番外編「銀の矢と夜明けの狩人」
◇ルミナ視点
夜の暗闇が森の輪郭を曖昧に塗りつぶし、冷たい霧が木々の隙間を這うように流れている。
私は太い木の枝に身を潜め、呼吸の音さえも周囲の静寂に溶け込ませるようにして獲物を待っている。
肺に吸い込む空気は冷たく湿っており、朽ちた葉と苔の匂いが鼻腔の奥を通り抜けていく。
指先は朝露に濡れて冷え切っているが、木製の弓を握る掌には確かな力と熱が宿っている。
かつての私は、この冷たさにただ震えることしかできなかった。
故郷の森を追放された夜、私の心は恐怖と絶望で完全に凍りついていた。
理由なき迫害を受け、小さな舟で海へ逃れるしかなかったあの時の記憶は、今でも時折、私の背筋を冷たい指でなぞる。
太陽の光を遮る嵐と、高くうねる黒い波に翻弄され、舟が砕け散った時の絶望感。
海水を飲み込み、肺が焼けるような痛みにのたうち回りながら、無人島の砂浜に打ち上げられた。
あの時の私は、文字通り空っぽだった。
胃の腑は飢えで収縮して激しい痛みを放ち、手足は自分の意思を無視して小刻みに震え続けていた。
泥にまみれ、生きる気力すら失いかけていた私を繋ぎ止めてくれたのは、あの黄金色に輝く焼き魚の匂いだった。
タクトが差し出してくれた、熱を帯びた魚の身と、それを受け入れた時の胃の底から湧き上がるような温かさ。
それは単なる食事ではなく、私の命そのものを再び燃え上がらせるための炎であった。
今の私の体には、彼が作り出す極上の料理によってもたらされた、尽きることのない活力が満ち溢れている。
視界の先の茂みが、風もないのにわずかに揺れる。
私は思考を現在に引き戻し、弓を構えて弦を静かに引き絞る。
肩の筋肉が滑らかに動き、背中の肩甲骨が中央に寄って力を蓄積していく。
茂みの中から姿を現したのは、頭部に鋭い角を持つ、大型の鹿に似た獣である。
警戒するように耳を動かし、地面の苔を食むために無防備な首を下へ向ける。
私は獣の肩甲骨の少し後ろ、心臓へと繋がる太い血管の位置を視界の中央に固定する。
指先の力を抜き、弦を解放する。
張り詰めていた弦が空気を切り裂く鋭い音を生み出し、銀色の矢尻が夜明け前の薄闇を一直線に駆け抜ける。
矢は寸分の狂いもなく標的の急所に深く突き刺さり、獣は短い悲鳴を上げる間もなく地面へと崩れ落ちる。
私は木から軽やかに飛び降り、倒れた獲物の元へと歩み寄る。
温かい血の匂いが広がり、私は獣の頭を撫でて森の恵みに静かな感謝を捧げる。
この命は、私の大切な居場所を守るための力となり、あの温かい食卓を彩る糧となる。
獣の後ろ脚を太い蔦で縛り上げ、肩に担ぐ。
重量はかなりのものだが、タクトの料理で鍛え上げられた今の私の体にとっては、心地よい負荷でしかない。
木々の隙間から朝日が差し込み始め、緑の葉が黄金色に輝き出す。
拠点の方向へ向かって歩き出すと、森の出口が近づくにつれて、風に乗って微かな煙の匂いが漂ってくる。
それは木を燃やす匂いだけでなく、香草を煮込む刺激的な香りと、肉を焼く濃厚な匂いが混ざり合った、この世で最も胃を刺激する香りである。
森を抜けて開けた場所に出ると、朝日に照らされた白亜の巨大な拠点がそびえ立っている。
広場のかまどの前では、タクトが石鍋の中身を木の匙でかき混ぜている。
その横ではドリスが真新しい木材の表面を削り、ミアが拠点の周囲を走り回って小さな薪を集めている。
「タクト、大物を仕留めたぞ。脂が乗っていて、良い肉だ」
私が声をかけると、タクトは振り返って優しく微笑む。
「おかえり、ルミナ。ちょうどスープのベースが完成したところだ。その肉を加えれば、最高の朝食になる」
彼の言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥底で、かつての孤独な冷たさが完全に溶け去っていくのを感じる。
ドリスが手を止めて豪快に笑い、ミアが私の足元に駆け寄ってきて尻尾を激しく振る。
私は肩の獲物を下ろし、足早に彼らの輪の中へと入っていく。
漂泊の果てにたどり着いたこの小さな島が、今では私にとって、世界中のどこよりも暖かく、愛おしい本当の故郷になっていた。




