012 ユーデリウスの意を継ぐ者
思ったよりも静かな夜だ、と感じるのは反動だろう。
いささか下品な感も否めず、先刻の泥沼のような喧騒にまみれる宴は、あまり好みではない。
若い皇帝は“神殿”内のタワー一室で、窓辺から垣間見えるキシュトワル市の夜景を眺め、しばしの休息を独り物思いに耽っていた。
実を言うと、クロイカントが彼女に挨拶をして去ってから間も無く、ルードニースを体調不良にさせて、それを口実に退出したのである。
本当のところ、カロルシア自身も精神的な乱れを感じていたのだったが、デビューでいきなりの退場ときては、あらぬ噂を呼び、いらぬ足元を見られかねない。
まして敵味方の入り乱れる外交戦の嵐、帝政のメンツを保つにはなんとしてでも『カロルシア自身の理由』は避けねばならなかったのである。それが国家元首であり、帝政の力の象徴たる立場の者であった。
女主人を失ったパーティーがどうなろうと正直どうでも良いが、それら腹を探る交友好きな王侯貴族や、商機を逃さぬ嗅覚のハイエナたちが、好き勝手に権勢をふるっていることだろう。
わざわざ毒気に当たることもあるまい。
にわか神輿に乗った若輩者が出しゃばるものでもない。
これをボイコットと言うのか、エスケープと言うのか、ただのサボタージュであるならば問題だが、権威権力に纏わり絡みつく欲望の糸は、適当にあしらうのが良策であった。
―――伝説によると、いや、ほぼ伝説化しているエピソードでは、その宴にてあまりのストレスにより、強度のヒステリーを起こして会場の窓と言う窓を割った皇帝も居たそうである。
割った、とは、当人が何か凶器になるようなものを手にして、非常に原始的な意味合いで割ったのではなく、こみ上げるマグマのようなエネルギーを制御できなかったのが事実であるらしいが、その場をどう収めたかは定かではない。
少なくとも、その皇帝はなにやら離れ技を駆使できることや、壊れるのが窓だけで済んでいる、と言う側面が窺い知れるのだが、地獄の汚泥にも勝る腐臭と毒に耐性がつくのは、いま少し時間が必要であると言うことだ。
「……疲れた―――かな……」
ついに口にした。
続きの部屋には控えが居るほかは、静寂のみ。
自分以外には誰も居ないことを思い出した。
それでも何かに気兼ねしているかのように、そっと窓辺から離れて、外の光景が見えるように深くゆったりと椅子に腰掛けた。
私人としての非常に貴重な時間であったが、その時間すらも以前のように自由であるはずもない。
常に何かしら頭を巡らせねばならない。
先ほどのレイゼンの微かな動揺に気付くことはなかったものの、洞察力と直感が直結した場合、尋常ではないものを察知すると認識力によって表層意識に昇るものである。
しかし、異常を知覚したのは、彼だけではないのはどういう事だろう。
―――ゆっくりと、自分の立場、帝政そして連合を包含する宇宙空間に思考の手を伸ばしてみる。
だが、急には彼女の腕には抱え込めない。
その世界は広いのだろうか、狭いのだろうか。
もしかしたら、カロルシアを取巻くものたち身近な処に、凝縮された世界があるのだろうか。
「……ギャラクシアンの謎々か……」
私に解けと仰る。
太祖ユーデリウスと、レディ・ルイーザの壮大な叙事詩に手を加えよと……
しかも、彼らのうち一人が、『デグレシアの娘だな』と呟いたのを覚えていた。ギャラクシアンの召喚を受けて皇宮アクアパレスに参内した時の事だ。
デグレシアとは、この女帝の実母である。
はっきりと彼女の耳元に届いていたし、鮮明に記憶に残っていた。
しかしそれを問う気にはなれなかった。
訊ねるものでもないし、母の人生のいくらかは聞いていたからである。
大きな事件で家族が殺され既に亡い事、その事が原因で星間自治連合から逃げてきたこと、そしてその時にとても世話になった人がいた事。
カロルシアがインペリアル・アカデミーに入学するため、幼くして両親の元を離れているのだが、その小さな少女に凄惨な過去を隠さずに語ったのは、いつその魔の手が子供にも降り掛かるかもしれないと言う懸念と、旅立つ子に自立と覚悟を促すためであったようだ。
事実、カロルシアの周りには時折、不穏な空気と彼女自身を警護するような人影を感じることはあった。
そこまでしての重要人物っぷりには、デグレシアの父が在帝の連合外交官と言う身分だったため、デグレシア「亡命」といった仰々しい特別措置がとられたのと、夫であるカーシェル・デッサーが皮肉な事に民間出身の外交官であったからである。
(さて……その貴女の娘が、なぜか位人臣を極めてしまったのですが……)
帝位につくことと、母親の過去がどう繋がっているかは分からない。
それに、両親に皇帝即位の話を、ロクにできないまま今日を迎えてしまったことが心残りではある。―――後日、内輪でそっと「家族を呼んでお茶会」みたいな予定はあるのだけれど。
果たしてどういう確率なのか、星の数ほどの人間が居る中をただ一人、皇帝にのみ許される「ユーデロイト」姓を賜った。
「ユーデロイト」即ち「皇帝」である。
“ユーデリウスの意を継ぐ者”と云う意味の皇帝称は、その意味の通り、帝政共同体の礎を築いたニジエ星系ヤイヘール大公ユーデリウス・アード・コールリッジに由来する。
彼が殺害されて後継者であった甥のレヴィンスが、即位の折にただ「ユーデリウス二世」と名乗ったため、公選制によって選ばれ何ら血縁でもない第二代皇帝クアイトが大公とレヴィンスに遠慮しつつ、己の名に、ユーデリウスの後継であるとの正当性と決意をこめ、現在まで続くその皇帝章を作ったのが始めとされる説と、元々レディ・ルイーザが、即位する皇帝たちにその姓を与えるのが付帯条件であると、ギャラクシアンに指示したのだと言う説とがある。
今となって真相は定かではないが、人心が好んで支持するのは前者であろう。
あまりに神格化され秘せられたルイーザではなく、人間はより人間に近い感情を優先する。
まして、その二代皇帝クアイトが、簒奪を目論んだものに害された悲劇の皇帝となれば。
そして、皇帝にはもう一つの名を贈られる。
『霊名』と呼ばれる、ミドル・ネームである。
別にまた「エンペラー・コード」とも言われているが、個人で好き勝手に付けられる名ではなく、ギャラクシアンたちが口にしていた「ルイーザの『祈りの綴り』」というものから引用しているらしい。
不可思議な事に、名が先に存在し、それに相応しいと思しき人物に宛がわれ、『誕生名』に『霊名』『皇帝称』が組み合わされて与えられる。
これにより皇帝はそれまでの過去の全てを捨て去り、まったくの新しい人間として生まれ変わるのだ。逆に、それまでの過去を持つことは許されない事でもあるのだが、俗世を離れて神事に至るに等しい。
『祈りの綴り』と言う、言葉の調べから流れ出た音律には、各々に意味があり、また宿命をも表すとも云う。
「オー」は、世界を抱くもの。
「フェイ」は、羽ばたけるもの。
「イーン」は、響きたるもの。
「ゼオ」は、鋭利なるもの。
「ハーベル」は、打ち砕くもの。
「ユーメ」は、幻想者―――
まれに持たぬ皇帝もいたし、過去の皇帝と名を重複するものもいたが、ユーデロイト姓を継ぐことに何ら支障は無く玉座の上にあり、そして霊名の音律が絶えたとき、「皇帝章」を返上して去った。
混乱の時代にはただの人形と揶揄され、あるいは影武者と疑われ、それでも人の上に、人の見やる先には視点を結ぶ高い頂が必要であり、時代の指標になる光点となるよう求められてきた皇帝たちの列に、我が身と我が名が連ねられたことを神妙に受け止める。
(……私の霊は『王冠』……)
ダウンライトの仄かな明るさで、妙に浮いて見えるグレイッシュブルーの髪を気だるげに掻き揚げた。額の赤みは傷を残して消えかかっている。
まだ誰も持った事のない帝政共同体で初めて記された霊名ゆえに、これを知る人々がどれだけ感心を寄せているかは分からない。
仰々しいほどの厳かな名により、この女帝はどのような運命を辿るというのだろうか。
(……でも……グランスと……レイゼンがいるから……)
どれだけ鈍感でも、さすがに皇帝と言う地位に心細さを覚えずにはいられなかったし、威厳だって、急には取り繕えない。
(―――そうだ………彼らがいる……)
繰り返し、まるで焼き付けるように心で呟く。
『絆』とやらがあるなら、それは常に私の手元に置かねばならないし、彼らがどれだけ自分を心強くしてくれているか、このような立場にあってこそ理解できたのだ。
もしも、普通の、一般人であったならどのように関わっていたのだろうかとは考えるが、しかしながら、どう考えてもこの巡り合わせは運命的で必然的な部分を否めない。
愛おしくも強く宿命づけられた者たちは、この皇帝の登場を始めに繋がれようとしていた。
「これからは…前髪は下ろしておこう……」
―――但し、当面の問題は、その程度で終わる。