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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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22/24

水底の鏡、あるいは赦(ゆる)しの色

 深夜の病院は、まるで深い海の底に沈んだ沈没船のように静まり返っていた。

 時折聞こえてくるナースステーションの電話の音や、遠くで響くリノリウムを叩く足音さえも、この「一九〇号室」の重苦しい静寂をより際立たせるアクセントに過ぎなかった。

 高瀬は、沙也加さやかの枕元に置かれたパイプ椅子に腰掛け、細くなった彼女の手をそっと握っていた。

 沙也加の呼吸は、一週間前よりもずっと浅くなり、時折思い出したかのように肺が大きく波打つ。彼女を縛り付けていた点滴の管やモニターの配線は、今や彼女という存在をこの世に繋ぎ止めるための、最後の細い糸のようだった。

「……高瀬君」

 微かな、羽虫の羽ばたきのような声。

 高瀬は身を乗り出し、彼女の顔を覗き込んだ。

「ああ、ここにいるよ。何か飲みたいか?」

「いいえ。……ねえ、少しだけ、灯りを点けてくれる?」

 高瀬が壁のスイッチを入れ、間接照明の柔らかな光が病室を照らし出した。

 沙也加は眩しそうに目を細め、ゆっくりと高瀬の顔を凝視した。その瞳は、病で衰えてはいても、かつて高瀬を射抜いたあの鋭い知性を失ってはいなかった。

「……あなた、変わったわね」

「……そうかな。もう四十三だ。老けただけだよ」

「違うわ。顔つきよ。……なんだか、とても穏やかで、それでいて、どこか必死に何かを守ろうとしている。……そんな目、私といた十年間の間、一度も見せてくれなかったじゃない」

 沙也加は、乾いた唇をわずかに歪めて、力なく笑った。

「……女の勘を、舐めないで。……ねえ、いるんでしょ。素敵な人が。あなたが、今の自分の人生を『やり直したい』と思えるような、大切な人が」

 高瀬は、一瞬だけ呼吸を止めた。

 否定することも、誤魔化すこともできたはずだ。死にゆく女性に対して、新しい恋人の存在を語ることは、残酷な仕打ちに思える。

 けれど、高瀬は知っていた。ここで嘘をつくことは、沙也加という女性への最大の不誠実であり、彼女との十年間に泥を塗ることになると。

「……ああ。いるよ」

 高瀬の声は、低いが、一点の曇りもなかった。

「君に話さなければならないと思っていたけれど……まさか、自分から言い出されるとは思わなかった」

「ふふ、やっぱり。……どんな人なの? 私とは、正反対の人?」

 沙也加の問いに、高瀬は視線を落とし、麻衣のことを思い浮かべた。

 エプロンを締めてキッチンに立つ後ろ姿。

 水族館の青い光の中で、戸惑いながら差し伸べてくれた手。

 不器用な自分を、その年齢も含めて丸ごと受け入れてくれた、あの穏やかな微笑み。

「……正反対かもしれないな。とても静かな人だよ。自分の人生を、自分の手で丁寧に整えて、一人の孤独を知り尽くしている人だ」

 高瀬は語り始めた。麻衣との出会い、彼女が作る出汁の香り、二人で観た映画のリスト、そして、彼女もまた自分と同じように一度、人生の完成図を手放した経験があること。

「彼女といると、自分が『わがまま』でいいんだって思えるんだ。……いや、違うな。僕のわがままを、彼女は『自分の一部』として面白がってくれる。……沙也加、君を苦しめた僕のあの性質を、彼女は『それこそが高瀬さんだ』と笑ってくれたんだ」

 沙也加は、黙ってその話を聞いていた。

 かつての彼女なら、逆上し、嫉妬の炎を燃やしただろう。けれど、死という絶対的な孤独を前にして、彼女の魂は別の高みへと至っていた。

 高瀬が語る「麻衣」という女性の影の中に、自分がかつて手に入れることができなかった「安息」の形を見たのかもしれない。

「……そう。よかったわね。……やっと、あなたに相応しい『余白』を埋めてくれる人に出会えたのね」

 沙也加の瞳から、一筋の涙がこぼれ、耳元へと流れていった。

 彼女は高瀬の手を、残された最後の力を振り絞って握り返した。

「……ねえ、高瀬君。……これが、今の私にできる精一杯の言葉よ」

 彼女は深く、深く息を吸い込んだ。

「……私のことは、もういいの。私は、あなたという人を愛して、憎んで、それでもあなたと一緒にいたかった。……でも、その役目はもう終わったんだわ。……だから、その人のところへ行きなさい。……私の分まで、とは言わない。……あなたが、あなたらしくいられる場所で、幸せになりなさい」

「沙也加……」

「これが、私の最後のプレゼント。……あなたを、赦すわ。……そして、私も、私自身を赦すことにする。……今まで、ごめんなさい。……そして、……愛していたわ」

 その言葉を最後に、沙也加は安らかな眠りに落ちた。

 モニターの波形はまだ動いているが、彼女の心の中にあった激しい嵐は、今この瞬間、完全になぎへと変わったのだと、高瀬には分かった。

 高瀬は、彼女の手を額に当て、声を殺して泣いた。

 それは、失われた十年への弔いであり、沙也加という女性が最期に見せた、あまりにも気高く、美しい「譲歩」に対する感謝の涙だった。

 死を間際にした女の勘は、確かに鋭かった。

 彼女は、高瀬に「罪悪感」という鎖を残して死ぬのではなく、彼を「自由」という光の中へ押し出すことを選んだ。

 高瀬は、窓の外を見た。

 東の空が、微かに白み始めている。

 夜明けだ。

 彼は、スマートフォンを取り出した。

 まだ麻衣には連絡をしない。

 沙也加の最後の日々を見届け、彼女を安らかに送り出したとき。

 すべての過去を灰にし、清らかな自分になったとき、初めて彼女の待つあの扉を叩こう。

 麻衣さんの言う通りだ。

 沙也加の想いは、決して無駄にはしない。

 彼女がくれたこの「赦し」を胸に、僕はもう一度、生きていこう。

 病室に、朝日が差し込み始めた。

 それは、あまりにも冷酷で、あまりにも慈悲深い、新しい一日の始まりだった。


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