36 解放
七海の体の柔らかさを感じながら、ただ泣いていた。
涙だけが、止まらなかった。
七海は何も言わず、逆に和人の背中を、頭を撫でていた。
その体も、わずかに震えている。
十年越しに思い出したわずかな記憶は、濃密な感情の塊だった。
それが、体中を駆け回っている。
溢れ出てしまえば、どうにかなってしまいそうな。
そんな思いが、余計に体を強張らせる。
「怖い……?」
七海が、和人の耳元で優しく呟く。
「……怖い、かもしれない……」
自分が止められなくなりそうな、そんな恐怖。
でも……でも!
「思い出したい……七海と……何をしてきたのか……。どうやって過ごしてきたのか……。全部、思い出したい……」
記憶の中の少女は、泣き顔のまま。
空白の十年の前にある、空白の記録。
封印された扉の向こう側。
隙間から漏れた欠片を拾い集めても、その全容は分からないままだった。
そして、その扉を開ける鍵は、彼女が持っている。
「うん……。覚悟が決まったら、言って……?」
体を抱きしめられたまま、小さく頷く。
再会してから、約二ヶ月。
ずっと追い求めてきたものが、そこにある。
周りの仲間にも、心配されて、迷惑をかけて。
その埋め合わせも、しなくちゃならないね……。
自分の不甲斐無さが、情けなくて堪らない。
それでも、今、傍に感じる存在。
それがとても大切なものであると。
その存在を感じて、ゆっくりと呼吸を整える。
和人は、ゆっくりと体を離す。
涙で濡れた顔はそのままだけど、それをおかしいとは思わないだろう。
「……いい?」
七海の言葉に、和人はゆっくりと頷く。
七海はちょっと微笑んだようだ。
おもむろに和人の右手を取ると、指を絡めて握る。
細く繊細な指が、食い込んでくるような錯覚すら覚える。
そっと顔を近づけて、額が触れ合う。
七海の右手が、顔に添えられる。
「これで……あの約束は、お終い……ね?」
「うん……」
額が離れるのを感じて、目を閉じる。
唇が触れ合う。
それは優しく、震えていた。
十年前と同じ、涙味の感触。
その感触に、頭の中が十年前に戻り出す……。
しとしとと、雨の降る日だった。
当時は借家だと知らなかった七海の家の軒下で、泣きながら抱きしめあった。
七海の両親は、もう宥める事すら諦めていた。
自分達の都合で娘が泣いているという現実が辛かったんだろうと、今になれば思える。
七海が引っ越す、という話が和人の耳に聞こえたのは、引越しのわずか一週間前だった。
学年も違う為、転校するという話も伝わってこなかった。
七海は、ずっと言い出すのを躊躇っていたのだろう。
何となく様子がおかしいことに、気がつかないワケではなかったけれど、彼女は頑なに否定していた。
問い詰めた結果、夕日に暮れる公園の噴水の前で、淡々と話す七海の姿。
あの時、七海は想いを封印して去っていくつもりだったのだろう。
でも、離れ離れになるという事実に、湧き上がった和人の感情の方が強かった。
子供には、どうしようもない現実。
それに気付いてしまった悲しみ。
自分の半分を、持っていかれるような恐怖。
『言ったら、辛くなるって、分かってた……』
それが、涙の始まりだった。
小さい頃から、一緒だった。
物心ついた時には、傍に居た。
年の離れた姉は、和人の遊び相手にはならず、たまたま近所に子供が少ない年代だった。
保育園が一緒だった。共に共働きの家に育ち、迎えを一緒に待っていた。
活発な少女だった彼女は、小学校に上がっても、和人達の中に混ざって遊んでいた。
一緒に過ごした時間は、姉よりも長いかもしれない。
お互い鍵っ子だった。和人の姉は部活などで帰りが遅かったし。
そんな寂しい時間を、お互いで埋めていた。
依存していた、と言ってもいいかもしれない。
お互いが、拠り所だった。
ずっと、そうやっていられるものだと、思っていた。
あの、雨の日まで……。
スライドショーの様に、思い出が頭の中を流れる。
小さき少年少女の姿。些細なやりとり。
バレンタインのチョコレート。
誕生日のプレゼント。クリスマスのプレゼント交換。
一緒に出かけた街、公園、川の土手。
それぞれの親に連れて行ってもらった、海や遊園地。
悪戦苦闘しながら作った、お昼ご飯。
雷に怯えた、夏休みの夕方。
庭でやった花火。
自転車に乗る練習も、手伝ったっけ。
雪の日に一緒に作った雪だるま……。
時には可愛い妹分であり、時には頼りがいのある友人であり。
誰よりも、お互いを信じていた……。
あちこちに、数え切れないほどのエピソードが転がっている。
「うぁ……ぁぁ……」
声にならない叫び声が漏れる。
忘れていたなんて……。
俺は……俺、は……。
また涙が溢れてくる。
「和くん……」
そんな和人の頭を、七海がそっと抱きかかえる。
「泣いて、いいよ。おもいっきり泣いて、いいから……」
限界、だった。
「ご……めん。っぐ……」
「いいよ。大丈夫だから……ね?」
声を上げて泣いたのは、十年ぶりだった。
その間、七海はずっと和人の頭を、優しく抱いていた。
やはり、その顔もまた、涙で濡れていた。




