第19話 「やってきた男」
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「君たち……本当に、いったい、何してるんですか!?」
快速船の甲板からペイライエウス港の桟橋に飛び降り、足が陸につくかつかないかのうちに、その男はわめいた。
「おおー、ついに、懐かしのおにいさん登場! なんか、すみませーん!」
「本当に、申し訳ないっす~……」
「久しぶりだね。どうも、遠路はるばるご苦労さま」
「アラクネくん以外に、あまり反省の色が見えないのですが!?」
デルフォイの神官長ニカンドロスは両手をわななかせて叫び、はっと気付いたように声の調子を落とした。
「とにかく、静かに話せる場所へ行きましょう。まったく、ここが天下のペイライエウス港でなかったら、出会い頭にわたしの大渦固めが炸裂しているところでしたよ……」
「あ、面接のときに出た技!? そういう名前だったんだ……」
「そんなことはどうでもいいんです! さっさと案内しなさい!」
「こっちだ」
ソクラテスが先に立って、一同を家に案内する。
アロペケ区の東の端、大きなヘルメス神像と、駆け回る犬のすがたが彫られた井戸のそばの家に全員が落ち着いたところで、
「おや」
旅行用の短い外衣を脱いだニカンドロスが、家の中を見回しながら言う。
「ソクラテス。あなたは、たしか、ご家族といっしょにお住まいでしたよね?」
「ああ。今は、席を外してもらっているんだ」
「そうそう! そろそろおにいさんが来る頃だろうってことで、ここが戦場と化す前に、安全な場所に避難していただきましたー」
「どうやら覚悟はできているようですね」
ニカンドロスは、静かにうなずき、
「君たち、本当に、なんていうことをしてくれたんです!? Εの名まで出して、アルキビアデスと正面切って対立するとは――」
「あ、その前に!」
「――その前に!?」
「そう、その前に」
ニカンドロスに向けて片手を強くまっすぐに突き出したファルマキアは、周囲の全員に息を呑ませるほどの真剣なまなざしで言った。
「ひとつだけ、どうしても、おにいさんに確認しときたいことがあるんですけど! いいですか?」
「いいはずないだろ……と、言いたいところですが……まあ、冥府への土産に、答えてあげましょうか。どうぞ」
「はいはいはい! デルフォイでやった、ファルマキアちゃんの歓迎会――ほら、あの肉祭りの夜のことなんですけど!」
「はあ?」
急に何の話をしだすのか、という表情で、ニカンドロス。
「そういえばやりましたね、肉祭り……で? それが何なんです?」
「あのとき、おにいさんは、ちゃんとわたしに話してくれましたっけ!? 『デルフォイが、シケリア遠征を支持する神託を出してた』っていう話!」
「――はあ?」
今度こそ心の底から意表を突かれた、というように、ニカンドロスは目を丸くした。
「改まって、いったい何ですか? ……あのとき、詳しく話したでしょう?」
「……えー? ほんとに?」
「神託の話っすか? それなら、ウチも聞いてたっすよ! ……けど、なんで急に今、そんな話を?」
「えー!?」
こちらもきょとんとしているアラクネの顔と、ニカンドロスの顔を交互に見て、ファルマキアは疑わしそうにうなった。
「ほんとにー? 絶対、言った? 間違いなく言った!?」
「間違いなくも何も、君自身が、その耳で、はっきり聞いたでしょう? 今になって急に何を……え」
ニカンドロスの表情が引きつる。
「まさか、君……わたしの話を、全然、聞いてなかったんですか!? ……待てよ、そういえばあのとき、君、『牛のすね肉が硬くて噛み切れない』とかなんとか、ぶつぶつ言ってたような……」
「あ」
『すね肉』の言葉で急激に記憶がよみがえり、ファルマキアは、大きく開けた口に手をあてた。
「あのときか!? ……あー、すみませーん! すね肉に気をとられて、全然、聞いてませんでした! おにいさん、無罪ッ!」
「嘘だろ……」
びしりと指をさされて、ニカンドロスは大きく天を仰いだ。
だが、彼はすぐに起き直り、今までの会話が嘘のような真顔になって、ファルマキアを見た。
「君たちからの使いと、ほぼ同時に、アルキビアデスからの急使が来ました」
場の空気が変わったことを感じ、ファルマキア、アラクネ、ソクラテスがなんとなく姿勢を正す。
ニカンドロスは静かに続けた。
「彼は、デルフォイと――Εと、対立するつもりはない、と伝えてきました。それどころか、これからも十分な奉納を約束する。だから、自分を支持し続けてほしい、と訴えてきたんです」
「おー」
気楽な調子で、ファルマキア。
「意外と丸くおさまって、よかったよかった! ……で……何と引き換えに、って?」
「『自分を襲った掃除人は、Εのほうで責任をもって始末するように』と」
「あー、なるほどでーす……やっぱりね。だいたい、そんな気はしてた」
今、ファルマキアとニカンドロス、アラクネとソクラテスは、それぞれがおおよそ正方形の頂点にあたる位置に立っている。
ファルマキアと対角線上に位置するのがニカンドロスで、左右に、アラクネとソクラテス。
ニカンドロスの言葉を聞いて、アラクネがさりげなく重心の位置を変え、体をわずかにこちらに向けたのを、ファルマキアは見逃さなかった。
ソクラテスは、ニカンドロスのほうを向き、首を振っている。
「おや。驚きませんね? やはり、覚悟はできている、ということでしょうか」
「いやー、そういうわけじゃなくて」
ファルマキアは、ぽりぽりと頭をかいた。
「そうは言いながらも、おにいさんは、どうやらわたしをアレしに来たわけじゃなさそうだから、そんなに慌てることもないかなーと……」
「ほう?」
「だって」
ニカンドロスとアラクネ、ソクラテスを順に指さして、ファルマキア。
「おにいさんが、わたしをアレするつもりなら、黙って他の掃除人を送りこんでくるか、アラクネちゃんかソクラテスさんに秘密の指令でも送って、やらせればいいでしょ?
それなのに、神官長のおにいさんが、自分で、しかも、わたしたちが頼んだ通りに、堂々とペイライエウス港から来た……」
「わたしが直々に君を始末しに来た、とは思わないのですか?」
「それって、アラクネちゃんとかソクラテスさんには、ファルマキアちゃんをアレすることは難しいだろうってことですか? わあ、おにいさん、地味に失礼!」
「いや、別に、そういう意味で言ったわけでは……」
「そもそも、おにいさんがわたしを始末するつもりで来たなら、それはそれで、夜にこっそり上陸するとか、別経路からアテナイに入るとかして、不意を打つはずだよね? ファルマキアちゃんは、最終面接でおにいさんの大渦固めを受けても倒れなかった。正面からわたしを倒すのは難しいって、おにいさんは知ってるはずですよね?」
「なるほどね」
ニカンドロスは苦笑いを浮かべて手を振った。
「やれやれ、わたしも、面倒な人を採用してしまったものですよ。少しは脅かしておけば、薬になるかと思ったのですが……君に対しては、それも無駄だったようですね」
ファルマキアの視界の端で、アラクネが、明らかにほっとしたように緊張を解く。
ニカンドロスは続けた。
「はっきり言っておきますが、今回、もしもアルキビアデスがΕの存在を知らなかったのであれば、君は、完全にアウトでした。外部の者にΕの存在を漏らすことは、絶対に許されない。しかし、相手が、前もってそのことを知っていたのであれば、Εの存在の漏洩にはあたらない――」
「ていうか逆に、そこ、信じてくれるんですね!? わたしが嘘をついてるかもしれないのに」
「あの男ならば、何を知っていても不思議はありませんからね」
隠そうともせずうんざりした表情を浮かべて、ニカンドロス。
「アルキビアデスは、相手の心を巧みに蕩かす弁舌の主です。そうしようと思えば、たいていの相手からは、望みの情報を思うままに聴き出してしまう――」
「ちょっといいっすか、神官長?」
横から、アラクネが手をあげた。
「それはつまり……Εの仲間のうちの誰かが、ファルマキアちゃんよりも先に、アルキビアデスにΕの存在を明かしてた、ってことっすよね……?」
言いながら、アラクネの茶色の目は、まっすぐにソクラテスのほうを向いている。
雄弁な疑惑の視線に気づき、ソクラテスは、はっきりと否定の身ぶりをした。
「いや、違う。僕ではない。それははっきりと言えることだ。……もちろん、クサンティッペも違う。彼女は、アルキビアデスと直接会ったこともないんだ」
「その件については、すでにデルフォイで調べてきました」
面倒くさそうに手を振って、ニカンドロス。
「徹底的にね。その結果、ある者が、アルキビアデスが以前デルフォイに来たときに――いや、過ぎた話を、長々としても仕方がない。とにかく、その件については、すでに対処済みであるとだけ言っておきましょう」
「おおう……誰かすでに消されたやつがいる説……おにいさん、仕事がはやいッ」
「何しろ、前にも言いましたが、デルフォイでは神託うかがいのための犠牲獣として大量の牛が屠られますからね……そこに、少しくらい、別のものが混ざったところで……」
「ちょっと待ってちょっと待っておにいさん!? 今サラッとマジで激コワな話聞いた気がするんですけど!? ファルマキアちゃんの歓迎会のときの肉、アレ大丈夫なやつだった!?」
「ニカンドロス君! それは、絶対に許されない行いだ。神々への冒涜だよ!」
ソクラテスも、ファルマキアと一緒に叫ぶ。
ファルマキアは思わず、あの夜いっしょに飲み食いしていたアラクネの顔を見たが、彼女の表情はちょうど長い髪に隠されていて見えなかった。
「はっはっは。冗談ですよ」
「そう言うおにいさんの顔がまったく笑っていない説!? え、マジでシャレにならないんだけど、ほんとにほんとに大丈夫!?」
「少しは脅かしておけば、薬になるかと思いまして」
にやりと笑って、ニカンドロスは言った。
「わたしたちは、アルキビアデスに答えました。『デルフォイは、アルキビアデスと、シケリア遠征を支持する』――
その答えの対価として彼から贈られた黄金で、作戦のための資金はじゅうぶんにある。デルフォイは――Εは、破滅的な混乱を防ぐために、アルキビアデスのシケリア遠征を止めなくてはならない。君に、そのための策があるというのならば聞きましょう」
「あ、やっぱり、もらうものは全部もらっておいてアレするんですね……」
「当たり前じゃないですか。我々が何年、神託所やってると思ってるんです」
ニカンドロスは、平然としている。
「で、策は? このわたしを呼び出しておいて、実は策なんてなかった、などということは許されませんよ。焼肉になりたくなければ、さっさと話しなさい」
「うわ、はっきり言った!? ちょっと! あの夜の焼肉、ほんとのほんとに大丈夫!?」
ひとしきり騒いでから、
「とにかく、アルキビアデスをアレしても、アテナイのシケリア遠征は止まらないと思うんで」
ぴたりと騒ぐのをやめて、ファルマキアは大きく両腕を広げた。
「おにいさんの根回し力と、アテナイの民主制に期待! アルキビアデスを、単にアレするんじゃなく、社会的に抹殺する作戦~!」
「社会的に?」
「そうそう」
ファルマキアは、にやりと笑って言った。
「これからアテナイで、ある事件が起こるんです。その首謀者は、アルキビアデス」
「おや、本当に?」
「もちろん。みんなが本当だと信じたことが、本当なんです。デルフォイの神託みたいに。
おにいさんがすばやく到着したおかげで、暦的にも好機! さあ、さっそく準備にかかりましょう!」




