40話 この夜が明けるまで
美しい星空の下。
短い下草が生える丘の地面に、腰を下ろしたノルンへと、狼がするりと寄りそって、その巨体を伏せる。
狼の腹部のぬくもりに背中をあずけ、両手で握った手鏡の神物をのぞき込むノルンへと、夜の瞳を注いだアトアが問いかけた。
「旅は楽しいですか?」
父の問いかけに、ノルンは素直にコクリとうなずく。
「はい、とっても楽しいです。
それに、他の解読者や神学者の人たちと、一緒に神託迷宮を探索することも、とっても楽しいです」
「それは好かったです。
……私も、旅は友としたほうが楽しかったから」
夜の瞳を細め、そう返したアトアの言葉に、ノルンはサラリと黒髪を揺らし、小首をかしげる。
「父さんも、旅をしたことがあるのですか?」
「えぇ――遠き、かつてに」
懐かしむように、あるいは遠き日の思い出に浸るように。
そっとひと時、瞼を伏せる星の神の美しい顔を、神の子はただ静かに銀の瞳に映す。
束の間、静けさが満たした時間は、そう長く続くことはなく。
すぐに瞳を開いたアトアが話を戻したことで、再び会話と言う音をその場に取り戻した。
「解読者も、楽しめているようですね」
「そう言えば……想像以上に、楽しんでいます」
父の言葉にうなずきを返し、言葉通り自身が思っていた以上に、解読者としての活動を楽しんでいたのだと自覚したノルンは、しかしとかすかに眉を下げる。
「ただ、まだ過去の姿が浮かぶほど、明らかな過去のなごりは……見つけることが出来ていないのです」
少しだけ揺れた銀の瞳は、未来への小さな不安を灯す。
果たしてこの先――続く旅路の中で、自らの過去を見つけていくことが、出来るのだろうか、と。
ノルンの小さな不安を感じ取り、父神アトアはその夜の瞳を一度またたく間に、我が子へと伝える言葉を決めた。
頬を滑る美しい純白の長髪を、綺麗な指先で耳へとかける少しの間を置いて、アトアは口を開く。
「あなたははじめから、特例でした。
私や、今までの私の子供と同じように」
夜の瞳で、澄んだ銀の瞳を見つめ、星の神は一つの真実を告げる。
「混沌の神ノアの愛し子として、あなたもまた。
――異なる世界の知識を、魂に宿した存在でしたから」
それは明確な、ノルンの〝過去〟を示す、言の葉。
刹那、ハッと銀の瞳を見開いたノルンの頭の中に、チュートリアルや古代ローマ、ロマンといった言葉が、次々と浮かぶ。
それらの言葉を頭の中で並べた瞬間、ノルンは閃きに、銀の瞳をまたたいた。
(あの知識こそが、異なる世界の知識だったのか!)
気づきは同時に、父が今この真実を語ったことへの、理解にも繋がる。
すなわち――この特殊な知識を持っていることそのものが、今のノルンに残された、かつて人間だった過去のなごりの、その一部なのだと。
ぱちぱちと、銀の瞳をまたたいて驚くノルンへ、アトアが静かに告げる。
「……あなたの過去について、今私から伝えることが出来る情報は、これだけです」
父の言葉に、驚きの真実について考える中で、自然と下がっていた視線を上げたノルンは、ふるりと首を横に振った。
「十分です、父さん。
ありがとうございます。
いろいろと……納得できました」
神と人間とでは、知ることが出来る内容も、伝えるための手段も、違うように。
神と神の子でも、知り得ること、伝えられることは、必ずしも同じではない。
その上で、星の神アトアは伝えることの出来る言の葉を、我が子へと伝えた。
神の子であるノルンは、密やかにそのことを感じ取り、胸の内で呟く。
(父さんはきっと、不安を感じていた私のために、一つの答えを教えてくれたんだ)
そう思い、いつもあたたかな父の優しさに、ノルンは小さく微笑みを咲かせる。
次いで、ふと今まで旅をしてきた中で感じたことを思い出し、以前から考えていたある思いを、言葉にした。
「そう言えば、旅の中で感じたことから、これは過去のなごりかもしれない、と思ったことがあります」
ノルンの言葉に、アトアは小さくうなずいて、そっと先をうながす。
鏡面に映る父を見つめ、ノルンは言葉を選びながら、そこから導き出した結果を伝えた。
「その……たぶん、ですが。
かつての、人間だった頃の私も――解読者をしていたのだと、思います」
鏡越しに見えるアトアの夜の瞳が、かすかに細められる仕草に、ノルンは自らが考えた解釈はおそらく正しいのだろうと察して、一つうなずく。
思い出したのは、とある違和感にも似た、感覚だった。
古い朽ちた遺跡の神託迷宮で感じた、既視感。
そして大迷宮の神託迷宮の最奥で、混沌の影との戦闘時に感じた、既視感。
この二つの既視感こそが、かつてノルンとして目覚める前、人間だった頃の自身のなごりではないかと、ノルンはそれとなく解釈していた。
そして今回、父神アトアと向き合って語ることで、この解釈は間違っていないようだと、確信にまで至り――また、はたと気づく。
「……思っていたより、過去のなごりを見つけていたようです」
ぽつりと呟いたノルンに、鏡の中でアトアがふわりと微笑んだ。
父神が明確に伝えた、異なる世界の知識を持つ存在だったと言う、真実だけではなく。
ノルンは確かに自らの旅路の中で、過去にも解読者をしていたのだと言う事実を、見つけていた。
それに気づいたことで、ようやく。
ノルンは、何も不安に思うことなどなかったのだと、ほっと吐息を零した。
丘の上を吹き抜ける夜風が、艶やかな黒の長髪をさらって、サラサラと揺らす。
ほっそりとした手で髪を整えながら、ノルンは続けて考えた。
(けれど、過去のなごりは……もっと、見つかるはず。
それなら――)
ノルンは鏡越しにまっすぐ、父アトアを見つめ、たった今決意した思いを、はっきりと告げる。
「もう少し、解読者として生きてみます」
凛とした声音で紡がれた決意を聴き、澄んだ銀の瞳を見つめ返したアトアは、優しげに微笑んだ。
「ノルンがそう、望むなら」
――望むように、生きて好い。
夜空を彩る光の名を持つ神は、愛しい我が子の進む道を、愛おしげに祝福する。
それこそが、神の子の軌跡になるのだと、伝えるように。
星の神アトアと、神の子ノルンが語り合う声は、長く続いていく。
ゆっくりと、穏やかに――この夜が明けるまで。
第一部にあたる、40話のご愛読、ありがとうございます!
今後は、41話からの第二部に向けて、執筆作業を進めてまいります。
第二部の準備が整い次第、更新を再開する予定ですので、しばしノルンが歩んだこれまでの旅路を振り返りつつ、お待ち頂けますと幸いです。
そして再開時はぜひとも、引き続き神の子の軌跡をお楽しみください!




