42 仮面
「柳……離して……」
和人は必死に声を絞り出す。
恵美のあまりの豹変ぶりに、頭が付いていかない。
「どうして? 私とくっついてるの、イヤ?」
甘く切ない声が、脳髄をダイレクトに刺激する。
「ふふっ。イヤじゃないよね? 君は優しいから、無理に振りほどいたりしないもんね?」
ふと、姉の言葉が頭をよぎる。
『あんまり優しすぎると、女の子、泣かすかもよ?』
まさか、こんなことに……。
何とか、止めさせないと……。
「……んっ」
恵美が和人の耳を甘噛みする。
痺れるような感覚が、体を走り抜けていく。
「ふふ。気持ちいい?」
恵美の問いに、答えることも出来ない。
そのまま、恵美は和人の耳に舌を這わせる。
濡れる、何とも言えない感触。
それらが、徐々に理性の壁に食い込んでいく。
「ねぇ? 七海ちゃんと……シたの?」
「……なっ?」
「うふふ。照れちゃって。カワイイ」
恵美は和人の耳に、頬に、首筋に、キスを繰り返す。
「可愛いだろうなぁ? 身悶える七海ちゃん。……んっ。想像しただけで、妬けちゃうなぁ?」
甘噛みを繰り返しながら、甘く呟く。
いつのまにか、片手は握り締められていた。
残る片手で、恵美は和人の顔をそっと撫でる。
「ねぇ……私と……シたい?」
決して唇を耳から離さずに、甘く囁く。
「……」
和人は唇を噛んで耐えていた。
「んもぅ。強情だなぁ……」
恵美の指が、和人の唇を撫でる。
いつかとは違い、扇情的に。
「……やな、ぎ……止めてくれ……」
再び言葉を絞り出す。
すると、どうだろう。
恵美は、和人を抱いていた腕を離した。
今のうちだ。
とにかく態勢だけは立て直したかった。
和人は立ち上がろうとしたが、足元が覚束ず、手近な机に寄りかかる感じになってしまう。
そこへ、今度は正面から、恵美は体を入れてくる。
止める間もなく抱きしめられ、首筋にキスをされ、その唇は再び耳元へと向かう。
その勢いに押され、和人は机に腰掛ける状態になる。
体は、完全に密着した状態だった。
「私の鼓動……分かる?」
さっきまでと同じように、耳を弄られながら、囁かれる。
彼女の体のふくよかさが、はっきりと分かる。
しっかりと抱かれる腕の感触。
同時に感じる、彼女の匂い。
その全てが、理性を穿ち続ける。
「私は……君が、欲しいよ……」
恵美が少しだけ顔を上げて、正面から見据えてきた。
鼻が触れ合う距離。
彼女の瞳が震えている。
「ねぇ……抱き締めて、キスして? そしたら……私を、アゲる」
甘い誘惑に、持っていかれる……。
限界ギリギリだった。
冷静な判断なんて、する余裕は無くなっていた。
「柳……」
和人の声に、恵美は目を閉じる。
無意識のうちに、手が伸びる。
だがその手が届く一瞬前に、和人は手を止めた。
あれは……?
目を閉じた恵美の目尻から、小さく流れるものが見えた。
そしてその涙が、和人の頭の中に一つのシーンを呼び起こす。
泣き濡れる、七海の顔。
もう……そんな顔を、させたくない。
それだけが、はっきりとした意思として現れた。
和人は恵美の両肩を掴むと、ぐっと押し戻す。
「ごめん……それは出来ない。それに……こんなの、俺の知る、お前らしく、ない……」
その言葉に、恵美は目を見開いた。
そして零れ落ちる、大粒の涙。
その表情は小悪魔ではなく、いつもの恵美の顔だった。
無理に被っていた仮面は、涙と共に音も無く剥がれ落ちた。




