43 果て
分かっていた……。
こんなの、自分らしくないなんて。
でも、これしか、無かった……。
でもそれも、もうお終い、ね。
渾身の誘惑でも、彼は靡かなかったんだから……。
「ごめん、なさい……」
恵美はゆっくりと言葉を吐き出す。
涙が止まらなかった恵美を、和人はゆっくりと椅子に座らせた。
そして、恵美が落ち着くのを、辛抱強く待っていてくれた。
そのまま置き去りにするわけでもなく、優しく撫でてくれるわけでもなく……、ただ、じっと待っていてくれた。
一言の、文句も言わずに。
それが彼流の気遣いだということは、痛いほど分かる。
置き去りにされれば傷つくし、触れられればまた、情が出る。
だから彼は、ただ待っていてくれたのだ。
「俺の方こそ、ごめん。時間かけて、君を追い詰めた。あの時……ちゃんと答えを出しておくべきだった。ごめんな……」
和人の声。今まで聞いたこともないような、沈んだ声だ。
でも、それが優しく感じるのは、何故だろう。
「やっぱり……優しすぎるよ……ずるいくらい」
「……もう直らないよ。そういう、性格だから」
その優しさが、好き、だった。
自分のせいで、悲しませない。
そんな意思を、感じたから……。
「ねぇ……一つ、聞いてもいい?」
無意識に、口が動いていた。
「何?」
「君は時々、怖いくらい厳しい顔、するよね? 何か、大きなものを諦めた、ような目も……」
高校時代に見た、あの表情。
「それって、もしかして、七海ちゃんと関係、あるの?」
見つめる和人の顔が、驚きの表情に変わる。
私が気付いてないとでも、思ってたのかしら?
「何が原因だかは、自分でも分からない。瑞穂にも言われたんだけどな……」
さすが先輩だね。
「記憶と七海の事、話そうか……」
彼はゆっくりと、事の顛末を話してくれる。
それは初めて聞く、彼と七海ちゃんとの、切ない過去。
それを乗り越えた二人の間に、私の入る隙間なんて、これっぽっちも無い……。
はっきりと、そう、感じた。
「これでもう、お終いね……」
ずっと近くに居た。
ある程度の意思の疎通も、出来ていたと思う。
楽しい時も、苦しい時も、共に過ごしてきた。
親友でもあり、戦友でもあった。
でも……会うことも、無くなる。
あんな事を、してしまったし……。
彼にも七海ちゃんにも、合わせる顔が無い。
だから……これで最後……。
恵美は立ち上がると、荷物へと手を伸ばす。
「……終わりじゃないよ。ここから、また始まるんだ」
「……え?」
予期せぬ和人の言葉に、恵美は振り返る。
「これで終わりにしたら、七海が悲しむ」
……何よ、それ?
「七海だけじゃない。心配してくれた……皆が、悲しむよ」
皆が……悲しむ……。
愛が、沙紀が、司君が……そして、七海ちゃんも。
皆を悲しませることは、本意じゃない。
本当に、どこまでも優しいのね……。
「でも……そしたら、私は……私は、どうしたらいいの?」
叶わない想いを抱いたまま、同じように接しろと?
そんなの……。
「七海と……競い合いなよ」
え?
「俺が言うのもなんだけど、君は自分を過小評価し過ぎ、だよ」
和人はいつものと同じ、柔和な表情だ。
「正々堂々、七海と張り合って、俺の事を奪い取ってみなよ? さっきみたいな手段、じゃなくてさ」
……何? この自信過剰な発言は。
「それとも、自分はあの子よりも魅力が無いって、認める?」
なんかムカつく……。
何がって、その余裕のある顔が、よ。
ちょっと前まで、息も絶え絶えだったくせに。
「誰が魅力が無いって?」
「その意気だよ。しおらしい君は、らしくないぜ?」
「どうせ私には、似合わないわよ」
上手く乗せられてる気がするけど。
でもこの空気感が、正直ほっとする自分が居た。
彼の甘さが移った、かな……。
でも。
「本当に……挑んでいいワケ?」
「言い出した俺が、逃げるワケにはいかないだろ?」
そう答える彼の目に、強い光を感じた。
ああ……なるほど……。
皆の為、今までのままで居よう。
例え、七海ちゃんとの間の火種になっても構わない。
二人で、その業を背負おう。
それが、彼の提案であり、答え。
そんな彼の意思が、今までに無いくらい、はっきりと分かった。
どこまでも甘く、優しくて。それでいて、自分には無理をして。
でも、いつもとは一つ、違った。
自分だけでなく、私にも、それを望んだ。
彼が他人にそれを求める事は、今までに一度も無かった。
それはある種の共犯者意識か。
そう思うのは、あの人に憧れを抱き、あの子を傷つけた自分への報い、なのか。
いずれにせよ、それに伴う影響は、自分達だけで受け止めるべき、と……。
「どうしても……ダメだったら、もう一回だけ、被ってイイ?」
「それは……勘弁してくれ。もう一回言い寄られたら、拒絶できる自信なんて、これっぽっちも無いわ」
和人は苦笑いしながら、指で小さく隙間を作って見せる。
「あは。冗談よ。もう……恥ずかしくて出来ないよ」
言外に、秘密よ? と意味を込める。
彼がそれに気が付かないはずがない。
七海ちゃんにも教えない、小さな秘密。
これくらいは、許してくれるよね……。
「愛、呼んでくれる?」
「ああ」
学内のどこかで待っているはずだ。
和人がケータイを操作する間に、恵美は閉めておいたドアを開ける。
部屋の空気が、少しずつ入れ替わる。
「ちょっとしたら、来るって」
「そっか。ありがと」
これで良かったのかなんて、分からない。
いや、今結論付ける事ではないのかもしれない。
そしてそれを思うのは、もっと先になってからなんだろう。
「ねぇ……もし、どこかで、何かが違ってたら、私達、恋人として、付き合ってたと思う?」
「そうだな……。瑞穂先輩の事とか、色々あるけれど……」
「うん……」
「タングラムってパズル、あるだろ? 一つの形に、色々な置き方が出来るヤツ。使うピースは同じなのに、全く違う置き方が出来る。……俺達も、そうだったんじゃないかな? 違うピースの置き方、合わせ方をしていたら、そうなってたかも、しれない、な」
タイミングや順番、組み合わせ。
一つでも違っていたら、また結果も違っていた。
「もし、七海ちゃんと再会する前に付き合っていた、としたら?」
「多分、普通の、幼馴染みとの再会、で終わっただろうね。君が妬かなきゃ、だけど」
……果たして、そうだろうか。
彼は自分の記憶の欠落に気付き、悩むだろう。
多分、私もそれに気付き、何らかのアクションを起こす。
もしかしたら、今の自分の立場に、彼女が居たかもしれない。
もしくは、もっとドロドロと愛憎劇を繰り広げるか。
まぁ、そうありたいとは思わないけれど。
それが、巡り合わせ、なんだろう。
人はそれを、運命、と呼ぶのかもしれない。
「お待たせー」
オープンドアの向こうから、いつもの赤い眼鏡が見える。
「あれ……ずいぶんと落ち着いてるじゃない?」
「もっと修羅場だと思ってた?」
「ううん。あなた達のことだから、それは無いと思ってた。さ、ご飯行こう? 司が首長くして待ってるよ?」
愛は何事も無かったかの様に振る舞う。
多分、愛は気付いてる。
私と彼が、どういう選択をしたのか。
今は愛の優しさに、甘えよう。
もう一度、彼との距離が落ち着くまで……。




