35 真実
七海が……望んだ……?
意味が、分からない……。
七海が、忘れるように、言った?
俺に?
自分の事を?
「どういう……事?」
和人の声。かすれている、と思う。
七海が、ゆっくりと顔を上げる。
鼻先という距離で見つめ合う。
涙で濡れた、七海の顔。
記憶の中と同じ、泣き顔。
そのイメージに、わずかにノイズが走り始める。
「この前、旅行の時に……約束……覚えてるって、言った……でしょ?」
「うん。覚えてる……」
心地よい風が吹く中庭で、確かに七海はそう言った。
「あれで……確信したの。和くんは、覚えてないって……」
「何で、あれで?」
「だって……覚えてたら、覚えてるって言うだろうし。それに……覚えてなかったら、思い出そうとするでしょ? 和くんは……覚えてないなんて、言わないから……」
その通りだった。
あそこで覚えてる、と言えなかった事は、覚えてないのと同じ答えだ。
「お見通しだった、のか……」
「うん……」
「ごめんな……」
和人は再びうな垂れる。
「……謝らないで、って……言ったでしょ?」
七海の手が、そっと和人の頬に触れる。
柔らかい、暖かい感触。
「あの約束の中身……それが……」
七海は、一瞬呼吸を止めると、静かに言葉を続ける。
「私の事、忘れてほしい……。それが、十年前……雨の降るあの日に交わした……最後の約束……」
そんな……。
そんな事って……。
信じられなかった。
彼女の言葉ではなく、そんな約束をした自分の事がだ。
そして、その約束を守っていたというのか?
確かに、あの日は雨だった。
雨の中、あの軒下で……。
頭の中のノイズが大きくなる。
「あ…あ…」
「だから、カラオケの時、覚えてる? て言われて……びっくりした。驚きと、嬉しさと……後ろめたさと、不安。それらが混ざった、よく分からない感じがした……」
ただ、呆然と七海の言葉を聞くしかなかった。
「忘れてしまえば、楽になれる。子供ながらに、そう思った。だから……無理やり、そんな約束をした。でも……私は忘れられなかった……」
七海の手が、ゆっくりと和人の顔を撫でる。
「忘れられるワケなんて、なかった! あんなに……あんなに大好きだった和くんのこと、忘れるなんて、出来るわけ無い……」
七海は小さく首を横に振る。
その目から、また涙が零れる。
そうだ……。
あの雨の中、軒下で、泣きながら抱き合っていた。
七海は、涙声で連呼していたんだ。
忘れて……と。
それに対して、和人も繰り返した。
イヤだ……と。
「振り切るように、私は車に乗った。最後くらいは、笑顔で別れたくて……でも、涙が止まらなかった……」
「うん……その瞬間だけが、ずっと忘れずに残ってた……」
「車が角曲がって、見えなくなるまで、走って追いかけてくれたよね……」
「うん。途中で傘も投げ出して……でもすぐ見えなくな……!」
和人の頭の中の、ノイズが消えた。
「思い……出した……」
「え?」
あの日の出来事が、フラッシュバックする。
軒下で、抱き合って――して。
車を追いかけて。
ずぶ濡れで、泣き叫んでいた。
「あの後、ずぶ濡れで家に帰った。親は、何も言わず、ただ拭いて着替えさせてくれただけだった。そして……そのまま、部屋で泣いてた……」
和人もいつのまにか泣いていた。
涙が頬を伝わるのが分かる。
「ずっと泣いて、泣き疲れて寝て、起きてまた泣いて……」
「うん……」
「雨に打たれすぎたからかな。高熱を出したんだ。朦朧とした意識の中で、何かを箱に詰めて、物置の奥へしまった。多分、それが……君との思い出の品、なんだと思う」
だとすれば、姉貴は嘘をついた、ということになる。
いや、あの時の自分は、常軌を逸していたのかもしれない。
「そこまで……したんだ……」
「存在を、忘れたくなかった。でも……君は忘れて、と言った。だから……思い出を、封印したんだ」
「うん……」
七海は、和人の背中を優しくさする。
「そんなこと、する必要もなかったのに……。君の言葉のせいだけじゃない。俺は……逃げたんだ。君を想うことから……だから……だから!」
「もういいよ、和くん。もう、いい……」
七海は再び、和人の体を抱きしめる。
「うっ……なな……み……っ」
和人もそっと七海の体に腕を回す。
「帰ろう? あの場所へ……二人で……」




