって、償わせて、やる……」
誰も居なくなった夢の中で、僕はもう一度だけ、まるで自分に言い聞かすかのように呟いた。
◆◇◆◇◆◇
「……ん、んぅ?」
閉じた瞼の裏まで刺さる照明の光がもどかしく、目を開くと見慣れない天井。天井なんてどこでも同じだと思っていたけど、意外にもベッドの位置や照明の形だけでもその印象は大きく変わる。つまりは全く知らない場所であるという事だ。
「……ここ、何処?――いッ、たっ……」
混乱する頭で何とか状況を確認する為に身を起こそうとして、腹部からあがる激痛に小さな悲鳴を上げて悶絶する。
痛ぁ…… あまりの痛さに泣きそう。患部をさすった感覚だとどうやら血は止まっているみたいだけど、うずくまって悶えたくなる程の激痛はまだ残っている。
痛みが幾分収まるのを待って、今度は患部を労りながらゆっくりと上半身だけ起き上がり、辺りを見回す。清潔感のある白いクロスの壁と、敷き詰められたビニール製の床タイルの殺風景な小さな個室だ。調度品の類はあまり置かれておらず、此処が生活の場では無く、一時的に滞在するための場所だという事が分かる。
「……病院?」
医療機器やそういった道具は見当たらないけれど、この部屋の印象を一言で表すならば病室だ。その証拠だと言わんばかりに、僕の服装は、気絶している間に着替えさせられたのか淡い桃色の病衣になっていた。
と、その時、コツコツコツと地面を何か固いもので叩く音が小さく耳に響く。何かヒールか、あるいはパンプスの様な靴で歩く足音だ。その音を聞いて僕は身構える。
――誰の、足音だ?
此処が病院だという事はほぼ間違いない。だとすると問題は、“誰が僕を此処に連れて来たか”だ。
最高の相手はアーニャだ。僕の魔力を辿って救い出してくれた、という展開が一番望ましい。けど、アーニャはあまりそういった、いざと言うときに動きづらい靴を好まないし、病院に連れて行くという選択肢を選ぶことが考え難い。
一番在り得そうな相手は看護師か、警察官の誰かだ。気絶した後警察署に連れて行かれて、この足音はその病院の看護師か、或いは警察官の誰かという可能性が一番可能性が高く思える。けど、そうだとしたら手錠すら掛けられていない今の状況が解せない。あれだけ怯えていたんだ、拘束の一つも無いなんて考え辛い。
最悪の相手は、“前知の魔女”だ。敵となった彼女に捕えられたという可能性は否定できない。その場合は恐らく逃げ道も、連絡手段も絶たれているだろう。アーニャやエランティスの反応を見る限り、色々と無事では済まないだろう。もう一つ最悪なことに、彼女だとすれば現状の拘束もされていない違和感は納得できてしまう。結界で出られなくしている様な細工があるのは間違いないだろう。
「…………」
……あれから何時間経った?魔法を使える程回復したのか?まだ封魔の魔術が効いているのかいまいち自分の魔力の流れが掴めなくて、魔術や魔法を発動させる事が出来るか、あわよく発動させてもそれは本当に正常な機能を果たすのだろうか?
悩んでいる内にも足音は近づいてくる。まるで執行を待つ死刑囚気分だ。
「……あの日の慟哭は彼方へ。此処は、汝等が触れてよい夢に非ず……」
そして僕が選択したのは魔法の発動。祈るような気持ちで詠唱を唱える。
「故に、っ……誰我接触不叶ッ!!」
目を閉じ、勇気を振り絞って魔法を発動させる。漆黒の霞が僕の周りを漂い、“法衣”を形成しようとして――
「……ぁ、っ」
そしてそのまま、本物の霞の様にぼやけ、消えてしまう。
だめ、だった。発動さえされていればほぼ総ての攻撃に対して不可侵を誇る“拒絶”の魔法も、発動出来なければ何の意味も無い。続いて身体強化の魔術にも挑戦するが、こちらも発動さえしない。
――コン、コン
そしてその間にも足音は近づき、遂に僕が居るこの部屋の前で立ち止まり、軽く二度、ノックを鳴らす。恐怖と絶望に犯される思考を纏める暇もなく、扉がガチャリと開かれ、その足音の主が現れようとしている。
くそっ、誰だ?誰、なんだ?最早祈る事しか出来なくなった僕は、ベッドのシーツを胸元に引き寄せ、身体を縮込ませながらその相手が現れるのを待つ。
「――ッ!!!??」
その相手を見て、僕は悲鳴をあげかけた。あげなかったのは奇跡だったのかもしれない。その相手は僕がとても良く知っている相手であって、もう二度と会うことは無いだろうと思っていた相手。
「良かった、目が覚めたのね。傷の方は大丈夫かしら?」
「……ぇ、は……か?」
――遥?
あまりの驚きに声が出なかった。出ていれば名前を叫んでしまっていただろうけど、扉の先に居たのは、竜胆遥。あの日墓地で見た以来全く会っていなかった、僕の、妹だ。落ち着いた服装の上に白衣を纏い、見慣れない新鮮な服装で雰囲気もいつもと違って見えるけど、間違いなく遥だ。
「混乱しているの?大丈夫、あの拳銃を持った通り魔は居ないわ」
「ぇ、通り、魔?」
口をパクパクとさせ絶句する僕を、通り魔のせいで混乱していると思ったのか、優しくそう言う遥。って、え?通り魔って?
「ほら、貴女橋の上で通り魔に拳銃で襲われていたでしょう?先生、車で本当に轢いちゃうかって思うくらいの勢いで突っ込んで追い払って…… あ、もしかして嫌な事思い出させちゃったかしら」
「い、え。助けてくれて、ありがとう……ございます」
どうやら遥は、あの剣持警部を通り魔か何かだと勘違いしているみたいだ。確かに、中学生くらいの少女に拳銃を突きつけ、あまつさえ発砲して負傷させてる男が居たら、僕もまさかその男が警察官だなんて思わないけど。しかし、車で突っ込むとは、助けて貰って感謝してるけどかなり物騒な……
「傷口は大丈夫?先生は絶対安静だけど手術する程ではないって言っていたけど……」
「ぇ、あぁ、大丈夫……です」
「貴女、お名前は?親御さんの連絡先、分かる?」
「えと、僕は……りん――ッ」
危なっ!竜胆悠って名乗るところだった!竜胆なんて珍しい苗字、怪しまれるに決まっている。いや、名乗っても元の竜胆悠と結びつかないだろうけど。
「りん?凛さんっていうの?」
「え、えぇ、芦屋、凛です」
ごめん綾。他にパッと思いつく苗字が無くて……
「連絡先の方はわかるかしら?」
「え、と……」
……どうしようか。唯一の連絡先と言えばあの施設だけど、警察の手が伸びている以上あそこに連絡するのは、自分から捕まりにいくようなものだ。魔法が再び使えるようになればその場は逃げることが出来るだろうけど、また魔法を使っていないタイミングを狙って、例の銃で狙撃されたらひとたまりもない。次にあの銃弾が貫通するのが眉間や心臓じゃないって保証は無いんだから。
「…………」
「どうしたの?」
「いえ、自分で出来るので、大丈夫です」
「そう?親御さんも心配してるだろうし、早く連絡するのよ」
「……はい」
心配、ね。思わず自嘲が漏れる。殺人容疑の逃走犯と一緒に居ただなんて知らされたら、確かに誰でも心配になるだろう。
「あの、貴女は……?」
「あぁ、ごめんなさい。私は竜胆遥。まだ大学生だけど、この病院で研修させてもらっているの。ここの先生、性格と評判と手癖は悪いけど、外科手術の腕だけは一流なのよ」
……妹よ、その研修先で大丈夫なのか?お兄ちゃん心配だぞ。“腕だけ”を殊更強調する遥の姿に、一体どんな医者の先生の元で勉強しているのか家族として不安になってしまうけど、今更兄貴面して出てくるわけにもいかないので、心の中で心配しておく。……大丈夫、だよね?
◆◇◆◇◆◇
絶対安静と言われた手前おおっぴらに逃げ出す訳にもいかず、かと言ってこっそり逃げ出すには、せめて魔術の助けが欲しい。脇腹の激痛も無視できるほど治まっているわけでもない。
「……遥、頑張ってるんだな」
消灯時間である21時を過ぎてしばらく経った。あと数時間もすればアーニャからの定時連絡が来るだろうけど、カーテンが閉められた室内は暗く、部屋の角でカチカチと秒針を刻む時計の内容を把握する事が出来ない。暗い部屋、かと言って寝る事も出来ないとなると、出来る事は考え事位しかない。僕は数週間ぶりに会った遥について考えていた。
出来の良い妹だと思っていたけど、こうやって勉強を頑張っている姿を見るのは初めてだ。包帯を取り替えたり、傷口を検診する様は中々どうして、様になっていた。
「医者、か。なりたいって言ってたもんなぁ」
夢を叶える為に頑張っている人の姿は尊く、眩しい。遥の頑張っている姿を見て、嬉しいやら羨ましいやら何とも言えない感情が心の中を渦巻く。――と、その時……
「いい子ねぇ。流石は貴女の妹、ってところかしら」
かけられた声に僕は心臓が止まるかと思う程に驚愕し、振り向く。脇腹に激痛が走り、一瞬顔をしかめ、うずくまりたくなる衝動に駆られるけど今そんな事をしている暇はない。振り向いた先に立っていたのは、金髪のウェーブのかかったセミロングヘアをたなびかせる妙齢の女。女はこちらを、まるで愛しいものでも眺めるかのような恍惚とした表情を浮かべている。どうしようもなく嬉しそうで、どうしようもなく淫靡で、だからこそどうしようもなく悪寒の走る笑み。
「――ッ、“前、知の”……」
「はァイ、こんばんは。“拒絶の魔女”さん?」
“前知の魔女”――リモニウム・スターティスが陽気に挨拶をする。カチカチと時計が秒針を刻む音だけが鳴る静かな病室に、その声だけが異様に明るく、だからこそ不気味に響いた。




