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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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23/24

残響の果て、静かなる潮位

 沙也加さやかが息を引き取ったのは、それから三日後の、ひどく雨の強い夜明けだった。

 モニターの電子音が静かな平坦音フラットに変わった瞬間、病室には言葉では言い表せないほどの絶対的な「無」が訪れた。高瀬は彼女の手を握ったまま、窓の外で降りしきる雨の音を聞いていた。

 葬儀は、彼女の遺志に従い、ごく親しい親族だけで執筆された。

 高瀬は「元夫」という、どこか宙に浮いたような立ち位置で、焼香の列に並んだ。立ち上る線香の煙が、鼻の奥をツンと突く。

 骨を拾い、骨壷の中に収める。カツン、という乾いた音が、彼女という人間がこの世から物質的に消滅したことを冷酷に告げていた。

 すべてが終わったとき、高瀬を包み込んだのは、深い悲しみというよりは、得体の知れない**「やるせなさ」**だった。

 十年間の愛憎。共に歩み、傷つけ合い、最後にはこうして一方が去り、一方が残される。

 沙也加が最期に遺した言葉が、耳の奥で何度もリフレインしていた。

『……あなたが、あなたらしくいられる場所で、幸せになりなさい』

 それは彼女からの**「赦し」であり、同時に高瀬に課せられた「これからの人生」**という宿題でもあった。

 けれど、今の高瀬には、その光の方へ歩き出すための燃料が、一滴も残っていなかった。

 *

 葬儀からの一週間、高瀬は誰とも会わず、麻衣にも連絡を入れなかった。

 一通だけ、『すべて終わりました。少し、時間をください』という短いメッセージを送ったきりだ。

 彼は自分のアパートで、ただぼんやりと天井を眺めて過ごした。

 沙也加がいなくなった世界。かつてあんなに自分を縛り、執着していた彼女の気配が、この世から完全に消えた。それは望んでいた自由であったはずなのに、心の中にぽっかりと空いた巨大な「余白」が、冷たい風をヒューヒューと鳴らしている。

(……僕は、これからどうやって歩き出せばいいんだろう)

 彼女の想いを無駄にはしないと誓った。けれど、一人の人間がこの世を去るという事実の重みは、四十三歳の男の精神を容易く磨り減らした。

 彼は鏡を見た。やつれた顔。白髪が少し増えたかもしれない。

 そんな自分を、麻衣はどう思うだろうか。

 

 麻衣。

 その名前を頭の中で唱えるたびに、心の底に澱んでいた重たい泥が、少しずつ揺り動かされるのを感じた。

 彼女は待ってくれているだろうか。

 こんな死の影を引きずったままの自分を、彼女は再び受け入れてくれるだろうか。

 高瀬は、沙也加が最期に握りしめていた手の感触を思い出した。

 彼女は自分のために、自分の意地を捨てて、彼を光の中へ押し出した。

 その勇気を無駄にすることは、沙也加という女性の死を無駄にすることと同義だ。

 一週間目の朝、高瀬はシャワーを浴び、丁寧に髭を剃った。

 喪服を脱ぎ捨て、いつもの、けれど清潔な服に袖を通す。

 彼は、重い扉を開け、一歩外へ踏み出した。

 *

 同じ頃、佐伯麻衣さえき まいは、いつものようにキッチンに立っていた。

 

 一週間。高瀬さんからの連絡はない。

 けれど、麻衣の心は不思議なほどに凪いでいた。

 

 彼女は信じていた。高瀬という男の、あの悲痛なまでに誠実な横顔を。

 彼は今、自分の過去を弔っている。十年分の記憶を灰にし、新しい自分を再構築している。その過程に、自分が踏み込んではいけないことを、麻衣は知っていた。

「……信じて待つのが、私の仕事」

 麻衣は、高瀬さんがいつ来てもいいように、野菜を切り、出汁を引いた。

 タッパーに詰められた作り置きの料理たちは、まるで彼を待つ灯台の明かりのように、冷蔵庫の中で静かに並んでいた。

 

 四十三歳の恋は、激しく求め合うことではない。

 相手の孤独を尊重し、戻ってくる場所を温めておくこと。

 かつての結婚生活ではできなかった「待つ」という行為が、今の麻衣には、最高の愛情表現に感じられた。

 午後八時。

 不意に、玄関のチャイムが鳴った。

 麻衣は、静かに、けれど震える手でエプロンを解いた。

 ゆっくりと廊下を歩き、扉を開ける。

 そこには、一週間前よりも少し痩せ、けれど瞳の奥に静かで力強い光を宿した高瀬が立っていた。

 

「……高瀬さん」

「……麻衣さん。遅くなって、すみません。……ただいま」

 その声を聞いた瞬間、麻衣の視界が滲んだ。

 やるせなさ、孤独、死の匂い。それらをすべて背負ったまま、彼は約束通り、彼女の元へ帰ってきたのだ。

「……おかえりなさい。高瀬さん」

 麻衣は彼を招き入れ、その広い背中にそっと手を添えた。

 

 物語の長い、長い「余白」の季節が、今、静かに終わろうとしていた。

 部屋の中に漂う、温かな出汁の香りが、二人の凍えた心をゆっくりと、けれど確かに溶かしていく。

 過去は終わった。

 けれど、それは喪失ではなく、新しい地図を描くための空白だったのだと、二人は確信していた。


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