001
銀河連邦警察、治安維持局、特異事象対策室。
知っているか?
――なに、知らない? まあ、無理もない。
銀河連邦警察まではだれでも分かる。治安維持局も、その名前から役割を想像することくらいはできる。だが、特異事象対策室となると、大体の人間がお手上げだ。俺だってそうだ。
もし自分に子供がいたと仮定して、ちょっと想像してみてほしい。
「将来の夢はなあに?」と我が子に問いかける。返ってきた答えが「特異事象対策室!」なんていうガキは、この広大な銀河のどこを探したっていやしない。もしそんな偏屈な子供が実在したら、親は我が子がどこか頭でも強打したんじゃないかと疑い、何件も精神科の病院を回る羽目になるだろう。
つまり、そういう日陰の仕事なのだ。
けどな、大事な仕事なんだぜ。
何から話せばいい。そうだ、アーティファクト。アーティファクトは知ってるか? え、それも知らない? 参ったな。ええと、それじゃ……。
「あ、ちょ、待って……」
立ち去っていく女の後ろ姿に、引き止めるかのように手を伸ばし、そして男は力なくテーブルへとペタリと腕を落とした。
まただ。また入口で門前払い。自分の仕事を説明しようとするだけで、相手の脳内のシャッターがガラガラと音を立てて閉じてしまう。
ああ、自分の境遇が憎らしい。
グラスに注がれた安酒をぐいっとあおる。うまい。最悪の気分だというのに、アルコールだけは律儀に脳を痺れさせてくれる。
ついでに、女がさっきまで座っていた場所に残された、一口も付けられていないグラスを掴み、それも一気に喉へ流し込んだ。なんだこれ。ただのジュースじゃないか。ちくしょう、気取ったもん注文しやがって。子供じみた悪態が、男の頭の中で行きつ戻りつする。
「クーンクンクンクン。お、負け犬の匂いがするぞ」
背後から響いた、不快なほど陽気な声。男は反射的に全身の筋肉を緊張させた。何度聞いても、こいつのふざけた声だけは生理的に受け付けない。
「犬はお前だ、ガルド」
「はあー……。挑発すら覇気がないぜ、ギルダス。つがいになれなかったなんていつもの事だろ」
「うるさい! 元はといえばお前が先の任務で大暴れしたから、俺が始末書だらけになってモモさんとデートにいけなかったんだぞ!」
ギルダスはガルドを睨みつけながら言った。
その言葉通り、ガルドの姿は犬によく似ていた。いわゆる獣人だ。全身を覆う漆黒の毛皮と、感情に合わせてピクリと動く耳。何より筋骨隆々としたその体躯は、彼が地球人ではない異星の知的生命体であることの、これ以上ない物理的証明だった。
「そう言われたって、なあ? 敵は立てこもってたんだし、銃弾の効かない俺が突撃してよかっただろ」
「突撃しろとは言ったが乗用車三十台壊せとは言ってないぞ」
「誤差だ、誤差。犯人グループがやった事にしとけ」
「それは文書偽造だ。この駄犬」
ついでに付け加えておくと、ガルドの皮膚は人間よりも遥かに頑強だ。通常の銃弾や刃物で切りつけた程度では傷一つ付かない。それなのに、その毛並みだけはフサフサと無駄に柔らかいのが、ギルダスの神経を逆撫でする。
「それにしても何でお前はモテねえのかねえ……。やっぱ金がないからか?」
「それは、お前の、せいで、減給、されてる、からだ」
ギルダスは怒りを噛み潰すように、一言一言を切って吐き出した。
だが、そんな嫌味もガルドの分厚い面皮には1ミクロンも届いていないようだった。まったく、非人類の感性というのは理解しがたい。
「ほら、こんなとこでしょげてても仕方ねえだろ。訓練室でストレス解消しようぜ」
「犬と遊ぶ趣味はない」
「女とすら遊んでもらえねえのに?」
「分かってないな。射撃の腕は俺のほうが遥かに上だ。いくらお前でも強力な麻酔弾を何発も撃ち込まれたらお手上げの筈だぞ」
「おーこわ。実弾使うつもりかよ。その腕前で意中の相手も射止められたらよかったのにな」
ぷちん、ぷちんと、脳内の血管が順番に弾け飛ぶ音が聞こえた気がした。ギルダスは極めてゆっくりと席を立つ。アルコールによる心地よい酩酊は、すでに綺麗さっぱり消え去っていた。
「お、いいね。ノッてきた顔してる」
ギルダスの殺気を感じ取り、ガルドもニヤリと牙を覗かせて立ち上がる。
ズボンの隙間から伸びる太い尻尾が、嬉しそうに左右に揺れていた。くそ、身も心もこれっぽっちの隠し立てもできない犬のクセに。改めて、ギルダスはこの怪物じみた相棒との腐れ縁を呪った。
「今日こそコテンパンにしてやるからな。覚悟しとけよ」
「勝ったほうが晩飯のおごりな」
「おごりもなにも、いつもバカスカ食って俺に請求回してるだろうが! いい加減自分で払え!」
肩を怒らせ、バーの自動ドアを乱暴に蹴破るようにしてギルダスは出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、ガルドはヒューッと気の抜けた口笛を吹き、頭の後ろで腕を組んで後に続いた。
やっぱり人間ってのは面白い。実にからかい甲斐がある。
これだから、この広い宇宙でも退屈せずに済むのだ。
「あら、ギルダスにガルドじゃない」
バーを出て訓練ルームへと向かう通路に、不意に、しかし極めて明瞭な女の声が響き渡った。
「も、モモさん?」
「あれ、どうしたんだ? 今日はもうあがりか?」
突然の遭遇に、まるで骨格の制御を失ったかのように緊張するギルダス。それとは対照的に、いつもと変わらぬ弛緩した調子で応じるガルド。これが巷で言う「余裕のある男」というやつなのだろうか。ギルダスは己の不甲斐なさを脳内で呪った。
「今日はこれから分析室よ。この前あなた達が持って帰ってきてくれたアーティファクト。凄く小さいけど、状態は安定してるから、壊しちゃう前に色々研究しようって他の鑑定官のみんなと決めたところなの」
「あ、そうなんすか。じゃ、気を――」
「まあ気をつけな。何かあったらすぐにエーテルガンで壊しちまえ。アーティファクトなんてまた持ってきてやる」
言い淀んでいる隙に、言おうとした台詞の先をガルドに掠め取られてしまった。悔しい。これほど身近にありながら、なぜ自分には彼女の領域に堂々と踏み込む度胸が欠けているのか。任務中であれば、どれほど致命的な危険が待ち受けていようとも、迷わず引き金を引き、飛び込んでいけるというのに。
「うふふ、ありがとう二人とも。それじゃ行くわね。そういえば室長が探していたわよ」
「あ、はい。気を付けて、モモさん」
緩みきった顔で手を振るギルダスを、ガルドはただ冷ややかに見つめていた。そこまで彼女に対して脳味噌を蕩けさせているのなら、いっそその流れに任せてもう一度デートにでも誘ってみればいいものを、と犬の脳髄は考えているのだろう。
「……待ってくれてる人が室長とは」
「うるさいぞ、ガルド」
ガルドの余計な一言がギルダスを現実へ引き戻す。こめかみの血管がピクピクと、苛立たしげに痙攣を始めた。そうだ。俺はこれから、この駄犬を訓練ルームで徹底的に痛い目に遭わせる予定だったのだ。今日こそは、どちらが精神的・肉体的上位に位置しているかを骨の髄まで分からせてやる。ギルダスは暗い闘志を燃え立たせた。
「あ、そうだ!」
不意に、すでに数メートル先まで歩いていたモモがこちらを振り返り、声を張った。
「この前の食事、一緒に行けなくてごめんなさいね、ギルダス! お詫びの差し入れ、ガルドに渡してあるんだけど、貰ったかしら? また今度行きましょう!」
モモは再び快活に手を振ると、今度こそ己の任務を果たすべく、通路の角へと消えていった。
「……お詫びの品?」
「あー……、忘れてたぜ。ホラ、これ」
ガルドがポケットから、ひどく雑に扱われた様子のシワシワのビニール袋を差し出してきた。
ギルダスが中を覗き込む。そこには、上品な個別包装に包まれた洒落た洋菓子が四つ、所在なげに転がっていた。一体どこでこんな趣味の良いものを見つけて買ってきたのだろう。デートに誘ったのはこちらなのに、断られた側からここまで気を使わせるなんて――ギルダスの胸が感謝と愛おしさで満たされかけた、その瞬間だった。
「おい、待てよ。こんな洒落た菓子が、最初からビニール袋に入っているわけないだろ。ちゃんとした箱に入っていたはずだ」
「おお、入ってたぜ。よく分かんねえ模様の、小綺麗な箱にな」
「食ったのか? まさか」
「結構な量入ってたんだぜ? お前一人じゃ食いきれねえだろ。それにアレだ、毒味ってやつだ。テレビのジポン映画でそんなのを観た」
人間の脳の血管というのは、一体何本まで同時に弾け飛んでも生存可能なのだろうか。そんな無意味な疑問が不意に脳裏をよぎるほど、ギルダスの神経は凄まじい速度で切断されつつあった。
「毒味ってのは少し食べるんだ。殆ど食うやつがあるか。それにジポンじゃない、ジャパン。日本映画だ」
「もったいねえよなあ。あーいう映画作った地球が、今じゃ殆どが海の底なんて」
「話をそらすな! ……ん? ちょっと待て。お前、その映画は当然レガシーチャンネルで観たんだよな?」
「それ以外どこで見れる?」
ギルダスは深く呼吸をし、自らの記憶の引き出しを乱暴に引っ掻き回した。今月の給与明細、なぜこんなにも多額の通信料が引き落とされているのだろう、と首を傾げた記憶が、鮮明な映像を伴って蘇ってくる。
「つまり、お前はモモさんの差し入れを勝手にあらかた食って、更に俺のクレジットであのバカ高いレガシーチャンネルを何時間も観たんだな?」
「定額じゃねえって知らなかったんだって」
「そういう問題じゃない!」
滑らかな金属音を立てて、ギルダスのホルスターからエーテルガンが引き抜かれた。その銃口が真っ直ぐにガルドの眉間に向けられる。
さすがのガルドも、高エネルギー光線を射出する兵器を至近距離で突きつけられては分が悪いと察したのか、胸のあたりで所在なげに両手を挙げた。
「貴様、今日こそはその腐った性根叩き直してやるぞ」
ギルダスは迷わず引き金を引いた。
放たれた熱線が空気を焼き、ガルドが「うわっ」と小さく悲鳴を上げて上体を逸らす。避けた軌道の先、熱線は通路に置かれていた観葉植物に直撃し、それを一瞬で炭化させて蒸発させた。
「本当に撃つことねえだろ!」
「うるさい! 貴様のような犬は一度キツく躾してやったほうが世のためだ!」
怒号を上げながら訓練ルームへとガルドは逃げ込む。ギルダスはエーテルガンを構えたまま、獲物を追う猟師の目をしてその後を追った。
すでに訓練ルームを使用していた先客たちは、部屋に飛び込んできた二人の間に漂う、致死量の殺気と極めて不穏なエネルギー反応を察知するや否や、誰一人余計な口を挟むことなく、一人、また一人と静かに荷物をまとめて退室していった。もっとも、銀河連邦警察署において、この光景はもはや、ありふれた日常の一コマに過ぎないのだが。
「母星じゃ俺は結構品行方正な部類なんだぞ」
「なら貴様らの惑星もろともこの俺が躾けてくれる」
「いまのは問題発言だぞ!」
「問題だらけのお前に言われたくない!」
無機質な白磁の訓練ルームに、エーテルガンの熱線が幾重にも反響し、男と獣人の罵り合う声がこだまする。
ギルダスの放った執拗な一撃が、すばしっこく逃げ回るガルドの尻尾の先端を掠め、その豊かな黒毛を微かに焼き焦がした。
「ギャッ!」とガルドが間抜けな声を漏らす。
フム、なかなかいい腕前じゃないか、とギルダスは自らの精密な射撃技術に、しばしの満足感を覚えていた。
◇
「この大馬鹿どもがっ!」
部屋の隅々にまで、男の放った暴力的な怒号が反響した。
うるさいなあ、と内心で毒づきながら、ガルドの黒い耳がピクリと不快そうに動く。耳が痛くてかなわない。ギルダスが喚き散らす金切り声にはとうに耐性ができているが、目の前の男が発するこの重低音の怒声だけは、未だにどうにも苦手だった。
「……お前たちを呼び出したのは、先の任務で発生した損害額についての話を執り行うためだったはずなのだがな」
目の前にそびえるデスクの主は、荒い息を整え、辛うじて理性の枠内に己の感情を押し留めようと努めながら言った。
チーク材の重厚な机の上には、真鍮製の厳かなプレートが鎮座している。そこには『銀河連邦警察 治安維持局 特異事象対策室 室長 ハリス』と刻まれていた。それにしても無駄に長い肩書きだ。もう少し短縮化できないものか、とガルドの隣で直立不動の姿勢を取るギルダスは、どうでもいいことを考えていた。
「乗用車三十台を完璧にスクラップにしたのはコイツです、室長」
「突撃という名の無謀な命令を下したのはコイツです、室長」
「ええい、馬鹿かっ! どっちがどっちという責任の擦り合いなどしておらん! 事件の解決自体は喜ばしい。だがな、お前たちが毎度毎度、周囲の物理法則を無視したかのように大暴れしてくれるおかげで、こちらに回ってくる損害賠償の請求書がどれほどのデータ量になっていると思っている! ギルダス! お前も他人事のような顔をするな。毎回、四方八方へ無軌道にエーテルガンを乱射しおって」
ハリスの脳天が再び沸騰を始め、目に見えない蒸気を吹き出し始めているのを受け流しながら、ギルダスとガルドは「だってあの状況じゃ、あれ以外の選択肢はなかったよな」と、視線だけで互いに弁明を交わし合っていた。不思議なことに、こうした絶対的な危機に直面したときだけは、この人間と獣人は、まるで長年連れ添った親友のように息を合わせる。
「あれ、またやってんの?」
「そういうこと。巡回お疲れさん。飲む?」
対策室の防音扉をすり抜けて入ってきた男に、先程からこの不毛な三つ巴の応酬を呆れたように傍観していたもう一人の男が、湯気の立つ合成コーヒーを差し出した。
『グリフ』という名札の置かれたデスクに腰掛けている男の背中には、純白の見事な翼が畳まれている。彼は有翼人種と呼ばれる稀少な種族だ。そして彼にコーヒーを手渡した男のデスクには『ゴードン』とあり、そちらは長い手足と極めて柔軟な関節を持つ、猿型の獣人だった。
「その上、なんだ。つい先程、訓練ルームでエーテルガンを無断使用して空間を破壊したという報告が上がってきたぞ。お前たちの部署の脳味噌はどうなっているんだ、という苦情付きでな」
「実戦を想定した、極めて高度な戦闘訓練を執り行っていただけであります」
「そうであります」
「射撃訓練用のホログラムでもない訓練ルームで、実戦仕様の熱線を使用する大馬鹿が宇宙のどこにいる! 訓練室の壁面補修費は、すべて我が対策室の予算から捻出せよと厳命されているのだぞ!」
そういえば、あの時は怒りに身を任せるままに撃ち合い、我に返ったときには、周囲の強化障壁がドロドロに融解した悲惨な光景が広がっていた。焦げた尻尾を恨めしそうに抱えるガルドとともに、その惨状を呆然と見渡し、「今回は引き分け」ということで無理やり手打ちにしたのだった。まあ、状況的には俺の方が圧倒的に優勢だったがな、とギルダスは密かに悦に入っていた。
「まあいい、損害額の件はそれで納得しろ。すべてお前たちの次回の給与から、等分に天引きしておく」
「えっ、そんな! そりゃないですよ室長。これで連続五回目の減給処分ですよ」
「安心しろ。連邦法が定める最低生活保障賃金の基準には、まだ僅かに届いておらん」
「アーティファクトを取り扱う専門部署のくせに、夢も希望もねえ話」
ガルドは退屈そうにあくびを噛み殺し、頭の後ろで太い腕を組んだ。どうやら彼の貧弱な集中力は、もう限界を迎えたらしい。こらえ性のない駄犬め。その辺の惑星に野生化している本物の四足歩行の犬の方が、よっぽど命令に従ってじっとしていられるのではないか、とギルダスは心の中で毒づいた。
「結構なことだ。たまには現実に引きずり下ろされて、身の程を知った上で働くがいい。予算が恒星のエネルギーのように無限に湧き出ると錯覚しているから、そんな無謀な真似ができるのだ」
くそ、ただでさえ生存率の低い危険極まりない仕事に従事しているというのに。このままでは栄養剤すら買えずに干からびてしまう。どうにかしてこの説教の焦点をうやむやにし、話を切り上げてこの部屋から退散しなければ、本当に財布が物理的に消滅してしまう。ギルダスは直立不動の姿勢を維持したまま、眼球だけを素早く動かし、この窮地を切り抜けるための突破口を必死に模索した。
「――あ、お話し中ごめんなさい、室長」
「ん? どうしたね、モモ君」
不意に室内の通信モニターが電子音を立てて起動し、モモの知的な容姿が映し出された。
なんだ、残念だ。どうせなら空間投影式の立体ホログラムディスプレイを起動してくれれば、彼女の輪郭をより立体的に堪能できたというのに。だが、タイミングとしては完璧だ。ギルダスはハリスに気取られないよう、肺の中の空気を深く吐き出した。
「緊急連絡です。局所的な高エネルギー反応を検知。スペクトル分析の結果、高確率でアーティファクトの活性化と思われます。エネルギーの出力状態は極めて高い水準で安定しており、すでに周辺の時空性質に変性をもたらしている模様です。銀河連邦本部より緊急の出動要請。座標は、へびつかい座バーナード星系第三惑星、サクリファ。地球基準での距離は、約五・九六光年です」
「フム……。聞いた通りだ、二人とも。減給の件は、今回の任務の成果いかんによっては、免除してやらんことも――」
ハリスが視線をモニターから手前の床へと戻したとき、その老練な鑑定官のような眼が驚愕に丸くなった。
ほんのコンマ数秒前までそこに立っていたはずの男と獣人の姿は、光の屈折すら残さず、綺麗さっぱり消失していた。
「もう行っちゃいましたよ」
ゴードンが、長い腕を伸ばして退屈そうに伸びをしながら言った。
おのれ、自分たちに都合の良い口実ができるや否や、音速で逃亡しおったか。ハリスは怒りで握りしめた拳が、小刻みに震えるのを自覚した。連邦警察の専属医師からは、これ以上の血圧上昇は脳の微小血管に致命的な影響を与えるため、ストレスを極力溜めないようにと厳重に警告されているというのに。いっそのこと、古代から続く打撃格闘技であるボクシングでも始めてみるか。あいつらのふてぶてしい顔面をサンドバッグの表面に投影して叩くのは、さぞかし精神衛生上、素晴らしい効果をもたらすに違いない。
「室長、お電話ですよ」
甘美な妄想に浸りかけていたハリスの鼓膜に、グリフの涼やかな声が容赦なく滑り込んできた。
「……何の連絡だ?」
「訓練ルームのすぐ外に飾られていた観葉植物。あれ、わざわざ地球の特別保護区で栽培されているものを買い付けた貴重品なんですけど、『お前たちのところの野良犬が消し炭にしおったが、どう責任を取るつもりだ』だそうです」
グリフの事務的で冷淡な声が脳細胞を刺激するたびに、ハリスの頭頂部の血管が、今度こそ完全に一本、また一本と引きちぎられていく感触があった。
「なるほど。どうやらあの獣どもには、少々手厳しい躾というものが必要なようだな」
ハリスは手元のコンソールを起動すると、一切の躊躇なく、特定の機密コマンドを入力した。そして、躊躇うことなく実行ボタンを叩きつけた。




