仮面と素顔
壊れていても。
家族を支える者として。
会社を背負う者として。
崩れかけた心を、誰かに見せるわけにはいかなかった。
どれだけ無気力でも、どれだけ呼吸が浅くても、周囲は「いつも通り」を期待してくる。
だから、そう振る舞うしかなかった。
効率は落ち、反応は鈍い。
それでも手を動かし、口を動かし、表面だけは整えていた。
まるで、壊れていない人間のふりをするように。
そんなある日、仕事の打ち合わせで、先輩と向かい合った。
資料を並べていると、ふと先輩が手を止めて、こちらの顔をじっと覗き込んだ。
「おい、どうした? ……おまえ、なんか変じゃないか? しゃんとせいや」
いつもなら語気鋭く詰めてくる人なのに、その日はやけに声音が柔らかかった。
胸の奥がざわついた。
何かを察された――そんな気配がして、取り繕う言葉が見つからなかった。
「……はい。嫁が、男作ったんですよ」
自嘲気味に笑った。
なぜ笑ったのか、自分でもよくわからなかった。
「マジで……死のうかな、って考えました」
一瞬で空気が変わった。
先輩の目が鋭くなり、声のトーンが低く落ちる。
「おまえな……」
短く息を吐いて、迷いのない口調で言葉を続けた。
「たった一度の過ちで許せないとかさ、心ちっちぇんだよ」
「それに、おまえ……嫁に引け目、感じたことねぇのか?」
「“死ぬ”とか簡単に言ってんじゃねぇよ。そんなもんで終わってたまるか」
一言一言が、鋭く胸に突き刺さる。
けれど、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、少しだけ救われた気がした。
「……はい、すみません」
声はかすかだったが、確かに自分のものだった。
強引で、不器用で、言葉足らずな人。
けれど、その中には確かに温度があった。
寄り添おうとする不器用な誠意が、乱れた心にほんのわずか、柔らかな余白を与えてくれた。
納得なんてできていない。
許せるわけもない。
ただ、ほんの少しだけ。
もう一歩、進んでみようか――そんな気がした。