第20話 「新月の夜」
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それから五日後の、新月の夜。
ソクラテスは、家の扉をちょっと開けて外の道の様子をうかがった。
月のない、暗い夜空を見上げ、顔をひっこめて扉を閉める。
「君たち……本気で、本当に、やるつもりかね?」
振り返り、もじゃもじゃの眉をひそめて、そう問いかけた。
「はい、マジのガチで、やるつもりです!」
「忙しい夜になりそうっすね!」
ファルマキアとアラクネが、ひそめた声で、元気よく答える。
彼女たちは二人とも、全身を暗い色の衣で包み、両目をのぞいた顔のすべてを、同じ色の布で覆っていた。
そして、ファルマキアは太い棍棒を、アラクネは、先端に金属のおもりをつけた縄の束――もちろん、自分の髪の毛をまぜて綯ったものだ――を持っている。
「やはり、僕には、どうしても賛成することはできないよ……」
「大丈夫です!」
暗い声で言ったソクラテスに、棍棒を肩にかついだファルマキアが、力強くうなずく。
「ソクラテスさんは、ただ、この家にいればよくて、直接手を下す必要ないですから! あとは、わたしたちに、どーんと任せてください!」
「ファルマキアちゃんの言うとおりっす」
アラクネも、隣でうんうんとうなずいた。
「あと、あいつの――アルキビアデスのことは、もう、気にする必要ないっすよ。昔は大事な弟子だったのかもしれないっすけど、あいつ、クサンティッペさんと赤ちゃんを人質にとろうとしたじゃないっすか。そんなやつ相手に、遠慮も、手加減も要らんっす。
ていうか、神官長率いる別動隊は、今ごろ、もう動き出してるはずっす。今から迷っても意味ないんで、もう、とにかく、やるしかないっす」
「あ。そういえば、別動隊……」
ファルマキアが、ふと思い出したというように、アラクネに声をかけた。
「五、六人くらい、いるんだっけ? おにいさんが、Εのアテナイ駐在組に声かけて集めたんだよね? そんなに人がいるなら、わざわざ、わたしたちをアテナイに送り込まなくても、その人たちに仕事をさせればよかったのに――」
「まあ、駐在員っていっても、情報収集が専門の人たちも多いっすからねえ。守りのかたいアルキビアデスをアレするには、役者が不足だと思ったのかもしれんっす。
今回は対人間じゃないからいけそうってことで、ある程度、荒事向きの人たちに声かけたんじゃないっすか? ウチも、直接会ったことはないんで、よく知らんっすけど」
「ある程度かー……大丈夫かな!? ここで誰かがヘタうって、こっちの正体がバレたら、ファルマキアちゃんの計画が台無しになる説!」
そこまで騒いでから、ファルマキアは、ソクラテスの険しい顔つきが、先ほどからまったくやわらいでいないことに気付いた。
「あー、でも、まあ、おにいさんの人選だから、きっと大丈夫ってことで! ……あと、もしも神々がいるとしたら、その『お怒り』はファルマキアちゃんたちが、どーんと引き受けますし、逆に、神々がいないとしたら、『お怒り』もないから、もう、全然、まったく大丈夫でーす!」
「そういうことではないんだ」
ソクラテスは、強くかぶりを振った。
「君たちがやろうとしていることは……それは……やってはいけないことだ。一線を越えている。それが『あり』なら、世の中は『何でもあり』になってしまう。人間は、獣と同じになってしまう……」
「強い病を退けるには」
ファルマキアは言った。
「それだけ強い毒が必要です。わたしたちが、その毒なんです。
ソクラテスさんは、このアテナイを守りたいんでしょ? このまま何もしなかったら、アルキビアデスを止めることはできない。シケリア遠征も止まりません。そうなったら、アテナイそのものが危ない。そうでしょ?」
ソクラテスは、しばらく何も言わずに、ファルマキアを見つめていた。
その視線が小さく動き、アラクネの位置を確かめ、また自分の上に戻ってくるのを、ファルマキアはじっと観察していた。
ソクラテスの姿勢が、ごくわずかに変わり――攻撃の体勢をとろうとして――完全にそうなるまえに、彼は、ふっと力を抜いて、かぶりを振った。
「――よかった」
取りかけた構えを崩して、ファルマキアは笑った。
「わたし、ソクラテスさんとは、戦いたくないんで。……ほら、すごくお世話になったし、お話ししてると楽しいし」
「そうっす、そうっす。ウチら、Εの仲間どうしじゃないっすか! ここは、気持ちよく送り出してほしいっす」
ソクラテスは、疲れたようにかぶりを振った。
「だめだな、僕は……言葉でも、力でも、君たちを止めることはできない。もちろん、僕だって、ひとかどの戦士だ。負けると分かっていて、かかっていくこともできる。だが――」
ソクラテスは、言葉を途切れさせ、もう一度悲しげにかぶりを振った。
彼がファルマキアたちを止めることを断念したのは、ここで死ぬことは無駄死にだと判断したからかもしれないし、クサンティッペと赤ん坊の今後を考えたからかもしれなかった。
ややあって、哲学者は、悲しげに言った。
「もはや、言葉は、無力なんだろうか? より強きものが、正義なんだろうか?」
その問いに、彼女たちは答えなかった。
「おっ」
中庭に面した戸口から外をのぞき、アラクネが声をあげる。
「星が、打ちあわせたとおりの位置に差しかかるっす。そろそろ行くっすよ、ファルマキアちゃん」
「うん。……ソクラテスさん、行ってきます」
哲学者は、応えなかった。
ファルマキアたちは、中庭に出た。
覆面のぐあいを直すと、一瞬で、巨大なカラスのように暗い衣をひるがえし、屋根の上にとびあがった。
「じゃ、後で!」
「おっす!」
屋根の上で片手どうしを打ち合わせ、いきなり左右に分かれたファルマキアとアラクネは、それぞれに地面に飛び降り、無人の夜道を駆け抜けてゆく。
その姿は、夜の闇にまぎれて、ほとんど影と見分けがつかない。
この暗さでも、道に迷わないのは、今夜までのあいだに何度も道を確かめて、順路を練り上げてあるからだ。
やがて、ファルマキアは、ひとつの辻で立ち止まった。
道の角に、大きな白い柱が建っている。
暗がりで分かりにくいが、「ヘルマ柱」である。
四角い石柱の上部には、髭面の男性――壮年の姿をとったヘルメス神――の顔。
そして石柱の半ばには、にょっきりと上向きに突き出た男性のブツが彫刻された、道端の守り神だ。
市内には、無数の「ヘルマ柱」が立っており、アテナイの人々にとっては身近な存在だった。
ソクラテスの家のそばにも、同じものが建てられている。
ファルマキアはすばやく周囲を見回し、目撃者が誰もいないことを確かめると、まとっていた暗い色の布のすそを、ぐるぐると「ヘルマ柱」から突き出たブツに巻きつけた。
そして、
「そぉいッ!」
押し殺した気合の声とともに、手にした棍棒で「ヘルマ柱」のブツを一撃し、叩き折った。
あらかじめ布を巻いたのは、石が砕け散らばる音が出ないようにするためだ。
完全に折れ砕けたブツのかけらを、路面にそっとはらい落として、
「……よしと。次!」
ふたたび、音をたてずに駆け出した。
ソクラテスに連れられてアテナイの民会に行ったとき、ファルマキアは、そこに集まった人々のあいだに入っていって、アルキビアデスに反対する者たちがささやき交わす言葉を聞いていた。
『あんな自堕落な、常識のない若者を、将軍に選出したことが、そもそもの間違いだ!』
『アテナイのためにやったこと、だと? アルキビアデスのやつ、毎日のように、自宅に取り巻きを集めては、どんちゃん騒ぎをしているそうじゃないか。口実だよ、自分がとことん飲み食いをして騒ぎたいだけの……』
『――の息子の――も……――地区の――も、アルキビアデスの館での集まりに顔を出すようになってから、すっかりおかしくなってしまった、と親たちが嘆いておったぞ……』
『その連中のことなら! 以前、――通りのヘルマ柱が、夜中に打ち壊されたということがあったじゃないか? あれは、あの連中のしわざだという噂だ! 酔って、ふざけてやったんだ。そこには、アルキビアデスも――』
『それどころか! 聞いたか? あの者たちは、秘儀の真似事まで――』
『本当か? 恐ろしい!』
『ああ、いまや、何もかもが昔とは変わってしまった! 若者が、神々を敬わず、古くからのしきたりも守らず、年長者の意見を重んじることもない!』
『毎日、少しずつ壊れていくようじゃないか、我らのアテナイが……このままでは、遠からず……』
「そぉいやッ!」
ファルマキアが、アラクネが。
ニカンドロスと、彼が呼び集めた、姿も名も明かさぬΕの人々が。
新月の夜の辻々で、次々と棍棒を振り下ろし、「ヘルマ柱」のブツを叩き折っていく。




