#100 次のダンジョンへ
酒場は混んでいた。
冒険者たちの笑い声と、ジョッキがぶつかる音と、焼いた肉の匂い。
ギルド併設の「銅の角杯」は、夜になるとカスカーラで一番騒がしい場所になる。
カウンターの奥で酒場の親父が樽からエールを注ぎ、給仕の少女が料理を運んでいる。
カイトとソフィアは、窓際の席に座っていた。
テーブルの上にジョッキが二つ。
隅にリーナとミーリアからの手紙と、ミーリアが送ってきた辺境の酒の瓶が置いてある。
蜂蜜酒だ。
琥珀色の液体が瓶の中で揺れている。
「開けるわよ」
ソフィアが栓を抜いた。
甘い匂いが立ち上った。
蜂蜜と、野花と、冷たい風の匂いだ。
辺境の春の匂い。
カイトのジョッキに注ぎ、自分のジョッキにも注いだ。
琥珀色の液体がエールの泡の上に層を作った。
「悪くなさそうだ」
カイトが一口飲んだ。
甘い。
だが後味に草の苦みがある。
辺境の酒場で出てきそうな、素朴な味だった。
「どう?」
「悪くない」
もう一口飲んだ。
ソフィアも一口飲んで、小さく目を細めた。
「おいしい。ミーリアの庭で取れた蜂蜜かしら」
「知らん。だが手作りだろうな」
テーブルの上のリーナの手紙を、ソフィアがもう一度広げた。
角の折れた便箋に、丁寧な筆跡が並んでいる。
「『追伸。東大陸の古い楽譜を手に入れました。星脈の旋律に関する記述があります。カイト様の核紋の共鳴パターンと照合したいので、お時間がある時にお立ち寄りくださいませ』。——立ち寄ってほしいんですって」
「遠いんだよ。帝都は」
「行けばいいじゃない。ダンジョンの帰りにでも」
「ダンジョンの帰りに帝都に寄るやつがいるか」
「いるわよ。目の前に」
ソフィアがジョッキを掲げた。
カイトは鼻を鳴らしたが、否定はしなかった。
隣の席で冒険者の一団が騒いでいた。
鉄級のプレートを下げた若い男たちが、今日のダンジョン攻略を自慢し合っている。
「9Fのオークジェネラルを倒したぜ。俺が最後の一撃を決めた」
「嘘つけ。お前、途中で逃げてただろ」
笑い声が弾けた。
カイトはその声を聞きながら、エールを傾けた。
9Fのオークジェネラル。
カイトが地E級の怪力を手に入れた相手だ。
あの頃は必死だった。
ソフィアと二人で挑み、何度も吹き飛ばされ、這い上がって急所を突いた。
「あの頃のあんたを思い出すわ」
ソフィアが同じ方を見ていた。
「鉄級の冒険者が9Fボスを倒して自慢してる。あんたは銅級で10Fの炎竜を倒したのに、自慢なんかしなかった」
「自慢する余裕がなかっただけだ。全身火傷だらけだったからな」
「そうだったわね」
ソフィアが笑った。
二人の間にあるのは、あの頃の記憶だ。
言葉にしなくても共有できる、戦場の記憶。
* * *
酒場の喧騒が少し静まった時間帯だった。
酔いつぶれた冒険者が何人か帰り、残った連中が低い声で話している。
カウンターの向こうで親父が皿を洗う音がする。
窓の外に月が見えた。
白い光が石畳を照らしている。
「聖域山脈で一緒にやった人たちよね。リーナとミーリア」
「ああ」
「どうだった?」
カイトはジョッキの中の琥珀色を見た。
「悪くなかったな」
ソフィアが目を丸くした。
「珍しい。あんたが他人を褒めるなんて」
「褒めてねぇよ」
「褒めてるわよ。あんたの『悪くない』は最高の褒め言葉だもの」
カイトは黙ってエールを飲んだ。
ソフィアが笑いを噛み殺しながら、蜂蜜酒をもう一口飲んだ。
「でも本当に、いいチームだったわよね。リーナの歌で核紋の暴走を抑えて、ミーリアの薬草で体力を維持して。あんたが封印を安定化させて、ヴェルナーが前衛で時間を稼いで」
「お前が全員の傷を治した」
「そうね。私がいなかったら全員死んでたわ」
「威張るな」
「事実を言っただけよ」
カイトは窓の外を見た。
月が高い位置に昇っている。
穏やかな光だ。
大地が震えたあの夜の、赤い月ではない。
封印の不安定さが消えた、ただの白い月。
「……次に大陸がヤバくなったら、またあいつらと組んでもいい。それだけだ」
ソフィアが瞬きした。
「それ、すごいこと言ってるの自覚ある?」
「何がだ」
「あんたが他人と『また組んでもいい』って言ったの、初めてよ。私以外で」
「言ってないだろ」
「今言ったわよ」
「……言ったか」
「言った」
カイトは頭を掻いた。
酒場の親父がカウンターの向こうからカイトを見ていた。
この店には石級の頃から通っている。
核紋なしの少年が隅っこの席でパンの耳を齧っていた時代から。
親父は何も言わなかった。
ただ、いつの間にか席が窓際の一等席に変わっていた。
「お代わりは」
親父の声がカウンターから飛んできた。
カイトは手を振った。
「もういい」
エールを一気に飲み干した。
空になったジョッキをテーブルに置く。
陶器の底が木のテーブルにぶつかり、鈍い音がした。
立ち上がった。
「帰るの?」
「いや」
カイトは窓の外を見た。
月光が石畳の上に影を描いている。
酒場の灯りと月の光が交差する場所に、夜の風が吹いていた。
「さて。次のダンジョンはどこにするか」
ソフィアがジョッキを置いた。
立ち上がり、剣帯を腰に締め直した。
「行くの? 今から?」
「今からじゃない。明日からだ」
「どこに」
「知らん。だが——止まってる暇はない」
カイトは胸ポケットからリーナの手紙を取り出し、一度だけ目を通した。
折り畳んで、もう一度しまった。
テーブルの上のミーリアの蜂蜜酒を瓶ごと鞄に入れた。
ソフィアが呆れた顔をした。
「持っていくの」
「もったいないだろ。残すのは」
「素直にまた飲みたいって言えばいいのに」
「うるさいな」
カイトは酒場の扉を押した。
夜風が顔に当たった。
冷たい空気の中に、石畳の匂いと、遠くのダンジョンから漏れる微かな魔力の気配が混じっている。
ソフィアが隣に並んだ。
肩が触れそうな距離だ。
プラチナブロンドの髪が月光に白く光っている。
「次のダンジョン、私も行くわよ」
「当たり前だ。誰が治癒するんだよ」
「治癒係扱い、いつかやめてほしいんだけど」
「じゃあ何だ」
「相棒」
カイトは答えなかった。
だが口元が少しだけ緩んだ。
二人は石畳の道を歩き出した。
月光が背中を照らしている。
白銀の光がカイトの瞳に宿っていた。
核紋が空だった少年の目に、星が灯っている。
風が吹いた。
カスカーラの夜を、二つの影が歩いていく。




