#01 核紋なし
核紋が空だと知ったのは、五歳の時だった。
孤児院の先生が手を握ってくれて、鑑定士が首を振った。
あの日から十一年、カイト・アッシュフォードの人生は変わらなかった。
「次の方、どうぞ」
迷宮都市カスカーラの冒険者ギルド。
石造りのロビーに朝日が差し込み、埃が金色に舞っていた。
受付窓口に並ぶ列は長い。
春を迎えるたびに、スラム街の子供たちがここに押し寄せる。
核紋さえあれば冒険者になれる。
核紋がなくても、登録だけならできる。
カイトは列の最後尾で腕を組んでいた。
周囲の少年少女は、手の甲や首筋に淡く光る紋様を見せ合っている。
炎の赤。水の青。風の緑。
核紋が体に刻まれている証だ。
カイトの手の甲には、何もなかった。
前に並んでいた少年が振り返り、カイトの手を見た。
「お前、核紋どこにあんの?」
「ない」
「……は?」
少年の手の甲には風属性の紋様が淡く脈動していた。
E級の風。吹けば飛ぶ程度の風だが、それでも核紋があるだけでカイトよりは上だ。
「次の方」
受付嬢に呼ばれ、カイトは窓口に立った。
栗色の髪を耳にかけた、二十代半ばの女だった。
事務的だが、声に棘はない。
「名前は」
「カイト・アッシュフォード」
「年齢は」
「16」
「出身は」
「カスカーラ。スラム街の孤児院」
受付嬢の筆が一瞬止まった。
すぐに動き出す。
スラム出身の冒険者登録は珍しくない。むしろ多い。八歳から路地裏で盗みと日雇いで食い繋いできた。ギルドに登録できる歳になるのを、ずっと待っていた。
「核紋の鑑定を行います。右手をこちらの水晶に」
カイトは灰色の瞳を伏せて、拳を水晶球の上に開いた。
水晶が淡く光る。
光が走査するように掌を舐め、指先まで辿り着いて——消えた。
鑑定士が眼鏡の奥の目を見開く。
白髭の老人で、何十年もこの仕事をしてきた顔をしている。
その老人が、水晶球を二度叩いた。
「……もう一度、いいですか」
二度目も同じだった。
光は掌を走査し、何も見つけられず消える。
三度目も。
受付嬢が鑑定士の横に立ち、二人で水晶を覗き込んでいた。
ロビーの冒険者たちが何事かと振り返る。
カイトは黙って待った。
この反応には慣れている。
「核紋……空」
鑑定士の声が震えた。
「属性なし。適性ランク——測定不能」
ロビーが静まった。
一拍の沈黙。
誰かが吹き出し、それを皮切りに笑い声が弾けた。
「空って何だよ。生まれつき魔法ゼロかよ」
「よくギルドに来れたな。度胸だけはあるじゃん」
「Lv1にもなれないって、それもう冒険者じゃなくて荷物だろ」
カウンターの向こう側で鑑定士が受付嬢に耳打ちした。
聞こえた。「登録を止めた方がいいのでは」。
受付嬢が首を振った。「規定上、核紋なしでも登録は拒否できません」。
背中に刺さる視線と嘲笑を、カイトは一つずつ数えた。
三、五、八。
スラムの路地裏で浴びてきた罵声に比べれば、軽い。
殴られないだけマシだ。
受付嬢がカイトの前に小さな石色のプレートを差し出した。
指先が微かに震えている。
同情だ。
嫌いじゃないが、ありがたくもない。
「戦闘力はLv1相当ですが……正直、それ以下かもしれません」
言葉を選んでいるのが分かった。
それでも嘘はつかない。
正直な女だ、とカイトは思った。
「プレートの受領をもって、冒険者登録は完了です。ただ——」
「ただ?」
「……お気をつけて」
カイトはプレートを握りしめた。
冷たい石の感触が、手のひらに食い込んだ。
* * *
ギルドのロビーは広い。
正面の壁一面が掲示板になっていて、依頼書が画鋲で留められている。
上段が高難度、下段が低難度。
最上段の金縁の依頼書は、白金級や金級にしか手が届かない。
文字通り、手が届かない。天井近くに貼ってある。
カイトが見たのは、最下段だった。
黄ばんだ紙に、にじんだ文字。
報酬は銅貨二十枚。
宿代にもならない。
「ゴブリン討伐。星淵の迷宮1F。個体数不問、最低一体。石級可」
カイトは依頼書を剥ぎ取った。
背後で、先ほどの風属性の少年が仲間と話しているのが聞こえた。
「あいつ核紋なしだろ? ゴブリンにも勝てねぇよ」
「一日で帰ってくるに賭ける」
「帰ってこないに賭ける」
笑い声。
カイトは振り返らなかった。
スラムで十一年、気にしていたら生きていけなかった。
「Lv1以下って何だよ」
カイトは石のプレートを首から下げた。
ずしりと重い。
灰色の石に刻まれた名前と、等級を示す溝。
石級。最低ランク。この重さだけが、今の自分の全てだ。
「……上等だ。ゼロから始めてやる」
* * *
星淵の迷宮は、カスカーラの東端にある。
海に面した断崖の中腹に、巨大な洞窟口が口を開けていた。
百年前の大崩落で星脈が噴出し、そのまま安定した迷宮だと聞いた。
冒険者の大半がここで稼ぎ、ここで死ぬ。
入口には石造りのアーチがある。
ギルドの紋章が刻まれ、等級ごとの推奨フロアが記されていた。
1F——石級。ゴブリン、大ネズミ。
5F——銅級。ゴブリンキング。
10F——鉄級。炎竜ヴァルカン。
それ以降は、カイトには関係のない数字の羅列だった。
アーチの前に座っている老人が声をかけてきた。
迷宮入口の番人だ。顔に古い傷跡がある。元冒険者だろう。
「坊主、一人か」
「ああ」
核紋なしの冒険者とパーティを組みたがる物好きはいない。
「ランクは」
「石級」
「装備は」
カイトは腰の短剣を見せた。
老人が目を細めた。
「銅貨5枚の質屋品だな。刃こぼれが3箇所。柄の革も擦り切れてる」
「分かってる」
「松明は持ったか。1Fでも奥に行けば暗い」
「金がなかった」
老人は溜息をついた。
腰のポーチから小さな棒を取り出し、カイトに放った。
蛍光棒だ。折れば光る。
「やる。死ぬなよ」
「……ありがとよ」
洞窟に一歩踏み込む。
空気が変わった。
外の潮風が途切れ、湿った石と苔の匂いが鼻孔を満たす。
天井に這う蛍光苔がぼんやりと通路を照らしていたが、十メートルも進めば闇が落ちる。
カイトは腰の短剣を抜いた。
スラムの質屋で銅貨五枚で買った粗悪品だ。
刃こぼれが三箇所。
柄の革は汗で滑る。
それでも、これしかない。
短剣を握る手が震えていた。
核紋がない。魔法が使えない。身体強化もできない。
この闇の中で頼れるのは、十一年のスラム生活で培った勘と、足の速さだけだ。
奥から、何かが蠢く音がした。
低い唸り声。
爪が石床を引っ掻く音。
闇の中で黄色い瞳が二つ、光った。
ゴブリンだ。
カイトの心臓が跳ねた。
口の中が乾いた。
膝が笑いそうになるのを、歯を食いしばって堪える。
逃げるな。
逃げたら、スラムに戻るだけだ。
飯もない、名前も呼ばれない、あの場所に戻るだけだ。
手は震えていた。
だが、足は止まらなかった。




