灰染めのワルツ
ギリツィエの悠然とした校舎の裏に日の沈みかけた頃、セーシェはルティウスの部屋を訪れていた。キザな文体で描かれた「ルティウス」の文字が彫られた扉をまじまじと見つめ、間違いないと踏んだ彼女は扉を三度ノックした。時間を待たずに扉が開き、澄ました顔の色男が部屋の中から顔を突き出した。
「セーシェ、どうした。いつにも増して不満気な顔つきだ。」
「今のあなたの発言のせいでね。舞踏会の練習、しなくていいの?」
「あぁ、そうだった。少し待ってて。」
彼がそういって扉を勢いよく閉めると、何かに躓いたと共に地響きのような衝撃音が周辺を強く揺らした。びくりと体を震わせたセーシェが恐る恐る扉を開く。
「ねえ、大丈夫?…返事がないわ、死んだのかしら。」
室内は大惨事になっていた。本棚が倒れ雪崩のように床に積み重なり、風魔法が飛散したのか小さな竜巻が周辺物を巻き込んで轟音を立てている。
「なんとか生きてるよ。早く助けてもらえるとたすかるなあ。」
ガラクタの山から、ルティウスが力無く左手を突き上げた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「それで、どうしてこんなことになっちゃうわけ。」
呆れたセーシェが膝を折りたたんで正座をするルティウスを軽蔑的に見下ろした。
「床に転がってた魔石に足が引っ掛かり、体勢を立て直そうと風魔法を使ったらあの大惨事さ。」
「じゃあその原因となる魔石を破壊しないとね。」
セーシェは机の上に置かれた、薄汚れた魔石に魔力を込め始めた。みるみると変色し、くしゃりと潰れ始める魔石に、ルティウスは慌てて駆け寄りセーシェの手からそれを取り上げた。魔石は元の色に戻り、形状ものごつごつとしたボールのように再形成された。
「これはラミアから貰った魔石なんだ。可愛い妹から貰った魔石を壊させるわけにはいかないだろ。」
「それなら、どうして床に転がせてたのよ。」
「…とにかく、舞踏会の練習に行こう。」
早々に話を切り上げたセーシェがため息混じりに横目をやると、その視界に入ったのは一冊の本だった。乱雑な物の置かれた空間の中、その本だけは木造りの机の上で丁重に扱われているのが見てとれた。
「ルティウス、これは?」
「あぁ、それはレヴィーナ家の歴史図だよ。これまで数十代分の歴史概要が一冊にまとめられてる優れものさ。」
「へえ」
そのとき、セーシェの脳内に一つの思案が湧き出た。セーシェ(雨宮雪乃)の母であるジェミリカ(雨宮静香)の存在である。
(「私とお母様は異世界転生者。その共通点は主に二つ。一つ目、前世が雨宮家の人間であること。二つ目、転生先が大貴族であること。一つ目はもう考察のしようがない。それでも、二つ目は検証する価値がある。レヴィーナ家をはじめとした他の大貴族について調査する事で、異世界転生にまつわる新しい情報を得られるかもしれないし、転生先は大貴族が多いのかもしれない。とはいっても、幼い頃から我がバロンバルグ家についていくら調べ上げても、何も情報は得られなかったのだけれど。)」
「また難しい顔をしてどうしたんだ?」
「この本、借りてもいいかしら?必ず返すから。」
「もちろん。ただ、”綺麗に”返すと約束してくれ。それは売り物でもないんでね。レヴィーナ家直系のみが目にできる秘蔵品だよ。」
「なら、私が見るわけにはいかないじゃないの。」
「いや、一通り中身に目は通したが大した事は何も書いていなかったから問題ない。それに、君は僕の一応婚約者。将来レヴィーナ家に嫁ぐんだから、尚更問題はない。」
(「重要な事は書いてないのか。まあ、最初からダメ元だったから気にしない気にしない。」)
「あら、私はてっきりあなたがバロンバルグ家に嫁ぐのだと。」
「そういえば、その設定すら決めてなかったね。まあいい。どうせ結婚することはないんだ。」
「あなたみたいなお子様、お断りよ。」
「それは僕のセリフだ。」
セーシェは頭の中で自らの歳を数え始めた。
(「前世の私が21歳で、今世の私が14歳。合わせたら精神の年齢は35歳。あ、あれ…おばさんじゃない?」)
そんな不快な妄想を振り払うように、セーシェは無意識に深呼吸をする。
「とにかく、舞踏会の練習を。このまま何もなしに踊れば、大衆の前で醜態を晒すのは目に見えているもの。」
「わかったわかった、さあ行こう。」
早足でその場を後にするセーシェの背中を、ルティウスは痺れる足をふらつかせながら追いかけて行った。
——ルーベル広場。
既に宵闇に包まれたルーベル広場には、ぼんやりと暗がりを照らす魔法灯が等間隔で並び、そのもとで生徒達が手を取り合ってウォルサ舞踊の練習をしていた。
セーシェはルティウスと向かい合って、少し背の高い彼の瞳をまじまじと見上げた。そよ風に靡く美しい金髪の隙間から、真珠のように反射する瞳が覗いている。
両手を重ね、手のひらからお互いの温もりをゆらりと感じ取った。その熱に浮かされたセーシェは顔を赤らめ…ることもなく平静な面持ちでルティウスの鼻先に目をやっていた。
「本来なら初心な男女が手を取り合って甘美な時間を過ごすのでしょうけど、あなたとはこんなにドキドキしないものなのね。」
すると、ルティウスはセーシェ=の腰に手を回し、余った方のただ彼女の肩を軽く押し倒した。後方に体を反らせたセーシェをルティウスが支え、ぐっと顔を近づける。
「これでも?」
「…当然よ。」
微細に目線を揺らがせたセーシェの表情を見て、ルティウスは満足そうに彼女の反った体を引き上げた。
「そうかい。まあいい、踊ろう。」
ルティウスが朗らかな笑顔で右手を突き出し、その手をセーシェが優しく手に取る。広場の中央に設置された音楽機が曲の終わりを迎え、再びループを始める。
優美な音楽と共に、二人の影は何度も重なり、混じり合う。さながら花園に舞う二匹の蝶のように、暗闇に幽光を注ぐ魔法灯の傍らでの演舞は長い刻のように感じられた。
両者の一挙手一投足が一寸の狂いなく一致し、完全無欠なコンビネーションが披露される。
「存外に上手いじゃないか。小議会で忙しいだろうに、いつの間にここまで仕上げてきたんだ?」
「あなたこそ、私に匹敵する足捌きね。」
セーシェは内心気づいていた。自分はルティウスの動きに乗せられている。彼の腕を引く先に、つま先の着地する先に、誘われている。
「(ルティウス、想像以上にこなれた動きだわ。まるで龍義さんみたい。あぁ、思えば。あの頃が私の絶頂期だったのに。彼と踊ったあの日も、こんな灯りの下で踊ったかしら。今となってはもう、灰色に霞んだ思い出だけど。)」
セーシェはかつての婚約者、久慈平龍義に想いを馳せる。彼と出会ったのは、セーシェもとい雨宮雪乃が19歳の春。雨宮財閥やKUJIHIRAをはじめとする日の丸の大企業が集う豪奢な饗宴の場が設けられた。しかし、これが単なる社交場で終わるはずがない。
和かな面と紳士的なスーツあるいは絢爛なドレスを身につけた人間達が、打算的な応酬を行っている大人じみた場だ。そんな空間に身を置いた気苦労から、雪乃は宴のホテル会場を抜け出し、離れた街灯の下のベンチに腰掛けていた。
手鏡を取り出して、疲れ切った自分の表情を引き締めるように頬を軽く数度叩いた。
「よし、戻ろう。」
「あなたが雨宮雪乃さんですか?探しましたよ。」
聞き知らぬ若い男の声だった。雪乃が訝しげに目をやると、街灯に照らされた青年の姿形と顔つきが露わになった。
雪乃の身長は女性の中では高い方ではあったが、その青年は彼女よりも二回り大きく、尚且つ体つきもがっしりしている。武術を極めた雪乃とはいえ太刀打ちできまい。解けきらない警戒心を抱いたまま、雪乃は穏やかな笑顔で相手を刺激しないように。財閥令嬢としての偶像を損なわぬように軽く言葉を投げかけた。
「わたくしを探してくださったのですか、ありがとうございます。誠に失礼なのですが、どちら様でしょうか?」
「僕は久慈平龍義と申します。こちら、名刺です。」
うやうやしく礼をしながら彼は名刺をすっと雪乃に手渡した。雪乃が名刺にさっとを目を倒す。
「あぁ、自動車メーカーのKUJIHIRA様の!」
「はい、そうです。今日は僕や父をはじめとした多くの社員を招いていただき、誠にありがとうございます。」
再び深々と頭を下げる龍義に、雪乃は慌てた様子で頭を上げるように示した。
「そんな、むしろ来ていただいて光栄なのはこちらです。…それで、久慈平さんはどうして私をお探しに?」
「あなたのお母様、静香様から頼まれたのです。」
龍義の言葉に、雪乃は苦笑いを浮かべるしかなかった。またあのお節介な母親のことだ。泣き縋るように彼に捜索を頼み込んだのは容易に想像できた。
「そんなの、無視しても宜しかったのに。」
「僕にはできないですよ、そんなこと。」
「そう…ねえ久慈平さん。少しお話しませんか?」
雪乃はベンチに腰掛け、その隣をとんとんと叩いた。龍義は豆鉄砲をくらったような顔で瞬きをしたあと、ゆっくりと腰を下ろした。
雪乃はこのとき特段龍義に好意を持っていたわけでもない。誠実そうな雰囲気こそ読み取ったが、何かとつけて雨宮財閥に取り入るつもりなのだろうという魂胆を見透かしているつもりになっていた。話をしようと声をかけたのは、単にあの宴にはもう戻りたくなかったからだ。
それから二人はお互いのことについて語った。龍義が存外興味深い人物であることも明らかになった。年が二つ上で芸術大学に通っていること、駆け出しのシンガーソングライターとして路上ライブをしていること。歌一本で食べていくために、会社を継ぐ気は一切ないということ。
龍義の取り留めのない話に耳を傾けているうちに、彼女の心の内には二つの感情が芽生えた。尊敬と嫉妬である。俗世から離脱し、身一つで人生を生き抜こうとすることへの尊敬。このやり取りが、雨宮財閥への擦り寄りでもないのだと思わせてしまうような迫力が彼の言葉にある。もう一つの感情、会社を捨てて広い世界に羽ばたける自由への嫉妬。
雪乃は、幸か不幸か富豪のしがらみから逃れる事はできない。その対比が、龍義への正負を混在した感情へと変貌していくことを彼女はまだ知らなかった。話はやがて芸術を経て、舞踊・ワルツへと話題が移り変わった。
「雪乃さんはワルツが踊れるんですか。」
「ええ、幼少の頃からワルツのレッスンを。けれど、中々踊る機会もなくて…。あれだけ頑張ったんですけどね。」
遠方を見つめ、寂しそうに微笑を漏らした雪乃。その瞳を横目に流した龍義は立ち上がると、彼女の前にたち、右手のひらを差し出した。
「僕でよければ、お相手しましょうか?」
その不思議な提案に、雪乃は呆気に取られていた。誰が出会ったばかりの男とワルツを踊ることになるだろうか。しかし、この青年には確かな魅力があることも雪乃からみれば明らかであった。
「(どうせなら、一夜限りの過ちとでも思ってしまえばいい。いや、そこまでは言いすぎたか。)」
雪乃の顔に、令嬢の余裕が現れた。
「ええ、喜んで。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昔の思い出に浸っていたセーシェは、気が抜けていたのか足元がふらつき、バランスを崩し後頭部から地面に背を預けた。
「おっと、セーシェ危ないっ!」
ルティウスがとっさに風魔法を発動し、セーシェの体はふわりと浮き上がった。
「セーシェ、疲れたんじゃないのか。今日はもう終わりにしよう。」
色々納得したように、セーシェは軽く頷いてルティウスの瞳を覗き込んだ。
「まずはありがとう。」
「ええと、僕は今から告白を取り下げられてその勢いで婚約破棄されるのかな?」
「何を言っているの。助けてくれてありがとう。それより、あなたずっと風魔法を使っていたでしょう。私の体をよくも操ってくれたわね。」
セーシェの指摘に、ルティウスは焦燥の表情を浮かべて否定した。
「そんなわけないだろう。僕と君のセンスが調和して——。」
セーシェがルティウスを黙らせるために、人差し指をぴんと彼の額に弾いた。
「いたっ!」
「露骨な嘘。踊っている最中、あなたの髪が風魔法で無闇に靡いていて仕方なかったの。」
「バレていたのか…。」
がくりと膝を地面につき、肩を落としたルティウスにセーシェは慰めの言葉を投げかけた。
「でも、動きをマスターしていないといくら風魔法があっても動きの統制なんて不可能だし。ちゃんと踊れるなんて感心したわ。今日は楽しかった、それじゃあね。」
踵を返し、満足げに自室に帰るセーシェの姿を、ルティウスは黙って見守っていた。
「まあ、龍義さんに敵わないけれど。」
そんな戯言を、セーシェは漏らしながら鼻歌混じりに帰路についていた。




