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第18話 「計画」

 一同がアロペケ区のソクラテスの家へ戻ったとき、家の中は、泥棒にでも入られたようにむちゃくちゃになっていた。

 ほとんどすべての家財道具が引っくり返され、床に散乱している。

 そして、クサンティッペも、赤ん坊もいなかった。

 完全に無人だ。

 真っ青になったソクラテスが、何か言うよりもはやく、アラクネが言った。


「お二人は、今、あの人の家に行ってるっす。ほら、あの……魚を譲ってくれた人。クリトンさん? でしたっけ? あの人のところに。ウチが自分で送り届けたから、間違いないっす。アルキビアデスの配下に連れていかれたとかじゃないんで、そこは、安心していいっすよ」


 ほう、と息を吐いて、ソクラテスが床に座り込む。

 ファルマキアは、動かなかった。

 笛奏者(アウレートリス)に扮するために持っていた楽器を置いたアラクネが、その場に立ったまま、まっすぐにこちらを見ていたからだ。


「ウチから言いたいことは、山ほどあるっすが……まずは、いったいどういうことなのか、説明してもらっていいっすか?」


「僕が、話そう」


 口を開きかけたファルマキアを制して、ソクラテスが片手をあげた。


「これは、僕が言い出したことなのだ。責任は僕にある……」


 彼は、これまでの出来事を、順を追って説明しはじめた。

 民会でのアルキビアデスの演説と、それを熱狂的に支持した市民たちの様子。

 民会が終わったあと、アルキビアデスを追い、直接話そうと試みたこと。

 スペーケス(スズメバチ)と呼ばれる、アルキビアデスの配下が襲ってきたこと。

 往来での会話。

 そして、アルキビアデスの館への訪問――

 あの部屋で交わされたやりとりをソクラテスが再現するのを聞くうちに、アラクネの表情は、長い髪に半分隠されていてもはっきりと分かるくらい、険しくなっていった。


「何すか、それ……Ε(エイ)のことまで、全部ばれて……もう、何もかも、むっちゃくちゃじゃないっすか!」


「ごめーん……いや、アラクネちゃん、ほんとにごめん! アルキビアデスのほうが、先に勘付いてたけど、わたしも、つい勢いでさー」


 重い空気を振り払おうとするように、ファルマキアは、明るく言ったが、当然というべきか、アラクネの表情は変わらない。


「ファルマキアちゃん……どうして、あいつをやらなかったっすか?」


 ()()()というのは、もちろん、アルキビアデスのことだ。


「ウチらが入っていったときの、部屋の状況……あの状況なら、ファルマキアちゃんの実力があれば、確実に、あいつをやれてたはずっすよね? それなのに、どうして、やらなかったっすか?」


 返答次第によっては――と、静かな威圧感を漂わせたアラクネの問いに、


「いやー……」


 ぽりぽりと頭をかきながら、ファルマキア。


「まあ、一言でいうと……アルキビアデスをアレしたところで、『シケリア遠征を止める』っていうΕ(エイ)の目的は達成されないと思ったから、かな! むしろ、アルキビアデスをアレすることで、より収拾つかなくなる説!」


「どういうことっすか?」


 眉を寄せたアラクネに、ファルマキアは、民会で目にした光景について語った。

 アルキビアデスに扇動され、シケリア遠征を熱狂的に支持するアテナイ市民たちの様子。


『シケリア遠征は、ぼくの意思じゃない。アテナイ市民たちの意思なんだ。ぼくは、市民たちの望みを――彼らの思いを代弁しているにすぎない。そう、君のいうとおり、ぼくを殺したって遠征は止まらない。だって、アテナイが、それを望んでいるんだから!』


 そうアルキビアデス自身が語ったとおり、彼を殺したところで、シケリア遠征は止まらない可能性が高いこと。


「それは、言い訳っすよ、ファルマキアちゃん」


 じりり、とアラクネの爪先がわずかに前に出る。

 その視線は、ファルマキアにまっすぐに向けられたままだ。


「蛇は、頭をつぶせば死ぬ。……市民たちを煽って、まとめあげてる張本人であるアルキビアデスをやれば、遠征は、ナシになる方向で動き出すっす」


「わたしは、そうは思わなかったな」


 ファルマキアもまた、じわりと爪先に体重をのせながら、アラクネの目を見つめて続けた。


「アラクネちゃんは、直接見てないから、実感わかないかもしれないけど。あいつの人気、ほんとにすごいんだよ。熱狂的な支持者がたくさんいる。アルキビアデスが死んでも、あいつの名前と、影響力は残るんだから。

『これは反対派の陰謀だ!』『アルキビアデスの遺志を継げ!』『弔い合戦だ!』なんてことになって、誰かが、代わりの将軍になって、結局、遠征には行くことになったはず!」


「『はず』なんて言葉は、任務には要らんっす。やれば分かることっす。

 やって、それでも状況が変わらなかったら、その時に、次の方法を考えればいいことっすよ――」


 今にも二人が互いに飛びかかりそうになったとき、


「まあ、まあ」


 ゆっくりと立ち上がったソクラテスが、両手を二人のあいだに入れてかき分けるような動作をしながら、言った。


「落ち着きたまえ、二人とも。……いや、僕が言うな、という話だが。

 さっきも言ったとおり、今回の出来事の発端をつくったのは僕だ。責任は、僕にある。君たちが争うことはない。Ε(エイ)が償いを求めるなら、僕が出向こう。ここで、君たちが互いに争ったところで、戦力が減るばかりで、事態は何も好転しない……」


 一瞬後には両側からの攻撃に挟まれて命を落とすかもしれない状況を、まるで意にも介さず、ソクラテスは、疲れたような表情で二人を見た。


「それよりも、僕の妻と息子は、どうしたって? さっき、彼女たちはクリトン君のところに行ったって……」


「そうっすよ」


 重心の位置は変えないまま、アラクネが答える。


「アルキビアデスの館に向かう前に、クリトンさんにお願いして、ウチが、クリトンさんの家まで、二人を送っていったっす。ここに、アルキビアデスの配下が来るかもしれないと思ったっすからね……」


「はい、はい! 質問でーす!」


 まっすぐに手をあげて、ファルマキア。


「アラクネちゃんは、どうして、アルキビアデスの配下がここに来るってわかったの? アラクネちゃんは、この家に残ってて、わたしたちがアルキビアデスの館に行くことになったことも知らなかったはずなのに――」


「だから、それも全部、クリトンさんのおかげなんすよ」


 うんざりしたように髪をかき上げて、アラクネ。


「クリトンさんが、ウチらに知らせてくれたんす。ソクラテスさんとファルマキアちゃんが――クリトンさんは、変装にだまされて、ファルマキアちゃんのことを『少年』って言ってたっすけど――アルキビアデスたちともめたあげく、彼の館に招かれた、って! クリトンさんも、民会に出席してたから、その帰りに、一部始終を目撃してたってわけっす。それで、なんだか厄介なことにありそうだっていうんで、走って、ウチらに教えに来てくれたんすよ!」


「あー……そういうことだったんだ」


 顔も見たことのないソクラテスの「弟子」に、ファルマキアは激しく感謝した。

 前回、魚をくれたばかりでなく、今回はクサンティッペたちを危険から救ってくれたのだから、いくら感謝しても足りないくらいだ。


「話を聞いた瞬間、ウチは、これはヤバいと思って、クリトンさんにお願いして、クサンティッペさんと赤ちゃんを預かってもらうことにしたっす。途中で襲撃されることも考えて、ウチも家まで付き添って。……思ったとおり、ウチらがこの家を出た、すぐ後に、アルキビアデスの配下がここに来たっすね。クサンティッペさんたちを人質にとろうって魂胆で、家探しして……いや、もう、ウチ、マジで焦ったんすよ!?」


 アラクネが、突然両手をわななかせて叫んだ。

 これまで抑えていた感情が、抑え切れずに噴き出した、という調子で。


「事前の打ち合わせのときは、アルキビアデスに接触はしない、って話だったのに、全部、むちゃくちゃになってるじゃないっすか! なんで、こんな勝手な――」


 そこまで叫んで、アラクネは、ふーっと大きく息を吐き、乱れた長い髪を両手でかき上げた。


「ファルマキアちゃん。ウチは、ファルマキアちゃんが仲間になってくれて、ほんとに嬉しいと思ってるっす。こんなに話が合う相手は、今まで生きてきて初めてっす。だから、ファルマキアちゃんと、やりあいたくはないんすよ。

 それに、ソクラテスさん。ウチは、正直、哲学のことは分からんっすけど、ソクラテスさんの生き方、なんていうか、嫌いじゃないっす。それに、Εの仲間だから、やっぱり、やりあいたくはないっす。

 だから、二人とも、こういう勝手なことをするのは、もう、マジでやめてほしいっす。次は、ないっす。マジで」


「すまなかった……」


「ごめんねー!」


 アラクネにずんずんと歩み寄り、ひしと抱きしめて、ファルマキア。


「わたしも、アラクネちゃんが怒るかなー? とは思ったんだけど、つい、勢いで突っ走っちゃった。何の相談もなしに暴走しちゃって、ほんと、ごめん! アラクネちゃんが機転をきかせてくれなかったら、アルキビアデスにクサンティッペさんたちの身柄を握られて、最強にややこしいことになってた……」


「いや、もう、本当っすよ……」


 ぎゅうとファルマキアを抱き返して、アラクネ。


「ていうか、すでに、だいぶややこしいことになっちゃってるっす。アルキビアデスは、今回のことで警戒して、警備をガチガチに固め直すはずっす。あいつを狙うのは、今まで以上に難しくなった……

 それに、ウチらがはやく仕事を片付けないと、デルフォイで待ってるニカンドロスさんが業を煮やして、逆に、ウチらを始末しにかかる可能性があるっす」


「おおう。そういえば、神官長のおにいさんのこと、すっかり忘れてた!」


「忘れてた、じゃないっすよ! ていうか、そもそも、アルキビアデスはウチの神託所のお得意様だって言ったじゃないっすか! あいつが直接、デルフォイに使者を送って苦情をねじ込んだら、ニカンドロスさん、なんでバレてんだって激怒するっすよ……!」


「うーん……あれから毎日、飛翔回し蹴りの特訓してきたけど、果たして、おにいさんが来るまでに仕上げられるかどうか……」


「それもう迎え撃つ前提じゃないっすか! 違うっす! それまでに、ウチらでアルキビアデスを片付けるんすよっ!」


「うーん……(カレンダー)的に、それはちょっと難しいかな!」


「いや、難しいとか言ってる場合じゃ……って……何すか? (カレンダー)的に、って」


「アルキビアデスを片付ける計画」


 ファルマキアは、にやりと笑った。


「ソクラテスさん!」


「何かね?」


「ソクラテスさんは、おにいさんと――ニカンドロス神官長と、急ぎのつなぎがつけられますか?」


「それは、いざというときのために、取り決められた方法はあるが……」


「じゃあ、お願いします。今、すぐに!」


「今!?」


「そう」


 念入りに指折り数えながら、ファルマキア。


大至(エーデーエーデー)急です(タキュタキュ)! でないと、間に合わないかも。(カレンダー)的に!」



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