40.10年前
10年前の8月が終わる頃だった。
東雲さつきは一人美術館に到着していた。
「東雲です。現着しています」
短い電話をかけ終わると腕時計を見る。
約束したっていうのに、あの子はまた――
さつきは呆れながらも、口元は緩んでいる。
一緒に仕事をするのは久しぶりだ。
あの出会いから1年近く経つ。
さつきは自分が東雲の妹だと知った御門が、野良猫のように毛を逆立てて怒っていた姿を思い出した。
兄からは可愛い子だとは聞いていたが、会ってみると想像以上に可愛くて困ってしまった。
私のタイプは年上のしっかりした人なんだけどなぁ。
6つも年下――それもまだ18歳の少年に心惹かれるだなんて思ってもみなかった。
だが、御門はさつきと仕事をする事を極端に嫌がったせいで、これがやっと3回目の同行だ。
懐かしむほど昔ではないはずなのに、懐かしさを感じるのはどういうことか……さつきはもう一度口元を綻ばせると、ポケットの中で震える携帯電話を取り出した。
画面には『大和御門』と表示されている。
「御門君?今どこ?」
敢えて厳しめの声で尋ねる。いくら可愛くても仕事は仕事なのだ。
「わりぃ。ちょっと寄り道してた……もうすぐ着くから、外で待ってろ。一人で入るなよ?待ってろよ?」
生意気な事を一方的に言い放つと、電話は切れた。
5分ほど待ったが御門は来ない。
仕方がない。先に入って担当者と段取りだけでもしておくかと、さつきは休館中の美術館に向かった。
御門は泣き喚く子供の側でイライラしながら警察官の到着を待っていた。
「おい、泣くなって。もうすぐお巡りさん来るから。そしたら母ちゃんだかママだか知らねーけど探してくれるから」
何度目かの声掛けも、子供の心には響かないらしく、子供は御門のカーゴパンツを握ったまま泣き喚いている。
『さすがは国宝と言ったところか?』
御門の中から真神が話しかけた。
「ああ、そうだな。――でもよ、ここまでやるか?」
家を出てからタクシーは来ないわ、道路は事故や工事で渋滞するわ、諦めて歩けば迷子の子供に掴まってしまった。
子供を連れて歩くわけにもいかず、一先ず最寄りの警察に電話をしたが、待てど暮らせど警官が来ない。
念のために東雲――裕一郎の方――にも電話をしておいたが、もう15分もこうして待っている。
「久しぶりだな。ここまで妨害してくる奴も」
『うむ』
「お前の神力が落ちてるからって舐められてるんじゃねぇの?」
御門が小声で言うと、真神は黙ってしまった。
どうも図星だったらしい。
御門が気まずい思いをしていると、ようやく警察官が3人やってきて、解放された御門は美術館に急いだ。
なぜさつきが迎えに行くと言ったのを頑なに断ったのだろう。
美術館に到着した御門は、真っ先にそう思った。
休館中の美術館の扉を開けて中に入ると、正面の階段の下でさつきが血まみれで倒れていたのだ。
東雲が淡々と話すのを、亨は黙って聞いていた。
言葉が出なかった。
「付喪神に操られた職員がさつきを階段から突き落としたんだ」
東雲はそれでも淡々と話す。
「さつきさんは――それでお亡くなりに?」
「いや、しばらくは生きてはいたよ。植物状態でね」
初めて東雲の表情が翳ったのを、亨は気付いていた。
「もう10年も前の話だ。油断したさつきが悪い――この仕事というのはそういうものなんだよ」
東雲の言葉で、やっと亨は自分が何故熊野で修業をさせられたのかを察した。
「あの修行は……僕が死なない為に――?」
東雲は微笑むと小さく頷いた。
「君は御門君とは違って特別な人間だ。だから付喪神にも狙われやすい。だからこそ御門君の側にいた方がいいと私が判断した」
「え?それってどういうことですか」
亨が困惑していると、東雲は亨の肩に手を置いてその顔を見つめた。
「私は君の要望通り、過去の話をしたね」
東雲の言葉は亨の意識を揺らがせる。
「はい」
意識はしっかりしているのに、どこか現ではない――そんな感覚が亨を襲った。
まただ。一度目は確か――いや、そんなことはどうでもいい。
「君は私から事実を聞いた。だが、それは大したことのない話だったから、すぐに忘れてしまった――そうだね?」
東雲は何を言っているのだろう。
あんな大事な事――いや、殉職なんてよくある話だ――いいや、違う。忘れちゃいけない気がする。
「私の妹は不幸にも階段から転落死した。それだけだ。そうだね?」
そう――いいや、違う。御門さんが遅れたせいでさつきさんが亡くなったのなら、御門さんはきっと自分を責めたはずだ――今も。
「事故というのは仕方のない事なんだよ」
そうだ。事故は仕方ない――
亨は東雲の言葉に抗おうとしたが、やがてそれは気力を失った。
「よくある話だ。君はこの事を忘れてしまう。そうだね?」
「そうですね――そう……」
亨は心が虚ろになるのを感じた。
いや、待て――東雲はさっき大事な事を言わなかったか?
「そう。棚橋君は私の大事な部下だ。だから、御門君に預けて立派な術者になってもらおうと思ったんだよ」
ああ、そう言うことか――
亨はようやく腑に落ちると、東雲の言った全てを受け入れていた。
「棚橋君、御門君のことよろしく頼んだよ」
「そうですね。そんな事故があったなら行きたがらないのもわかりますが――仕事ですから」
東雲がいつも通りの柔和な笑顔で言うと、亨もまたいつも通りの真面目な顔で答えて、資料を鞄に入れて部屋を出て行った。
その後ろ姿を、東雲は張りつめた表情で見つめていた。




