第3話 でも、1だった
暦が語り終えたとき、俺はしばらく動けなかった。
六畳の部屋はしんとしていた。蛍光灯だけが、じじ、と鳴っていた。
俺の手の中には、まだあの日記があった。三年前で途切れて、その先が白紙のままの、布張りの一冊。
その途切れた意味が、今、わかってしまった。
あの夜、暦は暗い部屋で、朝が来なくていいと思っていた。そして、たまたま開いた俺の話のたった一行に繋ぎ止められた。
日記が途切れたその先を、あちらのノートが引き継いでいたんだ。
あの日、書斎で見た、いちばん古い一冊の最初のページ。あの乾いた水滴の跡。この一冊が白紙になったところへ、そのまま、あのページが継ぎ足されていた。
自分を採点する場所をやめて、零時二分を待つ場所へ。彼女は、ペンを持ち替えたんだ。
***
三年間、俺にはたった一人の読者がいた。
顔も名前も知らなかった、あの「1」。何を上げても、どんなに拙くても、日付が変わってぴったり二分に必ず付く、たった一つのPV。
俺は、その一に何度救われたかわからない。
同じ頃に始めた書き手は、半年ももたずに更新が途絶え、アカウントごと消えていった。数字が伸びなければ、人は書けなくなる。それがこの世界の当たり前だった。俺も何度も、やめようと思った。
それでも俺が三年、指を止めなかった理由はひとつだけだった。
ゼロじゃない。
「……でも、1だ」
俺は、いつもそう呟いていた。
誰も見ていなくても、ここに一人はいる。それだけで、俺は明日もまた零時に投稿ボタンを押せた。あの一は、俺にとって世界そのものの重さがあった。
どんな夜も、あの人だけは遅れなかった。零時二分。一秒の狂いもなく、三年間、一度も欠けたことがない。
俺は、ずっと思っていた。
――どんな人なんだろう、と。男か、女か。俺と同じ歳か、ずっと年上か。俺の泥臭い話の、どこを気に入ってくれているのか。
その人は、あの梅雨の日に、現れた。優奈に捨てられて、ずぶ濡れのまま、もう何もかもどうでもよくなっていた俺の頭の上に、黙って傘を差して。
誰なのかを俺が自分で確かめたのは、その少しあとだ。零時二分。俺の背中側で、その人は、俺の一行目を読んでいた。
けれど俺は、そこでわかった気になっていただけだった。
まさか、その人の命を俺の書いた話が救っていたなんて。……思いもしなかった。
***
その、俺の話に命を救われた人が、今、目の前にいた。
「……俺の話が」
声が、うまく出なかった。
「あんな、誰にも読まれなかった、泥くさい話が。あの夜の、君の命を……この世界に、繋ぎ止めていたのか」
「はい」
暦は、静かに頷いた。
「あなたの、あのたった一行がなければ。わたしは、あの夜を、越えられませんでした」
胸の奥が、熱くなった。
俺は、ずっと勘違いしていた。
暦は、俺に救われたと言った。俺の物語が彼女の命綱だったと。だから俺は、自分が彼女に何かを与えた側なんだと、どこかで思っていた。
違った。
あの三年間、俺のほうも、暦に生かされていたんだ。
誰にも読まれないゼロの夜を、あの「1」がいたから越えられた。俺が「生きろ」と書いた言葉で暦が夜を越え、その暦がくれた一で、俺もまた次の夜を越えていた。
俺たちは三年間、互いの命綱を握り合っていた。
零時二分の、両側で。
思えば、俺が「でも、1だ」と呟いていたあの夜、画面の向こうの暗い部屋で、同じ数字を見つめていた人がいたんだ。俺の「1」と、彼女の「あなた」。まるで違う場所から、俺たちは同じ一つの数字を見ていた。
顔も名前も知らないまま。それでも、世界でいちばん近くにいた。
「……なんだよ、それ」
俺は、笑おうとして失敗した。目の奥が熱くて、うまくいかなかった。
「俺が、君を救ったんじゃない。俺だって、あの1があったから、ここまで書いてこられたんだ。おあいこじゃないか。ずっと、おあいこだったんだ」
暦の灰色の瞳が、大きく揺れた。
そして、彼女の頬を、涙が一粒、伝った。
氷の令嬢が泣いていた。学校では誰にも見せたことのない顔で。三年分の零時二分を、全部ほどくみたいに。
俺は、そっと手を伸ばそうとした。
けれど、その手が途中で止まった。
暦が、畳に三つ指をついたからだ。
「ありがとうございます、神様。あなたのおかげで、わたしは、今日まで生きてこられました」
深く、頭を垂れる。銀の髪が畳に流れた。
その姿は、あまりにも美しくて。
嬉しさと同じだけのこわさが、俺の胸にこみ上げてきた。俺は、この人の命を生かした。けれど、それは同時に、この人の命を俺一人に繋いでしまったということだった。
そして――あまりにも、危ういと、俺は初めて気づいてしまった。
「俺が、君を救ったんじゃない。……ずっと、おあいこだったんだ」。零時二分の両側で、二人が握り合っていたものに胸が熱くなったら【泣ける】を。それでも畳に三つ指をつく彼女の続きは、ブクマで。




